Chapter 1
私は昨日合本三太郎の日記の初校を了へた。もうこれからは永久に手を觸れることを罷めるつもりで、今囘は初校も再校も三校も凡て自分で眼を通すことにしたのである。さうして二度も三度も舊稿を讀みかへしながらどんな心持を經驗したか、私は今これを語ることをやめようと思ふ。此處に集めたものは既に一旦公けにしたものであれば、今更自ら恥ぢ自ら躊躇してももう及ばない。現在の自分がよいと思ふものと惡いと思ふものとをよりわけて、我慢が出來るものだけを殘すことにするにしても、そのよきものと惡きものとが分つべからざるほど絡み合つてゐる以上は、これも亦如何ともすることが出來ない。私は唯思想上藝術上人格上未熟を極めたる此等の文章も、猶當時の混亂せる内生から直接に發芽せる生氣の故に、私の如く内密な、恥かしい、とり紊したる思ひの多い人達に、幾分の慰藉と力とを與へ得ることを、せめてもの希望とするばかりである。
改めて云ふまでもなく、三太郎の日記は内生の記録であつて哲學の書ではない。若しこの書に幾分の取柄があるとすれば、それは物の感じ方、考へ方、並びにその感じ方と考へ方の發展の經路にあるのであつて、その結論にあるのではない。單に結論のみに就いて云へば、其處には不備や缺陷が多いことは云ふまでもなく、又相互の間に矛盾するところさへ少くないであらう。殊に本書の中にある思想をその儘に、今日の私の意見と解釋されることは私の最も不本意とするところである。私の哲學は今も猶成立の過程の最中にあつて、未だ定まれる形をとるに至らない。この問題に就いては他日又世間の批評を請ふ機會があることを期待する。併しこの三太郎の日記に於いては、特に内生の記録としてのみ評價せられむことを、親切なる讀者に希望して置きたい。
併し三太郎の日記の中には、少くともこれを書ける當時に、或種類の問題の解釋を求めて、その結果到達せる處を記録せる文章も亦少くない。從つてそれが餘りに現在の意見と背馳するか、あまりに一面觀に過ぐるか、若しくはあまりに大膽なる斷定を下してゐる場合には、現在の立脚地から見て、如何にもその儘に看過し難き拘泥を感ぜずにはゐられない。故に私はせめて二三の點に就いて、一言の註釋を附記して置きたいと思ふ。それは註釋のない部分は凡て現在の意見と合致するといふ意味ではない、唯註釋のある部分が到底そのまゝに通過し難きほど、現在の私にシヨツクを與へると云ふ意味なのである。