Chapter 1 of 5

曠野

路に迷つたのだ!

と氣のついた時は、此曠野に踏込んでから、もう彼是十哩も歩いてゐた。朝に旅籠屋を立つてから七八哩の間は潦に馬の足痕の新しい路を、森から野、野から森、二三度人にも邂逅した。とある森の中で、人のゐない一軒家も見た。その路から此路へ、何時、何處から迷込んだのか解らない。瞬きをしてゐる間に、誰かが自分を掻浚つて來て恁麼曠野に捨てて行つたのではないかと思はれる。

足の甲の草鞋摺が痛む。痛む足を重さうに引摺つて、旅人は蹌踉と歩いて行く。十時間の間何も食はずに歩いたので、粟一粒入つてゐない程腹が凹んでゐる。餓と疲勞と、路を失つたといふ失望とが、暗い壓迫を頭腦に加へて、一足毎に烈しくなる足の痛みが、ずきり、ずきり、鈍つた心を突く。幾何元氣を出してみても、直ぐに目が眩んで來る。耳が鳴つて來る。

戻らうか、戻らうか、と考へながら、足は矢張前に出る。戻る事にしよう。と心が決めても、身體が矢張前に動く。

涯もない曠野、海に起伏す波に似て、見ゆる限りの青草の中に、幅二尺許りの、唯一條の細道が眞直に走つてゐる。空は一面の灰色の雲、針の目程の隙もなく閉して、黒鐵の棺の蓋の如く、重く曠野を覆うてゐる。

習との風も吹かぬ。地球の背骨の大山脈から、獅子の如く咆えて來る千里の風も、遮る山もなければ抗ふ木もない、此曠野に吹いて來ては、おのづから力が拔けて死んで了ふのであらう。

日の目が見えぬので、午前とも午後とも解らないが、旅人は腹時計で算へてみて、もう二時間か三時間で日が暮れるのだと知つた。西も東も解らない。何方から來て何方へ行くとも知れぬ路を、旅人は唯前へ前へと歩いた。

軈てまた二哩許り辿つてゆくと、一條の細路が右と左に分れてゐる。

此處は恰度曠野の中央で、曠野の三方から來る三條の路が、此處に落合つてゐる。落合つた所が、稍廣く草の生えぬ赤土を露はしてゐて、中央に一つ潦がある。

潦の傍には、鋼線で拵へた樣な、骨と皮ばかりに痩せて了つた赤犬が一疋坐つてゐた。

犬は旅人を見ると、なつかしげにぱたぱた細い尾を動かしたが、やをら立上つて蹌踉と二三歩前に歩いた。

涯もない曠野を唯一人歩いて來た旅人も、犬を見ると流石になつかしい。知らぬ國の都を歩いてゐて、不圖同郷の人に逢つた樣になつかしい。旅人も犬に近いた。

犬は幽かに鼻を鳴らして、旅人の顏を仰いだが、耳を窄めて、首を低れた。

そして、鼻端で旅人の埃だらけの足の甲を撫でた。

旅人はどつかと地面に腰を下した。犬も三尺許り離れて、前肢を立てゝ坐つた。

空は曇つてゐる。風が無い。何十哩の曠野の中に、生命ある者は唯二箇。

犬は默つて旅人の顏を瞶めてゐる。旅人も無言で犬の顏を瞶めてゐる。

若し人と犬と同じものであつたら、此時、犬が旅人なのか、旅人が犬なのか、誰が見ても見分がつくまい。餓ゑた、疲れた、二つの生命が互に瞶め合つてゐたのだ。

犬は、七日程前に、恁した機會かで此曠野の追分へ來た。そして、何方の路から來たのか忘れて了つた。再び人里へ歸らうと思つては出かけるけれども、行つても、行つても、同じ樣な曠野の草、涯しがないので復此處に歸つて來る。三條の路を交る交る、何囘か行つてみて何囘か歸つて來た。犬は七日の間何も喰はなかつた。そして、犬一疋、人一人に逢はぬ。三日程前に、高い空の上を鳥が一羽飛んで行つて、雲に隱れた影を見送つた限。

微かな音だにせぬ。聞えるものは、疲れに疲れた二つの心臟が、同じに搏つ鼓動の響きばかり。――と旅人は思つた。

軈て、旅人は袂を探つて莨を出した。そして燐寸を擦つた。旅人の見た犬の目に暫時火花が映つた。犬の見た旅人の目にも暫時火花が閃めいた。

旅人は、燐寸の燃殼を犬の前に投げた。犬は直ぐそれに鼻端を推つけたが、何の香もしないので、また居住ひを直して旅人の顏を瞶めた。七日間の餓は犬の瞼を重く懈怠くした。莨の煙が旅人の餓を薄らがした。

旅人は、怎やら少し暢然した樣な心持で、目の前の、痩せ果てた骨と皮ばかりの赤犬を、憐む樣な氣になつて來た。で手を伸べて犬を引寄せた。

頭を撫でても耳を引張つても、犬は目を細くして唯穩しくしてゐる。莨の煙を顏に吹かけても、僅かに鼻をふんふんいはす許り。毛を逆に撫でて見たり、肢を開かして見たり、地の上に轉がして見たり、痩せた尖つた顏を兩膝に挾んで見たりしても、犬は唯穩しくしてゐる。終には、細い尾を右に捻つたり、左に捻つたり、指に卷いたりしたが、少し強くすると、犬はスンと喉を鳴らして、弱い反抗を企てる許り。

不圖、旅人は面白い事を考出して、密と口元に笑を含んだ。紙屑を袂から出して、紙捻を一本糾ふと、それで紙屑を犬の尾に縛へつけた。

犬はぱたぱたと尾を振る。旅人は、燐寸を擦つて、其紙屑に火を點けた。

犬は矢庭に跳上つた。尾には火が燃えてゐる。犬は首をねぢつて其を噛取らうとするけれども、首が尾まで屆かぬので、きやん、きやんと叫びながらぐるぐるり出した。

旅人は、我ながら殘酷な事をしたと思つて、犬の尾を抑へて其紙屑を取つてやらうと慌てて立上つたが、犬は聲の限りに叫びつづけて、凄じい勢ひでぐるぐるる。手も出されぬ程勢ひよく迅くる。旅人も、手を伸べながら犬の周圍をり出した。

きやん、きやんといふ苦痛の聲が、旅人の粟一粒入つてゐない空腹に感へる。それはそれは遣瀬もない思ひである。

尾の火が間もなく消えかかつた。と、犬のり方が少し遲くなつたと思ふと、よろよろと行つて、潦の中に仆れた。旅人は棒の如く立つた。

きやん、きやんといふ聲も、もう出ない。犬は痛ましい斷末魔の苦痛に水の中に仆れた儘、四本の肢でいて、すんすんと泣いたが、其聲が段々弱るにつれて、肢も段々動かなくなつた。

餓ゑに餓ゑてゐた赤犬が、恁うして死んで了つた。

淺猿しい犬の屍を構へた潦の面は、小波が鎭まると、宛然底無しの淵の如く見えた。深く映つた灰色の空が、何時しか黄昏の色に黝んでゐたので。

棒の如く立つてゐた旅人は、驚いて周圍を見た。そこはかとなき薄暗が曠野の草に流れてゐる。其顏には、いふべからざる苦痛が刻まれてゐた。

日が暮れた! と思ふ程、路を失つた旅人に悲しい事はない。渠は、急がしく草鞋の紐を締めなほして、犬の屍を一瞥したが、いざ行かうと足を踏出して、さて何處へ行つたものであらうと、黄昏の曠野を見した。

同じ樣に三度見したが、忽ち、

『噫、』

と叫んで、兩手を高くさしあげたと思ふと、大聲に泣き出した。

『俺の來た路は何方だつたらう』

三條の路が、渠の足下から起つて、同じ樣に曠野の三方に走つてゐる。

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