Chapter 1 of 10

襖を開けて、旅館の女中が、

「旦那、」

と上調子の尻上りに云って、坐りもやらず莞爾と笑いかける。

「用かい。」

とこの八畳で応じたのは三十ばかりの品のいい男で、紺の勝った糸織の大名縞の袷に、浴衣を襲ねたは、今しがた湯から上ったので、それなりではちと薄ら寒し、着換えるも面倒なりで、乱箱に畳んであった着物を無造作に引摺出して、上着だけ引剥いで着込んだ証拠に、襦袢も羽織も床の間を辷って、坐蒲団の傍まで散々のしだらなさ。帯もぐるぐる巻き、胡坐で火鉢に頬杖して、当日の東雲御覧という、ちょっと変った題の、土地の新聞を読んでいた。

その二の面の二段目から三段へかけて出ている、清川謙造氏講演、とあるのがこの人物である。

たとい地方でも何でも、新聞は早朝に出る。その東雲御覧を、今やこれ午後二時。さるにても朝寝のほど、昨日のその講演会の帰途のほども量られる。

「お客様でございますよう。」

と女中は思入たっぷりの取次を、ちっとも先方気が着かずで、つい通りの返事をされたもどかしさに、声で威して甲走る。

吃驚して、ひょいと顔を上げると、横合から硝子窓へ照々と当る日が、片頬へかっと射したので、ぱちぱちと瞬いた。

「そんなに吃驚なさいませんでもようございます。」

となおさら可笑がる。

謙造は一向真面目で、

「何という人だ。名札はあるかい。」

「いいえ、名札なんか用りません。誰も知らないもののない方でございます。ほほほ、」

「そりゃ知らないもののない人かも知れんがね、よそから来た私にゃ、名を聞かなくっちゃ分らんじゃないか、どなただよ。」

と眉を顰める。

「そんな顔をなすったってようございます。ちっとも恐くはありませんわ。今にすぐにニヤニヤとお笑いなさろうと思って。昨夜あんなに晩うくお帰りなさいました癖に、」

「いや、」

と謙造は片頬を撫でて、

「まあ、いいから。誰だというに、取次がお前、そんなに待たしておいちゃ失礼だろう。」

ちと躾めるように言うと、一層頬辺の色を濃くして、ますます気勢込んで、

「何、あなた、ちっと待たして置きます方がかえっていいんでございますよ。昼間ッからあなた、何ですわ。」

と厭な目つきでまたニヤリで、

「ほんとは夜来る方がいいんだのに。フン、フン、フン、」

突然川柳で折紙つきの、(あり)という鼻をひこつかせて、

「旦那、まあ、あら、まあ、あら良い香い、何て香水を召したんでございます。フン、」

といい方が仰山なのに、こっちもつい釣込まれて、

「どこにも香水なんぞありはしないよ。」

「じゃ、あの床の間の花かしら、」

と一際首を突込みながら、

「花といえば、あなたおあい遊ばすのでございましょうね、お通し申しましてもいいんですね。」

「串戯じゃない。何という人だというに、」

「あれ、名なんぞどうでもよろしいじゃありませんか。お逢いなされば分るんですもの。」

「どんな人だよ、じれったい。」

「先方もじれったがっておりましょうよ。」

「婦人か。」

と唐突に尋ねた。

「ほら、ほら、」

と袂をその、ほらほらと煽ってかかって、

「ご存じの癖に、」

「どんな婦人だ。」

と尋ねた時、謙造の顔がさっと暗くなった。新聞を窓へ翳したのである。

「お気の毒様。」

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