1
陽炎座
泉鏡花
一
「ここだ、この音なんだよ。」
帽子も靴も艶々と光る、三十ばかりの、しかるべき会社か銀行で当時若手の利けものといった風采。一ツ、容子は似つかわしく外国語で行こう、ヤングゼントルマンというのが、その同伴の、――すらりとして派手に鮮麗な中に、扱帯の結んだ端、羽織の裏、褄はずれ、目立たないで、ちらちらと春風にちらめく処々に薄りと蔭がさす、何か、もの思か、悩が身にありそうな、ぱっと咲いて浅く重る花片に、曇のある趣に似たが、風情は勝る、花の香はその隈から、幽に、行違う人を誘うて時めく。薫を籠めて、藤、菖蒲、色の調う一枚小袖、長襦袢。そのいずれも彩糸は使わないで、ひとえに浅みどりの柳の葉を、針で運んで縫ったように、姿を通して涼しさの靡くと同時に、袖にも褄にもすらすらと寂しの添った、痩せぎすな美しい女に、――今のを、ト言掛けると、婦人は黙って頷いた。
が、もう打頷く咽喉の影が、半襟の縫の薄紅梅に白く映る。……
あれ見よ。この美しい女は、その膚、その簪、その指環の玉も、とする端々透通って色に出る、心の影がほのめくらしい。
「ここだ、この音なんだよ。」
婦人は同伴の男にそう言われて、時に頷いたが、傍でこれを見た松崎と云う、絣の羽織で、鳥打を被った男も、共に心に頷いたのである。
「成程これだろう。」
但し、松崎は、男女、その二人の道ずれでも何でもない。当日ただ一人で、亀井戸へ詣でた帰途であった。
住居は本郷。
江東橋から電車に乗ろうと、水のぬるんだ、草萌の川通りを陽炎に縺れて来て、長崎橋を入江町に掛る頃から、どこともなく、遠くで鳴物の音が聞えはじめた。
松崎は、橋の上に、欄干に凭れて、しばらく彳んで聞入ったほどである。
ちゃんちきちき面白そうに囃すかと思うと、急に修羅太鼓を摺鉦交り、どどんじゃじゃんと鳴らす。亀井戸寄りの町中で、屋台に山形の段々染、錣頭巾で、いろはを揃えた、義士が打入りの石版絵を張廻わして、よぼよぼの飴屋の爺様が、皺くたのまくり手で、人寄せにその鉦太鼓を敲いていたのを、ちっと前に見た身にも、珍らしく響いて、気をそそられ、胸が騒ぐ、ばったりまた激しいのが静まると、ツンツンテンレン、ツンツンテンレン、悠々とした糸が聞えて、……本所駅へ、がたくた引込む、石炭を積んだ大八車の通るのさえ、馬士は銜煙管で、しゃんしゃんと轡が揺れそうな合方となる。
絶えず続いて、音色は替っても、囃子は留まらず、行交う船脚は水に流れ、蜘蛛手に、角ぐむ蘆の根を潜って、消えるかとすれば、ふわふわと浮く。浮けば蝶の羽の上になり下になり、陽炎に乗って揺れながら近づいて、日当の橋の暖い袂にまつわって、ちゃんちき、などと浮かれながら、人の背中を、トンと一つ軽く叩いて、すいと退いて、
――おいで、おいで――
と招いていそうで。
手に取れそうな近い音。
はっ、とその手を出すほどの心になると、橋むこうの、屋根を、ひょいひょいと手踊り雀、電信柱に下向きの傾り燕、一羽気まぐれに浮いた鴎が、どこかの手飼いの鶯交りに、音を捕うる人心を、はッと同音に笑いでもする気勢。
春たけて、日遅く、本所は塵の上に、水に浮んだ島かとばかり、都を離れて静であった。
屋根の埃も紫雲英の紅、朧のような汽車が過ぎる。
その響きにも消えなかった。
二
松崎は、――汽車の轟きの下にも埋れず、何等か妨げ遮るものがあれば、音となく響きとなく、飜然と軽く体を躱わす、形のない、思いのままに勝手な音の湧出ずる、空を舞繞る鼓に翼あるものらしい、その打囃す鳴物が、――向って、斜違の角を広々と黒塀で取廻わした片隅に、低い樹立の松を洩れて、朱塗の堂の屋根が見える、稲荷様と聞いた、境内に、何か催しがある……その音であろうと思った。
けれども、欄干に乗出して、も一つ橋越しに透かして見ると、門は寝静ったように鎖してあった。
いつの間にか、トチトチトン、のんきらしい響に乗って、駅と書いた本所停車場の建札も、駅と読んで、白日、菜の花を視むる心地。真赤な達磨が逆斛斗を打った、忙がしい世の麺麭屋の看板さえ、遠い鎮守の鳥居めく、田圃道でも通る思いで、江東橋の停留所に着く。
空いた電車が五台ばかり、燕が行抜けそうにがらんとしていた。
乗るわ、降りるわ、混合う人数の崩るるごとき火水の戦場往来の兵には、余り透いて、相撲最中の回向院が野原にでもなったような電車の体に、いささか拍子抜けの形で、お望み次第のどれにしようと、大分歩行き廻った草臥も交って、松崎はトボンと立つ。
例の音は地の底から、草の蒸さるるごとく、色に出で萌えて留まらぬ。
「狸囃子と云うんだよ、昔から本所の名物さ。」
「あら、嘘ばっかり。」
ちょうどそこに、美しい女と、その若紳士が居合わせて、こう言を交わしたのを松崎は聞取った。
さては空音ではないらしい。
若紳士が言ったのは、例の、おいてけ堀、片葉の蘆、足洗い屋敷、埋蔵の溝、小豆婆、送り提燈とともに、土地の七不思議に数えられた、幻の音曲である。
言った方も戯に、聞く女も串戯らしく打消したが、松崎は、かえって、うっかりしていた伝説を、夢のように思出した。
興ある事かな。
日は永し。
今宮辺の堂宮の絵馬を見て暮したという、隙な医師と一般、仕事に悩んで持余した身体なり、電車はいつでも乗れる。
となると、家へ帰るにはまだ早い。……どうやら、橋の上で聞いたよりは、ここへ来ると、同じ的の無い中にも、囃子の音が、間近に、判然したらしく思われる。一つは、その声の響くのは、自分ばかりでない事を確めたせいであろう。
その上、世を避けた仙人が碁を打つ響きでもなく、薄隠れの女郎花に露の音信るる声でもない……音色こそ違うが、見世ものの囃子と同じく、気をそそって人を寄せる、鳴ものらしく思うから、傾く耳の誘わるる、寂しい横町へ電車を離れた。
向って日南の、背後は水で、思いがけず一本の菖蒲が町に咲いた、と見た。……その美しい女の影は、分れた背中にひやひやと染む。……
と、チャンチキ、チャンチキ、嘲けるがごとくに囃す。……
がらがらと鳴って、電車が出る。突如として、どどん、じゃん、じゃん。――ぶらぶら歩行き出すと、ツンツンテンレン、ツンツンテンレン。
三
片側はどす黒い、水の淀んだ川に添い、がたがたと物置が並んで、米俵やら、筵やら、炭やら、薪やら、その中を蛇が這うように、ちょろちょろと鼠が縫い行く。
あの鼠が太鼓をたたいて、鼬が笛を吹くのかと思った。……人通り全然なし。
片側は、右のその物置に、ただ戸障子を繋合わせた小家続き。で、一二軒、八百屋、駄菓子屋の店は見えたが、鴉も居らなければ犬も居らぬ。縄暖簾も居酒屋めく米屋の店に、コトンと音をさせて鶏が一羽歩行いていたが、通りかかった松崎を見ると、高らかに一声鳴いた。
太陽はたけなわに白い。
颯と、のんびりした雲から落かかって、目に真蒼に映った、物置の中の竹屋の竹さえ、茂った山吹の葉に見えた。
町はそこから曲る。
と追分で路が替って、木曾街道へ差掛る……左右戸毎の軒行燈。
ここにも、そこにも、ふらふらと、春の日を中へ取って、白く点したらしく、真昼浮出て朦と明るい。いずれも御泊り木賃宿。
で、どの家も、軒より、屋根より、これが身上、その昼行燈ばかりが目に着く。中には、廂先へ高々と燈籠のごとくに釣った、白看板の首を擡げて、屋台骨は地の上に獣のごとく這ったのさえある。
吉野、高橋、清川、槙葉。寝物語や、美濃、近江。ここにあわれを留めたのは屋号にされた遊女達。……ちょっと柳が一本あれば滅びた白昼の廓に斉しい。が、夜寒の代に焼尽して、塚のしるしの小松もあらず……荒寥として砂に人なき光景は、祭礼の夜に地震して、土の下に埋れた町の、壁の肉も、柱の血も、そのまま一落の白髑髏と化し果てたる趣あり。
絶壁の躑躅と見たは、崩れた壁に、ずたずたの襁褓のみ、猿曵が猿に着せるのであろう。
生命の搦む桟橋から、危く傾いた二階の廊下に、日も見ず、背後むきに鼠の布子の背を曲げた首の色の蒼い男を、フト一人見附けたが、軒に掛けた蜘蛛の囲の、ブトリと膨れた蜘蛛の腹より、人間は痩せていた。
ここに照る月、輝く日は、兀げた金銀の雲に乗った、土御門家一流易道、と真赤に目立った看板の路地から糶出した、そればかり。
空を見るさえ覗くよう、軒行燈の白いにつけ、両側の屋根は薄暗い。
この春の日向の道さえ、寂びれた町の形さえ、行燈に似て、しかもその白けた明に映る……
表に、御泊りとかいた字の、その影法師のように、町幅の真ただ中とも思う処に、曳棄てたらしい荷車が一台、屋台を乗せてガタリとある。
近いて見ると、いや、荷の蔭に人が居た。
男か、女か。
と、見た体は、褪せた尻切の茶の筒袖を着て、袖を合わせて、手を拱き、紺の脚絆穿、草鞋掛の細い脚を、車の裏へ、蹈揃えて、衝と伸ばした、抜衣紋に手拭を巻いたので、襟も隠れて見分けは附かぬ。編笠、ひたりと折合わせて、紐を深く被ったなりで、がっくりと俯向いたは、どうやら坐眠りをしていそう。
城の縄張りをした体に、車の轅の中へ、きちんと入って、腰は床几に落したのである。
飴屋か、豆屋か、団子を売るか、いずれにも荷が勝った……おでんを売るには乾いている、その看板がおもしろい。……
四
屋台の正面を横に見せた、両方の柱を白木綿で巻立てたは寂しいが、左右へ渡して紅金巾をひらりと釣った、下に横長な掛行燈。
一………………………………坂東よせ鍋
一………………………………尾上天麩羅
一………………………………大谷おそば
一………………………………市川玉子焼
一………………………………片岡 椀盛
一………………………………嵐 お萩
一………………………………坂東あべ川
一………………………………市村しる粉
一………………………………沢村さしみ
一………………………………中村 洋食
初日出揃い役者役人車輪に相勤め申候
名の上へ、藤の花を末濃の紫。口上あと余白の処に、赤い福面女に、黄色な瓢箪男、蒼い般若の可恐い面。黒の松葺、浅黄の蛤、ちょっと蝶々もあしらって、霞を薄くぼかしてある。
引寄せられて慕って来た、囃子の音には、これだけ気の合ったものは無い。が、松崎は読返してみて苦笑いした。
坂東あべ川、市村しるこ、渠はあまい名を春狐と号して、福面女に、瓢箪男、般若の面、……二十五座の座附きで駈出しの狂言方であったから。――
「串戯じゃないぜ。」
思わず、声を出して独言。
「親仁さん、おう、親仁さん。」
なぞのものぞ、ここに木賃の国、行燈の町に、壁を抜出た楽がきのごとく、陽炎に顕れて、我を諷するがごとき浅黄の頭巾は?……
屋台の様子が、小児を対手で、新粉細工を売るらしい。片岡牛鍋、尾上天麩羅、そこへ並べさせてみよう了簡。
「おい、お爺い。」
と閑なあまりの言葉がたき。わざと中ッ腹に呼んでみたが、寂寞たる事、くろんぼ同然。
で、操の糸の切れたがごとく、手足を突張りながら、ぐたりと眠る……俗には船を漕ぐとこそ言え、これは筏を流す体。
それに対して、そのまま松崎の分った袂は、我ながら蝶が羽繕いをする心地であった。
まだ十歩と離れぬ。
その物売の、布子の円い背中なぞへ、同じ木賃宿のそこが歪みなりの角から、町幅を、一息、苗代形に幅の広くなった処があって、思いがけず甍の堆い屋形が一軒。斜に中空をさして鯉の鱗の背を見るよう、電信柱に棟の霞んで聳えたのがある。
空屋か、知らず、窓も、門も、皮をめくった、面に斉しく、大な節穴が、二ツずつ、がッくり窪んだ眼を揃えて、骸骨を重ねたような。
が、月には尾花か、日向の若草、廂に伸びたも春めいて、町から中へ引込んだだけ、生ぬるいほどほかほかする。
四辺に似ない大構えの空屋に、――二間ばかりの船板塀が水のぬるんだ堰に見えて、その前に、お玉杓子の推競で群る状に、大勢小児が集っていた。
おけらの虫は、もじゃもじゃもじゃと皆動揺めく。
その癖静まって声を立てぬ。