Chapter 1 of 4

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第二菎蒻本

泉鏡花

雪の夜路の、人影もない真白な中を、矢来の奥の男世帯へ出先から帰った目に、狭い二階の六畳敷、机の傍なる置炬燵に、肩まで入って待っていたのが、するりと起直った、逢いに来た婦の一重々々、燃立つような長襦袢ばかりだった姿は、思い懸けずもまた類なく美しいものであった。

膚を蔽うに紅のみで、人の家に澄まし振。長年連添って、気心も、羽織も、帯も打解けたものにだってちょっとあるまい。

世間も構わず傍若無人、と思わねばならないのに、俊吉は別に怪まなかった。それは、懐しい、恋しい情が昂って、路々の雪礫に目が眩んだ次第ではない。

――逢いに来た――と報知を聞いて、同じ牛込、北町の友達の家から、番傘を傾け傾け、雪を凌いで帰る途中も、その婦を思うと、鎖した町家の隙間洩る、仄な燈火よりも颯と濃い緋の色を、酒井の屋敷の森越に、ちらちらと浮いつ沈みつ、幻のように視たのであるから。

当夜は、北町の友達のその座敷に、五人ばかりの知己が集って、袋廻しの運座があった。雪を当込んだ催ではなかったけれども、黄昏が白くなって、さて小留みもなく降頻る。戸外の寂寞しいほど燈の興は湧いて、血気の連中、借銭ばかりにして女房なし、河豚も鉄砲も、持って来い。……勢はさりながら、もの凄いくらい庭の雨戸を圧して、ばさばさ鉢前の南天まで押寄せた敵に対して、驚破や、蒐れと、木戸を開いて切って出づべき矢種はないので、逸雄の面々歯噛をしながら、ひたすら籠城の軍議一決。

そのつもりで、――千破矢の雨滴という用意は無い――水の手の燗徳利も宵からは傾けず。追加の雪の題が、一つ増しただけ互選のおくれた初夜過ぎに、はじめて約束の酒となった。が、筆のついでに、座中の各自が、好、悪、その季節、花の名、声、人、鳥、虫などを書きしるして、揃った処で、一……何某……好なものは、美人。

「遠慮は要らないよ。」

悪むものは毛虫、と高らかに読上げよう、という事になる。

箇条の中に、最好、としたのがあり。

「この最好というのは。」

「当人が何より、いい事、嬉しい事、好な事を引くるめてちょっと金麩羅にして頬張るんだ。」

その標目の下へ、何よりも先に==待人来る==と……姓を吉岡と云う俊吉が書込んだ時であった。

襖をすうと開けて、当家の女中が、

「吉岡さん、お宅からお使でございます。」

「内から……」

「へい、女中さんがお見えなさいました。」

「何てって?」

「ちょっと、お顔をッて、お玄関にお待ちでございます。」

「何だろう。」と俊吉はフトものを深く考えさせられたのである。

お互に用の有りそうな連中は、大概この座に居合わす。出先へこうした急使の覚えはいささかもないので、急な病気、と老人を持つ胸に応えた。

「敵の間諜じゃないか。」と座の右に居て、猪口を持ちながら、膝の上で、箇条を拾っていた当家の主人が、ト俯向いたままで云った。

「まさか。」

とすと、ずらりと車座が残らず顔を見た時、燈の色が颯と白く、雪が降込んだように俊吉の目に映った。

「ちょっと、失礼する。」

で、引返して行く女中のあとへついて、出しなに、真中の襖を閉める、と降積る雪の夜は、一重の隔も音が沈んで、酒の座は摺退いたように、ずッと遠くなる……風の寒い、冷い縁側を、するする通って、来馴れた家で戸惑いもせず、暗がりの座敷を一間、壁際を抜けると、次が玄関。

取次いだ女中は、もう台所へ出て、鍋を上る湯気の影。

そこから彗星のような燈の末が、半ば開けかけた襖越、仄に玄関の畳へさす、と見ると、沓脱の三和土を間に、暗い格子戸にぴたりと附着いて、横向きに立っていたのは、俊吉の世帯に年増の女中で。

二月ばかり給金の借のあるのが、同じく三月ほど滞った、差配で借りた屋号の黒い提灯を袖に引着けて待設ける。が、この提灯を貸したほどなら、夜中に店立てをくわせもしまい。

「おい、……何だ、何だ。」と框まで。

「あ、旦那様。」

と小腰を屈めたが、向直って、

「ちょっと、どうぞ。」と沈めて云う。

余り要ありそうなのに、急き心に声が苛立って、

「入れよ、こっちへ。」

「傘も何も、あの、雪で一杯でございますから。皆様のお穿ものが、」

成程、暴風雨の舟が遁込んださながらの下駄の並び方。雪が落ちると台なしという遠慮であろう。

「それに、……あの、ちょっとどうぞ。」

「何だよ。」とまだ強く言いながら、俊吉は、台所から燈の透く、その正面の襖を閉めた。

真暗になる土間の其方に、雪の袖なる提灯一つ、夜を遥な思がする。

労らい心で、

「そんなに、降るのか。」といいいい土間へ。

「もう、貴方、足駄が沈みますほどでございます。」

聞きも果てずに格子に着いて、

「何だ。」

「お客様でございまして。」と少し顔を退けながら、せいせい云う……道を急いだ呼吸づかい、提灯の灯の額際が、汗ばむばかり、てらてらとして赤い。

「誰だ。」

「あの、宮本様とおっしゃいます。」

「宮本……どんな男だ。」

時に、傘を横にはずす、とバサリという、片手に提灯を持直すと、雪がちらちらと軒を潜った。

「いいえ、御婦人の方でいらっしゃいます。」

「婦が?」

「はい。」

「婦だ……待ってるのか。」

「ええ、是非お目にかかりとうございますって。」

「はてな、……」

とのみで、俊吉はちょっと黙った。

女中は、その太った躯を揉みこなすように、も一つ腰を屈めながら、

「それに、あの、お出先へお迎いに行くのなら、御朋輩の方に、御自分の事をお知らせ申さないように、内証でと、くれぐれも、お託けでございましたものですから。」

「変だな、おかしいな、どこのものだか言ったかい。」

「ええ、御遠方。」

「遠い処か。」

「深川からとおっしゃいました。」

「ああ、襟巻なんか取らんでも可い。……お帰り。」

女中はポカンとして膨れた手袋の手を、提灯の柄ごと唇へ当てて、

「どういたしましょう。」

「……可し、直ぐ帰る。」

座敷に引返そうとして、かたりと土間の下駄を踏んだが、ちょっと留まって、

「どんな風采をしている。」と声を密めると。

「あの真紅なお襦袢で、お跣足で。」

「第一、それが目に着いたんだ、夜だし、……雪が白いから。」

俊吉は、外套も無しに、番傘で、帰途を急ぐ中に、雪で足許も辿々しいに附けても、心も空も真白に跣足というのが身に染みる。

――しかし可訝しい、いや可訝しくはない、けれども妙だ、――あの時、そうだ、久しぶりに逢って、その逢ったのが、その晩ぎり……またわかれになった。――しかもあの時、思いがけない、うっかりした仕損いで、あの、お染の、あの体に、胸から膝へ血を浴びせるようなことをした。――

せば、我が袖も、他の垣根も雪である。

――去年の夏、たしか八月の末と思う、――

その事のあった時、お染は白地明石に藍で子持縞の羅を着ていたから、場所と云い、境遇も、年増の身で、小さな芸妓屋に丸抱えという、可哀な流にしがらみを掛けた袖も、花に、もみじに、霜にさえその時々の色を染める。九月と云えば、暗いのも、明いのも、そこいら、……御神燈並に、絽なり、お召なり単衣に衣更える筈。……しょぼしょぼ雨で涼しかったが葉月の声を聞く前だった。それに、浅草へ出勤て、お染はまだ間もなかった頃で、どこにも馴染は無いらしく、連立って行く先を、内証で、抱主の蔦家の女房とひそひそと囁いて、その指図に任かせた始末。

披露の日は、目も眩むように暑かったと云った。

主人が主人で、出先に余り数はなし、母衣を掛けて護謨輪を軋らせるほど、光った御茶屋には得意もないので、洋傘をさして、抱主がついて、細かく、せっせと近所の待合小料理屋を刻んで廻った。

「かさかささして、えんえんえん、という形なの、泣かないばかりですわ。私もう、嬰児に生れかわった気になったんですけれど、情ないッてなかったわ。

その洋傘だって、お前さん、新規な涼しいんじゃないでしょう。旅で田舎を持ち歩行いた、黄色い汚点だらけなんじゃありませんか。

そしてどうです、長襦袢たら、まあ、やっぱりこれですもの。」

と包ましやかに、薄藤色の半襟を、面痩せた、が、色の白い顋で圧えて云う。

その時、小雨の夜の路地裏の待合で、述懐しつつ、恥らったのが、夕顔の面影ならず、膚を包んだ紅であった。

「……この土地じゃ、これでないと不可いんだって、主人が是非と云いますもの、出の衣裳だから仕方がない。

それで、白足袋でお練でしょう。もう五にもなって真白でしょう、顔はむらになる……奥山相当で、煤けた行燈の影へ横向きに手を支いて、肩で挨拶をして出るんなら可いけれど、それだって凄いわね。

真昼間でしょう、遣切れたもんじゃありゃしない。

冷汗だわ、お前さん、かんかん炎天に照附けられるのと一所で、洋傘を持った手が辷るんですもの、掌から、」

と二の腕が衝と白く、且つ白麻の手巾で、ト肩をおさえて、熟と見た瞼の白露。

――俊吉は、雪の屋敷町の中ほどで、ただ一人。……肩袖をはたはたと払った。……払えば、ちらちらと散る、が、夜目にも消えはせず、なお白々と俤立つ。

「この、お前さん手巾でさ、洋傘の柄を、しっかりと握って歩行きましたんですよ。

あとへ跟いて来る女房さんの風俗ッたら、御覧なさいなね。人の事を云えた義理じゃないけれど、私よりか塗立って、しょろしょろ裾長か何かで、鬢をべったりと出して、黒い目を光らかして、おまけに腕まくりで、まるで、売ますの口上言いだわね。

察して下さいな。」

と遣瀬なげに、眉をせめて俯目になったと思うと、まだその上に――気障じゃありませんか、駈出しの女形がハイカラ娘の演るように――と洋傘を持った風采を自ら嘲った、その手巾を顔に当てて、水髪や荵の雫、縁に風りんのチリリンと鳴る時、芸妓島田を俯向けに膝に突伏した。

その時、待合の女房が、襖越に、長火鉢の処で、声を掛けた。

「染ちゃん、お出ばなが。」

俊吉はこれを聞くと、女の肩に掛けていた手が震えた……染ちゃんと云う年紀ではない。遊女あがりの女をと気がさして、なぜか不思議に、女もともに、侮り、軽んじ、冷評されたような気がして、悚然として五体を取って引緊められたまで、極りの悪い思いをしたのであった。

いわゆる、その(お出ばな)のためであった、女に血を浴びせるような事の起ったのは。

思えば、その女には当夜は云うまでもなく、いつも、いつまでも逢うべきではなかったのである。

はじめ、無理をして廓を出たため、一度、町の橋は渡っても、潮に落行かねばならない羽目で、千葉へ行って芸妓になった。

その土地で、ちょっとした呉服屋に思われたが、若い男が田舎気質の赫と逆上せた深嵌りで、家も店も潰した果が、女房子を四辻へ打棄って、無理算段の足抜きで、女を東京へ連れて遁げると、旅籠住居の気を換える見物の一夜。洲崎の廓へ入った時、ここの大籬の女を俺が、と手折った枝に根を生す、返咲の色を見せる気にもなったし、意気な男で暮したさに、引手茶屋が一軒、不景気で分散して、売物に出たのがあったのを、届くだけの借金で、とにかく手附ぐらいな処で、話を着けて引受けて稼業をした。

まず引掛の昼夜帯が一つ鳴って〆った姿。わざと短い煙管で、真新しい銅壺に並んで、立膝で吹かしながら、雪の素顔で、廓をちらつく影法師を見て思出したか。

――勘定をかく、掛すずりに袖でかくして参らせ候、――

二年ぶり、打絶えた女の音信を受取った。けれども俊吉は稼業は何でも、主あるものに、あえて返事もしなかったのである。

〆の形や、雁の翼は勿論、前の前の下宿屋あたりの春秋の空を廻り舞って、二三度、俊吉の今の住居に届いたけれども、疑も嫉妬も無い、かえって、卑怯だ、と自分を罵りながらも逢わずに過した。

朧々の夜も過ぎず、廓は八重桜の盛というのに、女が先へ身を隠した。……櫛巻が褄白く土手の暗がりを忍んで出たろう。

引手茶屋は、ものの半年とも持堪えず、――残った不義理の借金のために、大川を深川から、身を倒に浅草へ流着いた。……手切の髢も中に籠めて、芸妓髷に結った私、千葉の人とは、きれいに分をつけ参らせ候。

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