Chapter 1 of 4

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薬草取

泉鏡花

日光掩蔽  地上清涼  靉靆垂布  如可承攬

其雨普等  四方倶下  流樹無量  率土充洽

山川険谷  幽邃所生  卉木薬艸  大小諸樹

「もし憚ながらお布施申しましょう。」

背後から呼ぶ優しい声に、医王山の半腹、樹木の鬱葱たる中を出でて、ふと夜の明けたように、空澄み、気清く、時しも夏の初を、秋見る昼の月の如く、前途遥なる高峰の上に日輪を仰いだ高坂は、愕然として振返った。

人の声を聞き、姿を見ようとは、夢にも思わぬまで、遠く里を離れて、はや山深く入っていたのに、呼懸けたのは女であった。けれども、高坂は一見して、直に何ら害心のない者であることを認め得た。

女は片手拝みに、白い指尖を唇にあてて、俯向いて経を聞きつつ、布施をしようというのであるから、

「否、私は出家じゃありません。」

と事もなげに辞退しながら、立停って、女のその雪のような耳許から、下膨れの頬に掛けて、柔に、濃い浅葱の紐を結んだのが、露の朝顔の色を宿して、加賀笠という、縁の深いので眉を隠した、背には花籠、脚に脚絆、身軽に扮装ったが、艶麗な姿を眺めた。

かなたは笠の下から見透すが如くにして、

「これは失礼なことを申しました。お姿は些ともそうらしくはございませんが、結構な御経をお読みなさいますから、私は、あの、御出家ではございませんでも、御修行者でいらっしゃいましょうと存じまして。」

背広の服で、足拵えして、帽を真深に、風呂敷包を小さく西行背負というのにしている。彼は名を光行とて、医科大学の学生である。

時に、妙法蓮華経薬草諭品、第五偈の半を開いたのを左の掌に捧げていたが、右手に支いた力杖を小脇に掻上げ、

「そりゃまあ、修行者は修行者だが、まだ全然素人で、どうして御布施を戴くようなものじゃない。

読方だって、何だ、大概、大学朱熹章句で行くんだから、尊い御経を勿体ないが、この山には薬の草が多いから、気の所為か知らん。麓からこうやって一里ばかりも来たかと思うと、風も清々しい薬の香がして、何となく身に染むから、心願があって近頃から読み覚えたのを、誦えながら歩行いているんだ。」

かく打明けるのが、この際自他のためと思ったから、高坂は親しく先ず語って、さて、

「姉さん、お前さんは麓の村にでも住んでいる人なんか。」

「はい、二俣村でございます。」

「あああの、越中の蛎波へ通う街道で、此処に来る道の岐れる、目まぐるしいほど馬の通る、彼処だね。」

「さようでございます。もう路が悪うございまして、車が通りませんものですから、炭でも薪でも、残らず馬に附けて出しますのでございます。

それに丁どこの御山の石の門のようになっております、戸室口から石を切出しますのを、皆馬で運びますから、一人で五疋も曳きますのでございますよ。」

「それではその麓から来たんだね、唯一人。……」

静に歩を移していた高坂は、更にまた女の顔を見た。

「はい、一人でございます、そしてこちらへ参りますまで、お姿を見ましたのは、貴方ばかりでございますよ。」

いかにもという面色して、

「私もやっぱり、そうさ、半里ばかりも後だった、途中で年寄った樵夫に逢って、路を聞いた外にはお前さんきり。

どうして往って還るまで、人ッ子一人いようとは思わなかった。」

この辺唯なだらかな蒼海原、沖へ出たような一面の草をしながら、

「や、ものを言っても一つ一つ谺に響くぞ、寂しい処へ、能くお前さん一人で来たね。」

女は乳の上へ右左、幅広く引掛けた桃色の紐に両手を挟んで、花籃を揺直し、

「貴方、その樵夫の衆にお尋ねなすって可うございました。そんなに嶮しい坂ではございませんが、些とも人が通いませんから、誠に知れにくいのでございます。」

「この奥の知れない山の中へ入るのに、目標があの石ばかりじゃ分らんではないかね。

それも、南北、何方か医王山道とでも鑿りつけてあればまだしもだけれど、唯河原に転っている、ごろた石の大きいような、その背後から草の下に細い道があるんだもの、ちょいと間違えようものなら、半年経歴っても頂には行かれないと、樵夫も言ったんだが、全体何だって、そんなに秘して置く山だろう。全くあの石の裏より外に、何処も路はないのだろうか。」

「ございませんとも、この路筋さえ御存じで在らっしゃれば、世を離れました寂しさばかりで、獣も可恐のはおりませんが、一足でも間違えて御覧なさいまし、何千丈とも知れぬ谷で、行留りになりますやら、断崖に突当りますやら、流に岩が飛びましたり、大木の倒れたので行く前が塞ったり、その間には草樹の多いほど、毒虫もむらむらして、どんなに難儀でございましょう。

旧へ帰るか、倶利伽羅峠へ出抜けますれば、無事に何方か国へ帰られます。それでなくって、無理に先へ参りますと、終局には草一条も生えません焼山になって、餓死をするそうでございます。

本当に貴方がおっしゃいます通り、樵夫がお教え申しました石は、飛騨までも末広がりの、医王の要石と申しまして、一度踏外しますと、それこそ路がばらばらになってしまいますよ。」

名だたる北国秘密の山、さもこそと思ったけれども、

「しかし一体、医王というほど、此処で薬草が採れるのに、何故世間とは隔って、行通がないのだろう。」

「それは、あの承りますと、昔から御領主の御禁山で、滅多に人をお入れなさらなかった所為なんでございますって。御領主ばかりでもござんせん。結構な御薬の採れます場所は、また御守護の神々仏様も、出入をお止め遊ばすのでございましょうと存じます。」

譬えば仙境に異霊あって、恣に人の薬草を採る事を許さずというが如く聞えたので、これが少からず心に懸った。

「それでは何か、私なんぞが入って行って、欲い草を取って帰っては悪いのか。」

と高坂はやや気色ばんだが、悚然と肌寒くなって、思わず口の裡で、

慧雲含潤  電光晃耀  雷声遠震  令衆悦予

日光掩蔽  地上清涼  靉靆垂布  如可承攬

「否、山さえお暴しなさいませねば、誰方がおいでなさいましても、大事ないそうでございます。薬の草もあります上は、毒な草もないことはございません。無暗な者が採りますと、どんな間違になろうも知れませんから、昔から禁札が打ってあるのでございましょう。

貴方は、そうして御経をお読み遊ばすくらい、縦令お山で日が暮れても些ともお気遣な事はございますまいと存じます。」

言いかけてまた近き、

「あのさようなら、貴方はお薬になる草を採りにおいでなさるのでござんすかい。」

「少々無理な願ですがね、身内に病人があって、とても医者の薬では治らんに極ったですから、この医王山でなくって外にない、私が心当の薬草を採りに来たんだが、何、姉さんは見懸けた処、花でも摘みに上るんですか。」

「御覧の通、花を売りますものでござんす。二日置き、三日置に参って、お山の花を頂いては、里へ持って出て商います、丁ど唯今が種々な花盛。

千蛇が池と申しまして、頂に海のような大な池がございます。そしてこの山路は何処にも清水なぞ流れてはおりません。その代暑い時、咽喉が渇きますと、蒼い小な花の咲きます、日蔭の草を取って、葉の汁を噛みますと、それはもう、冷い水を一斗ばかりも飲みましたように寒うなります。それがないと凌げませんほど、水の少い処ですから、菖蒲、杜若、河骨はござんせんが、躑躅も山吹も、あの、牡丹も芍薬も、菊の花も、桔梗も、女郎花でも、皆一所に開いていますよ、この六月から八月の末時分まで。その牡丹だの、芍薬だの、結構な花が取れますから、たんとお鳥目が頂けます。まあ、どんなに綺麗でございましょう。

そして貴方、お望の草をお採り遊ばすお心当はどの辺でござんすえ。」

と笠ながら差覗くようにして親しく聞く、時に清い目がちらりと見えた。

高坂は何となく、物語の中なる人を、幽境の仙家に導く牧童などに逢う思いがしたので、言も自から慇懃に、

「私も其処へ行くつもりです。四季の花の一時に咲く、何という処でしょうな。」

「はい、美女ヶ原と申します。」

「びじょがはら?」

「あの、美しい女と書きますって。」

女は俯向いて羞じたる色あり、物の淑しげに微笑む様子。

可懐さに振返ると、

「あれ。」と袖を斜に、袂を取って打傾き、

「あれ、まあ、御覧なさいまし。」

その草染の左の袖に、はらはらと五片三片紅を点じたのは、山鳥の抜羽か、非ず、蝶か、非ず、蜘蛛か、非ず、桜の花の零れたのである。

「どうでございましょう、この二、三ヶ月の間は、何処からともなく、こうして、ちらちらちらちら絶えず散って参ります。それでも何処に桜があるか分りません。美女ヶ原へ行きますと、十里南の能登の岬、七里北に越中立山、背後に加賀が見晴せまして、もうこの節は、霞も霧もかかりませんのに、見紛うようなそれらしい花の梢もござんせぬが、大方この花片は、煩い町方から逃げて来て、遊んでいるのでございましょう。それともあっちこっち山の中を何かの御使に歩いているのかも知れません。」

と女が高く仰ぐに連れ、高坂も葎の中に伸上った。草の緑が深くなって、倒に雲に映るか、水底のような天の色、神霊秘密の気を籠めて、薄紫と見るばかり。

「その美女ヶ原までどのくらいあるね、日の暮れない中行かれるでしょうか。」

「否、こう桜が散って参りますから、直でございます。私も其処まで、お供いたしますが、今日こそ貴方のようなお連がございますけれど、平時は一人で参りますから、日一杯に里まで帰るのでございます。」

「日一杯?」と思いも寄らぬ状。

「どんなにまた遠い処のように、樵夫がお教え申したのでござんすえ。」

「何、樵夫に聞くまでもないです。私に心覚が丁とある。先ず凡そ山の中を二日も三日も歩行かなけれゃならないですな。

尤も上りは大抵どのくらいと、そりゃ予て聞いてはいるんですが、日一杯だのもう直だの、そんなに輒く行かれる処とは思わない。

御覧なさい、こうやって、五体の満足なはいうまでもない、谷へも落ちなけりゃ、巌にも躓かず、衣物に綻が切れようじゃなし、生爪一つ剥しやしない。

支度はして来たっても餒い思いもせず、その蒼い花の咲く草を捜さなけりゃならんほど渇く思いをするでもなし、勿論この先どんな難儀に逢おうも知れんが、それだって、花を取りに里から日帰をするという、姉さんと一所に行くんだ、急に日が暮れて闇になろうとも思われないが、全くこれぎりで、一足ずつ出さえすりゃ、美女ヶ原になりますか。」

「ええ、訳はございません、貴方、そんなに可恐処と御存じで、その上、お薬を採りに入らしったのでございますか。」

言下に、

「実際命懸で来ました。」と思い入って答えると、女はしめやかに、

「それでは、よくよくの事でおあんなさいましょうねえ。

でも何もそんな難しい御山ではありません。但此処は霊山とか申す事、酒を覆したり、竹の皮を打棄ったりする処ではないのでございます。まあ、難有いお寺の庭、お宮の境内、上つ方の御門の内のような、歩けば石一つありませんでも、何となく謹みませんとなりませんばかりなのでございます。そして貴方は、美女ヶ原にお心覚えの草があって、其処までお越し遊ばすに、二日も三日もお懸りなさらねばなりませんような気がすると仰有いますが、何時か一度お上り遊ばした事がございますか。」

「一度あるです。」

「まあ。」

「確に美女ヶ原というそれでしょうな、何でも躑躅や椿、菊も藤も、原一面に咲いていたと覚えています。けれども土地の名どころじゃない、方角さえ、何処が何だか全然夢中。

今だってやっぱり、私は同一この国の者なんですが、その時は何為か家を出て一月余、山へ入って、かれこれ、何でも生れてから死ぬまでの半分はって、漸々其処を見たように思うですが。」

高坂は語りつつも、長途に苦み、雨露に曝された当時を思い起すに付け、今も、気弱り、神疲れて、ここに深山に塵一つ、心に懸らぬ折ながら、なおかつ垂々と背に汗。

糸のような一条路、背後へ声を運ぶのに、力を要した所為もあり、薬王品を胸に抱き、杖を持った手に帽を脱ぐと、清き額を拭うのであった。

Chapter 1 of 4