Chapter 1 of 5

ああ! 漸く、ほんとにやうやく、今日もまた今のびのびと体を投げ出すことの出来る時が来ました。けれど、もう十一時半なんです。此の辺では真夜中なんです。そして、今日の裁判所での半日は、それでなくても疲れ切つてゐる私を、もうすつかりへとへとに疲らして仕舞ひました。

出来るなら私は其処から真直ぐに家へ帰つて何も彼も投げ出して、寝床にころげ込みたいと思ひました。でも、南品川の叔父さんと叔母さんにお守りをされながら坊やが私を待つてゐるのです。私は虎の門で皆なと別れると真直ぐに新橋へ行つて坊やを迎へに急ぎました。

大崎で電車を降りてから石ころの多い坂路を挽きにくさうにしてのぼつて行く俥夫のまるで走らないのを焦り/\しながらついて見ますと、坊やは大よろこびで私に飛びついて来ました。そして大元気でした。叔父さんも叔母さんもおとなしかつたと云つて喜んでゐました。可愛想に坊やも、私が毎日出歩いてゐるものですから、昼間はこの十日ばかりと云ふものちつとも私と一緒にゐられないのです。九時過ぎに、叔父さんに抱つこされて大崎まで送られて帰つて来ました。電車の中でいゝ工合に眠つて駒込で降りる時にもよく眠つてゐましたが俥の上で涼しいのでか眼をさまして、家まで来て蚊帳の中で一しきり遊んで今やつとまた眠つたところです。

これから私も眠るのですけれど、体は非常に疲れてグタ/\になつてゐながら反対に頭は馬鹿にはつきり冴えてゐて何んだか急に眠れさうもないので、また、これからあなたに退屈しのぎに読んで頂く手紙を書かうと思ひ立つたのです。そしていゝ加減に頭をつかれさせたらいゝ気持に明日の朝までは何んにも知らずに眠れさうですから。

けれど、頭を疲れさす為めに、と云つた処で、私は決して出鱈目を書くんぢやないんですよ。今日私の頭が何んの為めにこんなに冴え切つて、私を寝かさないかと云ふ事を書くのです。それは、今日私があの裁判所で傍聴した裁判に就いてです。そしてその被告人は女でした。けれども、私は特別にそれが女だつたからと云ふ興味だけで聞いたのではありません。また女だつたから特に面白いと云ふ種類のものでもありませんでした。私はその裁判される事柄それ自身よりは『裁判』と云ふものに興味を感じたのでした。

あなたには、勿論こんな事はちつとも今更らしく私の話を聞くまでもなく充分承知してゐらつしやるでせう。だからこそ、始終区裁判所の傍聴をすゝめてゐらしたのです。その事はよくわかつてゐます。私をよく知つてゐて下さるあなたは、私が斯うして興味を持つに違ひないと云ふ事を、とうから御存知なんです。けれど、私がそれをどう云ふ風に観、どう云ふ風に聴きそしてどう云ふ点に多く興味を見出したかと云ふ事を知りたいとお思ひにならないでせうか? 私は勿論二人が一緒にゐるのなら、直ぐに、私の観た丈けのこと、聴いた丈けのこと、そして感じた丈けのことを皆んなあなたに話すでせう。けれど今、私とあなたは厳重に引きはなされてゐる。私が何を感じようと考へようとそれを私の口からあなたの耳へ聞かすことは出来ない。またあなたの思ふこと感じたこと、それをそのまゝ私の耳へ移すことも出来ないのです。あの十分か五分の間の面会所での話! 何が話せませう? 私達は顔を見合はすだけぢやありませんか、そして僅かな用事以外にどれだけの話が出来ます? 二日目か、三日目に会ふ数分間の時を私達は何んと云ふプロゼイツクな消し方をしなければならないんでせう? 恐らく、二ヶ月に一回、一年に一回と云ふやうな場合にでも、やつぱりあれ以上の事は出来ないのでせうね。そして、その私達に残された唯一の話し合ふ方法と云つたら手紙にたよる外はないのです。その手紙すらも、どうかすれば間で押へられる。丁度私達が、偶々遇ふあの面会の時の話を、立ち会ひの看守達にともすれば干渉されるやうに――。

私は今此処に、どうしてもあなたに聞いて欲しい事を残らず書かうとしてゐます。あなたが、どんな気持ちでこれをよんで下さるか、それを想ふと私の胸は震へる。けれど、それがもしかすればあなたのお手にははひらずに、間で、誰か役人の机の中に投りこまれてしまふかもしれない、と思ふとまた私の胸は暗くなります。

けれど、それでもいゝ! それでもなほ私は此の手紙を書き終せます。私はそんな事を考へてはならない。此の手紙がよしどうならうと、此の手紙はあなたへお話しする為めに私が書くのです。他の人に関係した事ぢやない! お役人などに解る事柄ぢやない! あなたに、あなた丈けが理解して下さる筈の事柄なのですもの、私はちつとも躊躇せずに書きませう。他の誰が見るのでもない聴くのでもない、あなたが待つてゐて下さるから書くのです。二人だけの話! えゝ、離れてさへゐなければ私は口で云ひ、あなたは耳で聞く、離れてゐるから私は口の代りに手、あなたは耳の代りに眼で読むだけのことなのです。

ねえ、でも私が斯うして今あなたに話しかけてゐる事も知らないで、あなたは今頃昼間の疲れに眠つてゐるのでせうね。それでもまだ寝もやらずに読書でもしてゐらつしやるか? 一番いやな想像で、南京虫や蚤の襲来を一生懸命に見張つてゐらつしやるのでせうか?

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