Chapter 1
哲学館主 井上円了述
美妙なる天地の高堂に座して、霊妙なる心性の明灯を点ずるものはなんぞや。だれも問わずして、その人間の一生なるを知る。果たしてしからば、その一生中、森然たる万有を照見するものは実に心灯の光なり。しかして、その光を養うものは諸学の油なり。ゆえに、諸学ようやく進みて心灯ようやく照らし、心灯いよいよ明らかにして天地いよいよ美なり。吾人すでに心灯を有す、あに諸学の講究を怠るべけんや。これ余が先年、妖怪学研究に着手したるゆえんなり。方今、大政一新、文運日に興り、明治の治蹟また、まさに大成を告げんとす。皇化のうるおすところ遠く草莽に及び、余のごとき微臣、なお茅屋の下に安臥して閑歳月に伴うを得。ああ、窓間一線の日光もまた、君恩の余滴にあらざるなし。余輩、あに碌々として徒食するに忍びんや。ここにおいて、積年研究せる妖怪学の結果を編述して、世人に報告するに至る。けだしその意、同胞とともに一点の心灯をかかげきたりて、天地の活書を読まんとし、かつ自ら満腔の衷情をくみきたりて、国家の隆運を助けんとするにほかならず。今やわが国、海に輪船あり、陸に鉄路あり。電信、電灯、全国に普及し、これを数十年の往時に比するに、全く別世界を開くを覚ゆ。国民のこれによりて得るところの便益、実に夥多なりというべし。ただうらむらくは、諸学の応用いまだ尽くさざるところありて、愚民なお依然として迷裏に彷徨し、苦中に呻吟する者多きを。これ余がかつて、今日の文明は有形上器械的の進歩にして、無形上精神的の発達にあらずというゆえんなり。もし、この愚民の心地に諸学の鉄路を架し、知識の電灯を点ずるに至らば、はじめて明治の偉業全く成功すというべし。しかして、この目的を達するは、実に諸学の応用、なかんずく妖怪学の講究なり。国民もし、果たしてこれによりて心内に光明の新天地を開くに至らば、その功すこしも外界における鉄路、電信の架設に譲らずというも、あに過言ならんや。妖怪学の研究ならびにその説明の必要なること、すでにかくのごとし。世間必ず、余が積年の苦心の決して徒労にあらざりしを知るべし。
妖怪学とはなんぞや。その解釈を与うるは、すなわち妖怪学の一部分なり。今、一言にしてこれを解すれば、妖怪の原理を論究してその現象を説明する学なり。しからば妖怪とはなんぞや。その意義、茫然として一定し難し。あるいは曰く、「幽霊すなわち妖怪なり」と。あるいは曰く、「天狗すなわち妖怪なり」と。あるいは曰く、「狐狸の人を誑惑する、これ妖怪なり」と。あるいは曰く、「鬼神の人に憑付する、これ妖怪なり」と。あるいは陰火、あるいは竜灯、あるいは奇草、あるいは異木、これ妖怪なりというも、かくのごときは、みな妖怪の現象にして、妖怪そのものの解釈にあらず。しかして、妖怪そのものの解釈に至りては、けだし、だれも確然たる定説を有せざるべし。あるいはこれを解して不思議といい、あるいはこれを釈して異常もしくは変態というも、これみな、妖怪はすなわち妖怪なりというに異ならず。もしこれをもって妖怪の定義とするときは、なにをか不思議といい、なにをか異常というやを解説せざるべからず。しからざれば、思議のなにものにして、常態のいかなる事柄なるやを考定せざるべからず。しかりしこうして、通俗一般に了解するところによるに、妖怪とは普通の知識にて知るべからず、尋常の道理にて究むべからざるものをいうなり。しからばさらに問いを起こして、普通の知識、尋常の道理とはなんぞや。たとえ知識、道理に高下の別ありとするも、いかなる標準を立ててこの分界を定むべきや。かくのごとく推問するときは、その結局、知るべからず解すべからずといいてやむよりほかなし。けだし人知の関するところは、なにごとも四面めぐらすに、不可知的の境壁をもってすることを記せざるべからず。しからば、妖怪は全く不可知的なるか。もし、これを不可知的と断定すれば、これを研究するの愚なることを知らざるべからず。しからば、妖怪はよく知り得べきか。もし、これを可知的とすれば、さらに種々の疑問ありて起こる。これを要するに、妖怪そのもののなんたるを究めてこれに説明を与うるは、すなわち妖怪学の目的とするところなり。しかしてその定義に至りては、妖怪学本論を講ずるときに詳述すべし。
世人多くは、自己の心鏡に照らして知るべからざるものを妖怪という。ゆえに、甲の妖怪とするものは乙これを妖怪にあらずとし、乙の妖怪とするものは丙これを妖怪にあらずとす。愚民は、なにを見てもその理を知るべからず。ゆえに、事々物々みな妖怪となる。学者は、よく愚民の知るべからざるものを知る。ゆえに、その妖怪を指して妖怪にあらずという。しかれども、もし学者にして妖怪全くなしといわば、これ学者の妄見なり。例えば愚民の妖怪ありとするは、あたかも船に乗りて自ら動くを知らず、対岸のはしるを認めて真に動くと信ずるがごとし。ゆえに、学者は大いにその愚を笑う。しかして学者の妖怪なしとするは、あたかも地球に住息して太陽の上下するを見、これ地球の動くにあらずして太陽の動くなりと信ずるがごとし。もし赫々たる哲眼を開ききたりてこれを徹照しきたらば、またその愚を笑わざるを得ず。なんとなれば、学者の妖怪にあらずとするもの、また一種の妖怪なればなり。仰いで天文を望めば、日月星辰、秩然として羅列するもの、一つとして妖怪ならざるはなし。俯して地理を察するに、山川草木、鬱然として森立するもの、またことごとく妖怪なり。風の蕭々として葉上に吟ずるも、水の混々として石間に走るも、人の相遇って喜び、相離れて悲しむも、怪中の怪、妖中の妖ならざるなし。それ、一杯の水は一滴の露より成り、一滴の露は数個の分子より成り、分子は小分子より成り、小分子は微分子より成り、微分子はすなわち化学的元素なり。もし、そのいわゆる元素はなにより成るを問わば、けだし、だれもこれに答うるものなかるべし。これ、すなわち一小怪物なり。人身の大なる、これを国土に比すれば、滄海の一粟にも及ばず。国土の大なる、これを地球全体に比すれば、また九牛の一毛にも及ばず。地球の大なる、これを太陽系に較すれば、その微小なる、譬喩の及ぶところにあらず。太陽系の大なる、これを無涯の空間に較するに、また比例の限りにあらず。しかして、空間そのもののなんたるに至りては、実に人知の及ばざるところにして、これまた一大怪物なり。果たしてしからば、これを小にしてもこれを大にしても、妖怪その両岸を築きて、人をしてその外に出ずることあたわざらしむ。これ実に真正の妖怪なり。しかして、その間に架したる一条の橋梁は、すなわち人の知識なり。学者この橋上に立ちて、愚俗下流の輩の頑石の間にわだかまり、迷いてその道を知らざるを見て、世に妖怪なしと断言するは、その識見の小なるを笑わざるを得ず。しかりしこうして、愚俗の妖怪は真怪にあらずして仮怪なり。仮怪を払い去りて真怪を開ききたるは、実に妖怪学の目的とするところなり。
およそ妖怪の種類は、これを細別するにいくたあるを知らずといえども、これを概括すれば、物怪、心怪の二大門に類別するを得べし。物怪はこれを物理的妖怪と称し、心怪はこれを心理的妖怪と称す。しかしてまた、この二者相互の関係より生ずる一種の妖怪あり。例えば、鬼火、不知火のごときは単純なる物理的妖怪にして、奇夢、霊夢のごときは単純なる心理的妖怪なり。しかして、コックリ、催眠術、魔法、幻術のごときに至りては、物心相関の妖怪というべし。
世人、妖怪の種類を挙ぐるときは、耳目に触るるところの感覚上の妖怪に限るも、余のいわゆる妖怪は感覚以外に及ぼし、卜筮、人相、九星、方位のごとき観理開運に関する諸術、ならびに鬼神、霊魂、天堂、地獄のごとき死後冥界に関する諸説、またみな妖怪の一種に属するなり。およそ世間に人の最も恐れ、かつ最もその心を苦しむるものは、生死の境遇よりはなはだしきはなし。もし、生死の迷門を開きて死後の冥路を照らすものあらば、その人間に与うる福利、これより大なるはなし。しかして、余のいわゆる妖怪学は、実にこの門を開く管鑰にして、またこの道を照らす灯台なり。かつまた、人だれか一身の幸福、一家の安全を祈らざるものあらんや。しかして禍難ときに一身を襲い、災害また一家を侵す。これを予防せんと欲するも、自ら前知するあたわず。ここにおいて、百方力を尽くして、吉凶を予定する風雨鍼を発見せんとし、ついに卜筮、人相のごとき諸術の世に行わるるに至る。もしそれ、その風雨鍼のたのむに足らざるを知りて、これに代うるに、禍難に際会するもさらにその害を感ぜざる一種の避雷柱を適用するに至らば、その世を利するや、生死の迷門を開示するとなんぞ異ならん。しかして、これまた妖怪学応用の結果なり。ゆえにその学の講究、あに忽諸に付すべけんや。
妖怪学は哲学の道理を経とし緯として、四方上下に向かいてその応用の通路を開達したるものなり。もし哲学の火気を各自の心灯に点じきたらば、従来の千種万類の妖怪、一時に霧消雲散し去りて、さらに一大妖怪の霊然としてその幽光を発揚するを見る。これ、余がいわゆる真正の妖怪なり。この妖怪ひとたびその光を放たば、心灯の明らかなるも、これとその力を争うあたわずして、たちまちその光を失うに至るべし。あたかも旭日ひとたび昇りて、衆星その光を失うがごとし。仮にこの大怪を名付けて、これを理怪という。余の妖怪研究の目的の、仮怪を払い去りて真怪を開き示すと唱うるゆえん、ここに至りて知るべし。
理怪とはなにをいうや。無始の始より無終の終に至るまで、無限の限、無涯の涯の間に、飄然として浮かび塊然として懸かり、自生自存、独立独行、霊々活々の真体をいう。だれもその名を知らずして、その体あるを知る。その体あるを知るも、これに名付くるゆえんを知らず。けだしその体たるや、知るべきがごとくにして、しかして知るべからず、知るべからざるがごとくにして、しかして知るべし。これ実に大怪物なり。これを称して神妙、霊妙、微妙、高妙、玄妙というも、その体より発散せる光気の一部分を形容したるに過ぎず。あるいはこれを字して、老子は無名といい、孔子は天といい、あるいは易に太極といい、釈迦は真如といい法性といい仏といい、ヤソは天帝といい、わが国に神というも、みなその体の一面に与うる仮名に過ぎず。余はこれを理想と称するも、また一部分の形容のみ。だれか、よく有限性の名をもって無限性の体をあらわし得るや。むしろ、これを大怪物として名付けざるをよしとす。しからざれば、有限性の名称を階梯として、その裏面に包有せる無限性を感知領得することをつとむべし。
吾人、仰いで観、俯して察するときは、自然に一種高遠玄妙の感想を喚起す。これすなわち、理想の大怪物の光景に感接したるときなり。これより、ようやくその心に精究すれば、ようやくその真相を開顕し、ついに心天渺茫たるところ、ただ理想一輪の明月を仰ぎ、一大世界ことごとく霊然たる神光の中に森立するを見るべし。このときはじめて、この世界の理想世界なることを了知するなり。すでにひとたび理想世界なるを知りて再び万有を観見すれば、囀々たる鳥声も妍々たる花容も、みな理想の真景実相なるを領得すべし。これ、いわゆる哲学的悟道なり。ここにおいて、理想に本体と現象との別あるを知るべし。物心万有は現象なり。現象の本体におけるは、影の形に伴うがごとく須臾も相離れず、しかして二者その体一つなり。ゆえに、万有を推究してその神髄に体達しきたれば、ただちに理想の真光に接触すべく、また、理想の本体を悟了して目前の世界を照観しきたれば、事々物々の葉上に霊妙の露気を浮かぶるを感見すべし。三春の花香鳥語における、中秋の清風明月における、夏木の葱々たる、冬雪の皚々たる、一つとして美かつ妙ならざるなし。これすなわち、理想の真相の自然に外界に鍾発したるものにあらずしてなんぞや。けだし、理想の本体は宇宙六合を統轄する無限絶対の帝王にして、この世界に下すに物心二大臣をもってし、吾人をしてその二大臣の従属たらしむ。しかして、吾人の体の物心の二根より成るを知り、ひとたび心灯をかかげきたりて天地を照見するときは、たちまちそのいわゆる二大臣は、全く理想帝王の現象にほかならざるを知るべし。ああ、吾人この美妙なる世界に生まれながら、終身その真相を観見せずして死するもの多し。誠に哀れむべし。もしその人、一団の心灯を暗室に点じきたらば、一大天地たちどころに美妙の光景を現じ、破窓敝屋もたちまち変じて金殿玉楼となり、衆苦多患の世界も仙境楽園となり、そのはじめ妖中の妖たる理想の大怪物、ここに至りて神妙、霊妙、高妙、玄妙、精妙、美妙を現呈し、徹頭徹尾、妙中の妙となるべし。この理を人に示すは実に妖怪研究の目的にして、さきに仮怪を払って真怪を開くとはこれ、これをいうなり。
かくのごとく仮怪を払い去れば、人をして超然として迷苦の関門外に独立せしむることを得、また、かくのごとく真怪を開ききたらば、人をして泰然として歓楽の別世界に安住せしむることを得べし。ゆえに妖怪研究の結果は、心内の暗天地に真知真楽の光明を与うるにあり。これ余がその功、鉄路、電信の架設に譲らずというゆえんなり。
世人、一方には妖怪を信じて事実明確、疑うべからざるものとし、一方にはこれを排して無根の妄説なりとす。しかして、これを信ずるものは、単にこれを真とするのみにて、さらにその真なるゆえんを証明せず。いわゆる独断なり。また、これを排するものは、単にこれを虚なりとするのみにて、さらにそのしかるゆえんを説示せず。これまた独断なり。しからざれば懐疑の弊を免れず。これみな説明の、そのよろしきを得ざるものにして、到底一致することなかるべし。けだし、この二種の論者の間に、一条の溝渠ありて相隔つるによる。例えば、甲論者は現に妖怪を実視せりといい、乙論者はこれ神経作用なりという。しかして甲は、なにゆえに実視したるものは必ず真理なるやを証明せず、また乙は、神経作用そのもののなんたるを説明せず。ゆえをもって、世の文運の進むにかかわらず、旧来の妖怪依然としてその形を改めず、かえってその勢力を張らんとす。ここにおいて、余は哲学の利器を提げきたりて、一刀両断の断案をその上に下さんとす。
余の妖怪説明は哲学の道理によるというも、妖怪中物怪のごときは、その説明は理学をまたざるべからず。また、人身上に発する妖怪のごときは、医学の解釈によらざるべからず。ゆえに余は哲学を礎とし、理学、医学を柱とし壁とし、もって妖怪学の一家を構成せんとす。
妖怪の種類は、さきに大別するところによれば、物怪、心怪、理怪の三種に分かち、物怪、心怪を仮怪とし、ひとり理怪を真怪とするなり。今、「妖怪学講義」もこの分類に従って順序を立つべきはずなるも、余はこれを諸学科の上に考えて説明を与えんとし、かつ、『哲学館講義録』の上において講述せんとする意なれば、さらに左のごとき部門を設くるに至る。
妖怪学講義
第一類 総論
第二類 理学部門
第三類 医学部門
第四類 純正哲学部門
第五類 心理学部門
第六類 宗教学部門
第七類 教育学部門
第八類 雑部門
これ実に講義の順序なり。もし、その各部門の種類を挙ぐれば左のごとし。
総論 定義、種類、原因、説明等理学部門 天変、地異、奇草、異木、妖鳥、怪獣、異人、鬼火、竜灯、蜃気楼、竜宮の類医学部門 人体異状、癲癇、ヒステリー、諸狂、仙術、妙薬、食い合わせ、マジナイ療法の類純正哲学部門 前兆、予言、暗合、陰陽、五行、天気予知法、易筮、御鬮、淘宮、天元、九星、幹枝術、人相、家相、方位、墨色、鬼門、厄年、有卦無卦、縁起の類心理学部門 幻覚、妄想、夢、奇夢、狐憑き、犬神、天狗、動物電気、コックリ、催眠術、察心術、降神術、巫覡の類宗教学部門 幽霊、生霊、死霊、人魂、鬼神、悪魔、前生、死後、六道、再生、天堂、地獄、祟、厄払い、祈祷、守り札、呪咀、修法、霊験、応報、託宣、感通の類教育学部門 遺伝、胎教、白痴、神童、記憶術の類雑部門 妖怪宅地、怪事、怪物、火渡り、魔法、幻術の類 これ大体の分類に過ぎず。そのうち二種もしくは三種の部門に関係を有するものあるも、余は講義の便宜に従って、随意に一方の部門にこれを掲ぐ。例えば幽霊のごときは、心理学に関係を有するもこれを「宗教学部門」に掲げ、巫覡のごときは、宗教学に関係を有するもこれを「心理学部門」に掲ぐ。また、卜筮、予知法のごときは、間接に種々の部門に関係を有するも、直接に関係する部門なきをもって、純正哲学の一門を設けてその中に属す。別に妖怪宅地、怪事、怪物のごときは、種々の部門混合せるをもって、雑部門を設けてこれに摂す。これ、ただ便宜に従うのみ。かつ、この分類のごときも、学科上より見るときは不規律、不整頓の感なきにあらざるも、年来収集せる事実にもとづきて種目を定めたるをもって、かくのごとく部門を設けざるを得ざるに至れり。もし、さらに詳細の種目を列挙すれば左のごとし。
第一類 総論第一編 定義 第二編 学科 第三編 関係 第四編 種類 第五編 歴史 第六編 原因 第七編 説明第二類 理学部門第一種(天変編)天変、日月、蝕、異星、流星、日暈、虹、風雨、霜雪、雷電、天鼓、天火、蜃気楼、竜巻第二種(地妖編)地妖、地震、地陥、山崩れ、自倒、地雷、自鳴、潮汐、津波、須弥山、竜宮、仙境第三種(草木編)奇草、異穀、異木第四種(鳥獣編)妖鳥、怪獣、魚虫、火鳥、雷獣、老狐、九尾狐、白狐、古狸、腹鼓、妖獺、猫又、天狗第五種(異人編)異人、山男、山女、山姥、雪女、仙人、天人第六種(怪火編)怪火、鬼火、竜火、狐火、蓑虫、火車、火柱、竜灯、聖灯、天灯第七種(異物編)異物、化石、雷斧、天降異物、月桂、舎利第八種(変事編)変化、カマイタチ、河童、釜鳴り、七不思議第三類 医学部門第一種(人体編)人体の奇形変態、死体の衄血、死体強直、木乃伊第二種(疾病編)疫、痘、瘧、卒中、失神、癲癇、諸狂(躁性狂、鬱性狂、妄想狂、時発狂、ヒステリー狂等)、髪切り病、恙虫第三種(療法編)仙術、不死薬、錬金術、御水、諸毒、妙薬、秘方、食い合わせ、マジナイ療法、信仰療法第四類 純正哲学部門第一種(偶合編)前兆、前知、予言、察知、暗合、偶中第二種(陰陽編)河図、洛書、陰陽、八卦、五行、生剋、十干、十二支、二十八宿第三種(占考編)天気予知法、運気考、占星術、祥瑞、鴉鳴き、犬鳴き第四種(卜筮編)易筮、亀卜、銭卜、歌卜、太占、口占、辻占、兆占、夢占、御鬮、神籤第五種(鑑術編)九星、天元、淘宮、幹枝術、方位、本命的殺、八門遁甲第六種(相法編)人相、骨相、手相、音相、墨色、相字法、家相、地相、風水第七種(暦日編)歳徳、金神、八将神、鬼門、月建、土公、天一天上、七曜、九曜、六曜、十二運第八種(吉凶編)厄年、厄日、吉日、凶日、願成就日、不成就日、有卦無卦、知死期、縁起、御弊かつぎ第五類 心理学部門第一種(心象編)幻覚、妄想、迷見、謬論、精神作用第二種(夢想編)夢、奇夢、夢告、夢合、眠行、魘第三種(憑付編)狐憑き、人狐、式神、狐遣い、飯綱、オサキ、犬神、狸憑き、蛇持ち、人憑き、神憑り、魔憑き、天狗憑き第四種(心術編)動物電気、コックリ、棒寄せ、自眠術、催眠術、察心術、降神術、巫覡、神女第六類 宗教学部門第一種(幽霊編)幽霊、生霊、死霊、人魂、魂魄、遊魂第二種(鬼神編)鬼神、魑魅、魍魎、妖神、悪魔、七福神、貧乏神第三種(冥界編)前生、死後、六道、再生、天堂、地獄第四種(触穢編)祟、障り、悩み、忌諱、触穢、厄落とし、厄払い、駆儺、祓除第五種(呪願編)祭祀、鎮魂、淫祀、祈祷、御守、御札、加持、ノリキ、禁厭、呪言、呪咀、修法第六種(霊験編)霊験、感応、冥罰、業感、応報、託宣、神告、神通、感通、天啓第七類 教育学部門第一種(知徳編)遺伝、白痴、神童、偉人、盲唖、盗心、自殺、悪徒第二種(教養編)胎教、育児法、暗記法、記憶術第八類 雑部門第一種(怪事編)妖怪宅地、枕返し、怪事第二種(怪物編)化け物、舟幽霊、通り悪魔、轆轤首第三種(妖術編)火渡り、不動金縛り、魔法、幻術、糸引き 以上数種の妖怪は、学科の部門に応じて八類に分かちたるものなれば、これを『哲学館講義録』に掲げ、第七学年度講義録をもって「妖怪学講義録」となさんとす。それ本館発行の講義録は毎年十一月上旬初号を発行し、翌年十月下旬に至りて完結するを例とす。よって、本年十一月上旬より発行する講義録に「妖怪学講義」を掲げ、これを他学年の講義録に区別せんために、第七学年度講義録と名付くるなり。しかして、その講義は理学、哲学諸科の原理に照らして説明を付するものなれば、これを通読するものにひとり妖怪の道理を知らしむるのみならず、あわせて各学科の大要を講究するの便を得せしめ、決して『哲学館講義録』の名義にたがわざらんことを期す。
そもそも余が妖怪学研究に着手したるは、今をさること十年前、すなわち明治十七年夏期に始まる。その後、この研究の講学上必要なる理由をのべて、東京大学中にその講究所を設置せられんことを建議したることあり。これと同時に、同志を誘導して大学内に不思議研究会を開設したることあり。当時、余の意見に賛同して入会せられたるものは左の諸氏なり。
三宅雄二郎 田中館愛橘 箕作 元八 吉武栄之進 坪井 次郎 坪井正五郎 沢井 廉 福家梅太郎 棚橋 一郎 佐藤勇太郎 坪内 雄蔵
しかして、その第一会は、明治十九年一月二十四日、大学講義室においてこれを開きたり。その後、会員ようやく増加せしも、余久しく病床にありて、その事務を斡旋することあたわざるに至り、ついに休会することとなれり。
また、当時全国の有志にその旨趣を広告して、事実の通信を依頼したることあり。その今日までに得たる通知の数は、四百六十二件の多きに及べり。
またその間、実地について研究したるもの、コックリの件、催眠術の件、魔法の件、白狐の件等、大小およそ数十件あり。その他、明治二十三年以来、全国を周遊して直接に見聞したるもの、またすくなからず。かつ数年間、古今の書類について妖怪に関する事項を捜索したるもの、五百部の多きに及べり。今その書目を挙ぐること左のごとし。