Chapter 1 of 18

「よし偉いもんになったるぞ」

『紙にしようか、メリケン粉にするか』。私はまだ迷っていた。明治四十二年、二十九歳のときである。朝鮮から満州、香港と流れ歩いた末、やっと見つけた東京での二畳の部屋。そこへ大の字にひっくり返って、天井の雨漏りのしみをながめながら考えたのはこれからのことだった。紙というのは後に私が名づけ親となった段ボール――いまではテレビなどの電機製品の紙ばこ材料になっている、あれである。あるいはメリケン粉を練ってパン屋でも始めるか……私には思案にあまることだった。そんなとき、ふと耳にしたのは練塀町の稲荷おろしのことである。考えあぐねた私は早速そこへ飛び込んだ。

巫女は白髪の老婆だった。御幣をあげさげしているうちに、体が踊り出す、目がつり上がる。巫女はうわずった声でいった。『ほかはいかん、いかん。紙じゃ、紙の仕事は立板に水じゃ……』。よし、これで決まった。私は五十銭払って、二畳のねぐらへ道を急いだ。それから五十年、私はカミのお告げにしたがって、紙にしわを寄せながら生きてきた。

人生の道程でいくたびか出会った分かれ道、そのどこかひとつが変わっていれば、私はいまとは全く違ったものになっていたであろう。初めの奉公先を飛び出した十五のころ、汽車賃が足らず伊勢参りをやめて横浜へ流れたとき、木曜島に売り飛ばされる寸前、香港で阪大佐太郎に救われたあの日。まるで鉛筆を立てて、その倒れぐあいで人生航路を決めていたような私だったが、私と段ボールとをつなぐ見えない糸はいつもたぐられていたのであろうか。

段ボールを手がけてからは、人生のサイコロの目は、まずまず順調に出た。しかしそれまでの私はなんと遠回りをしたことだろう。そんなとき「寝れば一畳、起きれば半畳、五合とっても三合飯」という明るさと『いまにえろなったるぞ』との人一倍の意欲が、私の力になった。――話をさらに二十年ほど戻して、私のふるさとの村へ返そう。

播州平野に流れる揖保川は鮎の産地として名高い。私はその揖保川の堤から二、三町ばかり行った百戸ばかりの一寒村で、農業を営む長谷川家の三男坊として生まれた。戸籍では明治十五年十月三日生まれとなっているが、実は明治十四年の盆踊りのあった翌朝のことだったという。二歳のとき、当時は家系の跡つぎは鎮台(兵役)をのがれる特典があったので、米二俵を持って遠縁の井上家の死籍相続人になった。「初めに言葉あり」。しかし人の歴史は心に残る最初の記憶から始まる。私の場合、それは五歳のころの寺子屋時代であった。なんでも友だちのすずりを前歯でかみ割ってえらく泣かれて困ったのを薄ぼんやり覚えている。また二本の竹ん棒を友だちの肩にわたしてまん中にまたがり、得意になっていて振り落された記憶は、いまでも残っているそのときのひたいの傷あととともに、私にはなつかしいものだ。

村の祭には、有名な太鼓が繰出した。ドドンコドンコドコ。その響きがまことに珍妙なのである。村の子供が東と西に分かれ、太鼓をかついで練り歩くけんか祭だ。チョーイなんぞい! 東所がなんぞい! お前なんかに負けるかい! チョーイまかせ! 私はいつも西の大将であり、腕は弱いが気が強いので出しゃばった。だが私は子供のころからあまり運がいい方ではなかった。私の国では朝はオミー(雑炊)かオカユなのだが、オミーだと米の団子と粟の団子を入れる。ところがふしぎに私のわんにはいるのは粟の団子ばかり。『お母あ、また粟だったわ』とみせると『お前は運の悪い子やなあ、またお前にあたったか……』。私は黙ってそれを食べていた。しかしすべてがこんな調子なのである。

生家はむしろ豊かな方で、私も村でただ一人高等まであげてもらったが、それでも結構追い使われた。大根売りや米つき。へとへとになって夜机に向かいながらついうとうとし、カンテラの火で着物の右そでを焦してひどくしかられたこともあった。私は高等を出たら姫路の中学にやってもらえると思い込んでいた。だがいいじいさんだが、気の小さい父は中学へ三十銭の月謝を出すより、田地の一反でもほしい性格だった。ちょっとやけ気分になっていたころ、私が全く予期しなかった奉公話が持ちあがった。

娘のころ、大阪の住友家に奉公に出ていた母はよく『男の子は上方へ奉公にやらな出世しやへん』と口ぐせのようにいっていた。『よし偉いもんになったるぞ』私は当時神戸の生糸検査所の用務員をしていた同村の和助さんにつれられ、母が渡してくれた銅貨まじりのがま口をふところに、両親兄弟の見送りもなく、奉公先のある兵庫をさして網干の港をたった。

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