Chapter 1 of 4

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夜泣き鉄骨

海野十三

真夜中に、第九工場の大鉄骨が、キーッと声を立てて泣く――

という噂が、チラリと、わしの耳に、入った。

「そんな、莫迦な話が、あるもんか!」

わしは、検査ハンマーを振る手を停めて、カラカラと笑った。

「そう笑いなさるけどナ、組長さん」その噂を持ってきた職工は、慄えた眼を、わしの方に向けて云った。「昨夜のことなんだよ、それは……。火の番の、常爺が、両方の耳で、たしかに、そいつを聴いたよッて、蒼い顔をして、此のおいらに話したんだ。満更、偽りを云っているんだたァ、思えねぇ」

いつの間にか、わし達の周りには、大勢の職工が、集ってきた。

「組長さん、それァ本当なんだ」別の声が叫んだ。

「なんだとォ――」おれは、その声のする方を見た。「てめえは、雲的だな。雲的ともあろうものが、軽卒なことを喋って、後で笑れンな」

「大丈夫ですよ――」雲的は大いに自信ありげに、言葉をかえした。「それについちゃ、ちィっとばかり、手前の恥も、曝けださにゃならねえが、もう五日ほど前のことでさァ。徹夜勝負のそれが、十二時を過ぎたばかりに、スッカラカンでヨ、場に貸してやろうてえ親切者もなしサ、やむなく、工場の宿直、たあさんのところへ、真夜中というのに、無心に来たというわけ。さ、その無心を叶えて貰っての帰りさ、通り懸ったのが今話しの第九工場の横手。だしぬけに、キーイッという軋るような物音を聴いた。(オヤ、何処だろう)と、あっしは立停った。暫くは、何にも音がしねえ。(空耳かな?)と思って、歩きだそうとすると、そこへ、キーイッとな、又聞えたじゃねえか。物音のする場所は、たしかに判った。第九工場の内部からだッ。(何の音だろう? 夜業をやってんのかな)そう思ったのであっしは、顔をあげて、硝子の貼ってある工場の高窓を見上げたんだが、内部は真暗と見えて、なんの光もうつらない。(こりゃ、変だ!)俄に背筋が、ゾクゾクと寒くなってきた。そこへ又その怪しい物音が……。恐いとなると、尚聴きたい。重い鉄扉に耳朶をおっつけて、あっしァ、たしかに聴いた。キーイッ、カンカンカン、硬い金属が、軋み合い、噛み合うような、鋭い悲鳴だった」

「大方、工場に、鼠が暴れてるんだろう」わしは、不機嫌に云い放った。

「どうして、組長!」雲的はハッキリ軽蔑の色を見せて、叫びかえした。「あっしにァ、あの物音が、どこから起るのか、ちゃんと見当がついてるのでサ」

「ンじゃ、早く喋れッてことよ」

「こう、みんなも聴けよ」彼は、周囲の南瓜面を、ずーッと睨めまわした。「ありゃナ、クレーンが、動いている音さ!」

「なに、クレーンが」

一同が、思わず声を合わせて、叫んだ。

クレーンというのは、格納庫のように巨大な、あの第九工場の内部へ入って、高さが百尺近い天井を見上げると判るのだが、そこには逞しい鉄骨で組立てられた大きな橋梁のような形の起重車が、南北の方向に渡しかけられている。それが、クレーンだった。その橋梁の下には、重い物体をひっかける化物のようにでっかい鈎が、太い撚り鋼線で吊ってあり、また橋梁の一隅には、鉄板で囲った小屋が載っていて、その中には、このクレーンを動かすモートルと其の制動機とが据えてあった。制動機を動かすと、この鉄橋は、あたかも川の中で箸を横に流すように、広い第九工場の東端から西端まで、ゴーッと音をたてて横に動くのだった。

「おい、政ッ!」わしは、クレーンの運転手をやっている男を、人垣の中に呼んだ。

「へえ――」政は、紙のように、白い顔をして、おずおずと、前へ出てきた。

「クレーンが、真夜中に動き出すてのは、本当かな」

「わたしは、ナなんにも、存じませんです。しかし、クレーンのスウィッチは、必ず切って帰りますで、真夜中に、ヒョロヒョロ動き出すなんて、そんな妙なことが……」

そこまで云った政は、発作みたいな様子となり、言葉のあとをブツブツ口の中で呟いて、それから急に気がついたかのように、ワナワナ慄える両手を、周章てて背後に隠したのだった。

「よォし。今夜は、一つ正体を確かめてやろう。いいか、みんな夜中の十二時を廻ったら、裏門前に集るんだ!」

合宿所の、三階の、廊下を、パタパタと音をさせて、近づいてくる跫音があった。

「組長さん、おいでですか――」

その跫音は、「舎監居間」と書いた木札を、釘で打ちつけてあるわしの室の入口の前で停るが早いか、そう、声をかけたのだった。

「おう。誰かい」

「栗原です。倉庫係の栗原ですて」

「栗原? 栗原が、なんの用だッ」

「へえ、ちょっと工場の用なんで……」

「なにッ。工場の用て、どんなことだか云ってみろ」

「へえ、実は――」栗原は、言い淀んでいる風だった。「先日お持ちになりました乙型スウィッチが、急に入用になりましたんで、いただきに参ったんですが……」

「スウィッチなんか、明日にしろ」

「ところが生憎、工場で至急使うことになったんで、直ぐ持って行かないと困るんでして、実にその……」

「よォし、いま入口を開けるから、ちょっと待て」

暫くして、わしは、入口の扉を、サッと開けた。

「どうも相済みません」栗原は、わしの顔を見るなり、ペコリと頭を下げた。

「お前、この間、そう云ったじゃねえか。このスウィッチは、当分不用だから、いつまでもお使いなさい、とな」

「申訳がありませんです」栗原は、ひどく恐縮している態で、ペコペコ頭を下げた。「組長さんは、スウィッチの図面を書きたいから御持ちになるというので、そんな簡単な御用ならと、栗原は帳簿に書かないで、御貸ししたんです。ところが、今急に、拡張工事係の方から、在庫になっている乙型スウィッチは全部数を揃えて出せという命令なんで。どうも已むを得ず、ソノ……」

「文句はいいや。さア、早く持ってゆけ」

わしは、抱えていた乙型スウィッチを、彼の前に、さしだした。

乙型スウィッチというのは、長さ一尺五寸、幅七寸の、細長い木箱に収められた大きなスウィッチで、硝子蓋を開くと、大理石の底盤の上に幅の広い銅リボンでできた電気断続用の刃がテカテカ光り、エボナイト製の、しっかりした把手がついていた。このスウィッチ一つで、鳥渡したモートルの開閉は充分できるのであった。

「栗原さん、俺が持ってゆくよ」

横の方から、思いがけない、違った声がして、頭髪をモシャモシャにした若い男が、姿を現した。

「だッ、誰だ。手前は……」

わしは、戸口の蔭から、イキナリ飛び出した男に、駭いた。

「こいつは、横瀬といいましてネ」若い男の代りに栗原が弁解した。「この栗原の遠縁のものです」

「何故ひっぱってきたんだ」

「いまお願いして、倉庫で、私の下を働かせて、いただいてるのです。というのは、下町の薬種屋で働いていたのが、馘首になりましてナ、栗原のところへ、転りこんできたのです」

「ふウん、お前さん、薬屋かア」

珍らしそうに、スウィッチの表や裏を、眺めている若い男に、わしは、声をかけた。

「薬屋だったんです」その横瀬は、ぶっきら棒の返事をした。

「どうだろうな。わしは、お前さんに、ちょっと頼みたいことがあるんだが」

「骨の折れねえことなら、手伝いますよ」

「これッ――」栗原が駭いて、横瀬の汚い職工服を、ひっぱった。

「骨は折れねえことだ。じゃ、栗原、お前の若い衆を、ちょいと借りたぜ」

「へえ、ようがす」

栗原は、若い横瀬から、スウィッチの箱をうけとると一人で帰って行ったのだった。

「さあ、こっちへ、入んねえ」

「はあ――」

「わしは、鳥渡、お前さんに、見て貰いてえものがあるんだ」

「俺に、判るかなァ」

「ものは、これなんだ」わしは、机の抽斗しの奥から、新聞紙にくるんだものを、出してきた。

「この硝子で出来たものはなんだね」わしは、それを横瀬に手渡した。

「これは、注射器の一部分ですよ」

「注射器? そうだろうな、わしも、そう思った。それで、何の注射器か、お前さんに判らないかい」

「さァ――」横瀬は、モシャモシャ頭髪を、指でゴシゴシ掻いた。「注射器は判るが、尖端についている針が無いから、見当がつかねえ」

「じゃ、此処んとこを見て呉れ。この注射器の底に、ほんのり茶っぽいものが附いているが、これは、なんて薬かい」

「うん、なんか附いてはいるが――」若い男は注射器を、明り窓の方に透かして、その茶色の汚点に眺め入った。「電灯は点きませんか」

「生憎、この合宿じゃ、六時にならないと、点かないんだ。まだ三十分も間があるよ」

初夏の夕方は、五時半を廻っても、まだ大分明るかった。

「さあ、わかりませんね。こんなに分量が少くちゃ見当がつかない。薬品のようでもあり、血痕のようでもあり……」

わしは、グッと唾を呑みこんだ。

「もう一つ、見て貰いたいものがある」わしは、新聞紙包みの中から、もう一つの品物をとりだした。「これは何かね」

「こんなもの、どっから持って来たんです」横瀬は、ピカピカ光る、その外科道具のようなものを手に取上げ、ニヤニヤ笑いだした。

「何に使う品物かね」わしは、横瀬の質問には答えようとせず、同じことを、聞きかえしたのだった。

「一口に云えば――」と、わしの顔をジロリと見て、「子宮鏡という、産婦人科の道具だね」

「よし、判った」わしは、ピカピカするそれを、横瀬の手から、ひったくるようにして、元の新聞紙の中に、包んでしまった。

「いや、御苦労だった」と、わしは挨拶をした。「ところで、もう一つだけ、お前さんに見て貰いたいものがあるんだが」

「あるんなら、早く出しなせえ」

横瀬は、面倒くさそうに、云った。

「ここには、無いんだ。ちょっと、近所まで附合ってくれ」

「ようがす。ドッコイショ」

横瀬は、「ひびき」を一本、衣嚢から出して口に銜えると、火も点けないで、室内をジロジロと、眺めまわした。

「何を見てるんだ」わしは、訊いた。

「マッチは無いのかね」と彼は云った。

合宿の門を出ると、溝くさい露路に、夕方の、気ぜわしい人の往来があった。初夏とは云っても、遅れた梅雨の、湿りがトップリ、長坂塀に浸みこんで、そこを毎日通っている工場街の人々の心を、いよいよ重くして行った。

道では、逢う誰彼が、挨拶をして行った。

向うから、見覚えのある若い女が、小さい風呂敷包みを抱えてやってきた。

「お前さん」と其の女は、わしの連れを、チラリと睨みながら、云った。「これから、何処へゆくんだい」

「お前こそ、どこへ行くんだい」

「ふン、見れば判るじゃないか。今夜は、徹夜作業があるんだよ」

「夜業か。まァしっかり、やんねえ」

「お前さんの方は、どこへ行くのさァ」その女は、一歩近よって、云った。

「ちょいと、この仁と、用達しに」

「そうかい、あのネ」女は、口を、わしの耳に近づけて、連れに聞かせたくない言葉を囁いた。

「……」わしは、黙って、肯いた。

女に別れると、後から、附いてくる横瀬がわしに声をかけた。

「今の若いひとは、なかなか、美い女ですネ」

「そうかね」

「何て名前です」

「おせい」

「大将の、なにに当るんです」

「馬鹿!」

露路を二三度、曲った末に、わし達は、目的の家の前へ来たのだった。

わしは、雨戸を引かれた、表の格子窓に近づいて、家の内部の様子を窺った。幸いこのところは、露路裏の、そのまた裏になっている袋小路のこととて、人通りも無く、この怪しげな振舞も、人に咎められることがなかった。とにかく、家は留守と見えて、なんの物音もしなかった。わしは、連れを促して、裏手に廻った。

勝手元の引戸に、家の割には、たいへん頑丈で大きい錠前が、懸っていた。わしは、懐中を探って、一つの鍵をとり出すと、鍵孔にさしこんで、ぐッとねじった。錠前は、カチャリと、もの高い音をたてて、外れたのだった。

わしは、後を見て、横瀬に、家の中へ入るように、目くばせをした。

障子と襖とを、一つ一つ開けて行ったが、果して、誰も居なかった。若い女の体臭が、プーンと漂っていた。壁にかけてあるセルの単衣に、合わせてある桃色の襦袢の襟が、重苦しく艶めいて見えた。

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