Chapter 1 of 8

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流線間諜

海野十三

R事件

いわゆるR事件と称せられて其の奇々怪々を極めた事については、空前にして絶後だろうと、後になって折紙がつけられたこの怪事件も、その大きな計画に似あわず、随分永い間、我国の誰人にも知られずにいたというのは、不思議といえば不思議なことだった。

だが、後に詳しく述べるように、このR事件というのは実をいえば当時、国内問題のために非常な重大危機に立っていた某国政府当局が、その国家的自爆から免れる最後の手段として、相手もあろうにわが日本帝国に対して、試みた非常工作なのであった。もし其の怪計画が不幸にして曝露するようなことがあれば其の計画の破天荒な重大性からみて、日本帝国は直ちに立って宣戦布告をするだろうし、同時に列強としても某国を人道上の大敵として即時に共同戦線を張らなければならないことになるのは必定であって結局某国としてはこの怪計画に関し極度に秘密性を保つ必要があったのである。

一体その怪計画というのはどんなことだったか? それはいま読者諸君の何人といえども恐らく夢想だにされないであろうと思うような実に戦慄すべき陰謀だった。いずれ順序を追って述べてゆくうちにその怪計画の全貌が分る日が来るだろうが、そのときにはきっと筆者の今いった言葉の偽りではなかったことを知っていただけるであろう。

某国政府当局は、国運を賭けたこの怪計画のために、特によりすぐった特務機関隊を編成して、丁度一年前からわが国に潜入させたのだった。その計画の重大性からいっても、また派遣特務員の信頼するに足る技倆からいっても、この事件は目的を達するまで遂に全く秘密裡におかれるのではないかと思われたのであるけれども、世の中のことというものはなかなかうまくゆかないものであって、運命の神のいたずらとでも云おうか偶然が作った極く瑣細な出来ごとから、その年の十月、この怪計画に関係のある一部分が始めて我が官憲に知られるに至った。これがR事件の最初の一頁なのであるが、それは白昼華やかな銀座街の鋪道の上で起った妙齢の婦人の怪死事件から始まる。そして若しその怪死事件の現場にかの有名な青年探偵帆村荘六が居合わさなかったとしたら、これは舞台が華やかな銀座で演じられたというだけのことで結局極く普通の死亡事件として見遁されてしまったことであろう。一体帆村探偵は何を証拠として、その犯罪の裏にひそんでいた怪奇性を看破したのであろうか。実にそれはたった一個のマッチの箱からだったといえば、誰しも驚くにちがいない。筆者はこの辺で長い前置きを停めて、まず白昼の銀座街を振り出しのR事件第一景について筆をすすめてゆこうと思う。

それは爽やかな秋晴れの日のことだった。詳しくいえば十月一日の午後三時ごろのことだったが、青年探偵帆村荘六は銀座の鋪道の上を、靴音も軽く歩いていた。丁度彼は永い間かかった或る仕事を片づけた直後で、半ば興奮し、そして半ば退屈を覚えて、いつも愛用の細身の洋杖をふりふり散歩をしていたのだった。

鋪道の上で、彼にすれ交う人たちは、いずれも若く、そして美しかった。男よりも、どっちかというと若い女性が多かった。溌溂たる令嬢、麗しい若奥様、四、五人づれで喋ってゆく女学生、どこかで逢ったことのある女給、急ぎ足のダンサーなどと、どっちを向いても薔薇の花園に踏みこんでいるような気がした。しかしよもやその日花園の中で彼女等のうちの一人が死んでゆくところを目撃しようとは考えていなかった。

彼は銀座の四つ角を青信号の間に渡って、京橋の方に向って歩いているところだった。もう半丁もゆけば喫茶ギボンがあるので、そこによって温い紅茶をのもうと思った。そして眼をあげてチラリとその方角を眺めた。丁度そのときだった。彼は一人の洋装の麗人が喫茶ギボンの飾窓の前で立ち停ったままスローモーションの操り人形のように上体をフラリフラリと動かしているのを認めた。

「オヤ、どうしたんだろう?」

きっと練兵場の近くの女のひとで、見よう見真似で、足踏みでもしているのだろうと思っていたところ、突然ガックリと頭を垂れた。

「これァいけない!」

と驚いて帆村が叫んだのがキッカケのように、かの洋装の麗人は呀っという間もなく崩れるように地面に膝を折り、そして中心を失ってドタリと鋪道の上に倒れてしまった。

「脳貧血かしら……」

帆村は息せききって、彼女の倒れている場所へ駈けつけた。近くにいた人たち五、六人が駈けつけたが、ワアワア騒ぐばかりだった。帆村はその人たちを押しのけて前へ出た。そして誰よりも先に、倒れている婦人の脈搏を検べた。――指先には脈が全然触れない。つづいて、眼瞼を開いてみたが……もう絶望だった。

「おお……死んでいる!」

「たいへんだ。若い女が倒れた」

「自殺したんだそうだ。桃色の享楽が過ぎて、とうとう思い出の古戦場でやっつけたんだ」

「イヤそうじゃない。誰かに殺されたんだ。恐ろしい復讐なんだ!」

なにがさて、物見高い銀座の、しかも白昼の出来ごとだから、たちまち黒山のような人だかりとなった。もし帆村探偵が死にものぐるいになって喚きながら群衆を整理しなかったとしたら、屍体は群衆の土足に懸って絶命当時の姿勢を失い、取調べの係官の眉を顰めさせたろうと思う。いやそれも、もうすこし警官隊の駈けつけ方が遅かったら、屍体はもちろん、帆村自身も群衆のために揉みくちゃになったことだろう。丁度いい塩梅に、帆村が向うの喫茶ギボンの女給に頼んだ電話によって、強力犯係の一行が現場に到着したので危く難をのがれることができた。

「オヤオヤ、これは帆村君」と、顔馴染の大江山捜査課長が赭い顔を現した。「お招きによってどんな面白い流血事件でもあるのかと思って来たが、これは尖端嬢が目を廻しただけのことじゃないのかネ」

「いや、もう死んでいますよ」

「なに、こいつが死んでいるって」と大江山課長は頤で屍体を指した。「ふふーン」

課長は鋪道に膝をついて、さっき帆村がやったと同じことをして検べた。そして間もなく、手をポンポンと払って立ち上がった。

「死んでいることは確かだネ、だがこれは尖端嬢の頓死事件じゃないのかネ。普段心臓が弱かったとかなんとかいう……。要するに、見たところ、何の外傷もないし――」

そのとき鑑識課員が現場撮影をする準備ができたので、課長たちに屍体から離れてくれるように声をかけた。

「大江山さん、これは疑いもなく、他殺ですよ――」

と帆村は飾窓の外へ立ちながら云った。

「他殺? どうして? 解せんね」

「なァに、何でもないことですよ。あの女の靴下に大きな継布の当っているのを見ましたか。もし自殺する気なら、あのモダンさでは靴下ぐらい新しいのを買って履きますよ。なぜならあの女は手提の中に五十何円もお小遣いを持っているのですからネ」

「つまり自殺でないから、他殺だというんだネ。いや、そうはいえない。頓死かも知れない――さっき僕が指摘したように」

「もちろん頓死じゃありませんよ」と帆村は首を振って、「ごらんにならなかったでしょうか、あの婦人の口腔の中の変色した舌や粘膜を。それから変な臭いのすることを。――あれだけのことがあれば、頓死とはいえませんよ」

「それは見ないでもなかったが」と課長はすこし顔を赭らめていった。「じゃあ、中毒死だというんだろうが、それは頓死としても起り得ることじゃないかネ」

「課長の頓死といわれるのは図らずして自分だけで偶然の死を招いたという意味でしょうが、しかしそれに死ぬような原因を他から与えた者があれば、それはやはり他殺なんですからネ」

「すると君は、まだ何か知っているというんだネ」

「もう一つだけですが、知っていますよ。それはあの手提の中にある一つの燐寸です。それは時計印のごく普通のものですがネ。たいへん似あわしからぬことがあるんです」

「なに、燐寸が……」

課長はツカツカと屍体の傍により、傍に落ちていた手提をもって来た。そして中を開けると、なるほど時計印の燐寸箱が入っていた。

「これは至極普通の燐寸だネ。なにも変ったところが認められん」

「そうでしょうかしら」と帆村は首を振って「私はたいへん不思議です。第一このような不恰好な燐寸箱が、そのようなスマートな手提に入っていることが不思議であり、第二には燐寸の赤燐の表面は新しくて一度も擦った痕がないのに、その中身を見ると燐寸の数は半分ぐらいになっているのです。どうです、不思議じゃありませんか」

「ほう――」

と大江山課長は叫んで、燐寸の箱を開いてみると、なるほど不思議にも燐寸の軸木は半分ほどしか入っていなかった。

怪紳士

「どうも僕には、事件に関係のない極く普通の燐寸としか考えられないがね」と大江山捜査課長は首を振って「ねえ雁金さん。そうじゃありませんか」と、事件を主査している雁金検事の同意を求めた。

「さあ、どっちかな」と検事はこっちへ寄ってきながら、「これはまたいつもの御両所の水かけ論になりそうだネ。議論は一寸お預けとしてマッチの秘密がとけてからのことにすればいいじゃないか」

検事はいつも、大江山課長と帆村探偵の意見の対立で、散々手を焼いていたので、巧みに逃げた。

「そうでしょうが、この帆村は非常に重大視します」と帆村はいつになくハッキリと意志を現して云った。「燐寸というものが極く普通のものだけにこれを利用した疑問の人物を唯者でないと睨みます」

「しかし利用したかどうかはまだ分らない。なにしろ燐寸は一度も擦った痕がない位だからな」

「いや立派に利用していますよ。擦ってないから可笑しいのです。擦ってあるんだったら軸木が半分なくなっても別に不思議もないのです」

「それほど不思議なら、燐寸の箱を壊してよく調べてみたらどうだネ」と検事は云った。

「ねえ大江山君。その燐寸をバッグから出して帆村君に委せてもいいだろう」

「ええ、ようござんすとも。……では、出して来ましょう」

そういって大江山課長は、一人離れて、屍体の方に近づいた。そして跼んで、なにかゴソゴソやっていたが、なかなか立ち上ろうとしなかった。そのうちに、課長は不審そうな面持で一同をジロリと眺めまわし、

「ああ……誰かこの手提の中から時計印の燐寸を持って行きやしないか」

「燐寸ですって?……いいえ」

「燐寸は先刻収ったままですよ」

「誰も持っていった者がない!……さては……やられたッ」

やられたッ! と大江山課長が叫んだので、立ち並んだ検察隊は俄かにどよめいた。

「帆村君、燐寸が見えない。これは中々の事件らしいぞ」

流石事件の場数を経てきた捜査課長だけあって、ここへ来て始めて事件の重大性を悟ったのだった。帆村は別に驚いた顔もしていなかった。

「やっぱり、そうでしたか」

「そうだったとは……。君は何か心当りがあるのかネ」

「イヤさっき向うの飾窓のところに、一人の身体の大きな上品な紳士が、一匹のポケット猿を抱いて立ってみていましたがネ。そのうちにどうした機勢かそのポケット猿がヒラリと下に飛び下りて逃げだしたんです。そしてそこにある婦人の屍体の上をチョロチョロと渡ってゆくので警官が驚いて追払おうとすると、そこへ紳士が飛び出していって素早く捕えて鄭重に詫言をいって猿を連れてゆきました。その紳士が曲者だったんですね」

「ナニ曲者だった?」課長は噛みつくように叫んだ。

「そんならそうと、何故君は云わないんだ。そいつが掏摸の名人かなんかで、猿を抱きあげるとみせて、手提から問題の燐寸を掏っていったに違いない――」

「でも大江山さん、沢山の貴方の部下が警戒していなさるのですものネ。私が申したんじゃお気に障ることは分っていますからネ」

大江山は、昔から彼の部下が帆村を目の敵にして怒鳴りつけたことを思い出して、ちょっと顔を赧くした。

「とにかく怪しい奴を逃がしてしまっては何にもならんじゃないか。気をつけてくれなきゃあ、――」

「ああ、その怪紳士の行方なら分りますよ」

「なんだって?」と大江山は唖然として、帆村の顔を穴の明くほど見詰めた。そして、やがて、

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