Chapter 1 of 5

一、暗号

応接室に入った時、入れ違いに出て行った一人の紳士があった。

「あれは私の従兄なんですよ」

S夫人は手に持っていたノートを私に渡しながら、

「お暇があったら読んでみて頂戴な。あの従兄が書いたんですの」

「文学でもなさる方ですの?」

「否え、商売人なんです。最初の目的は別の方面にあったのですが、若い時はちょっとした心の弛みから、飛んでもない過失をやる事がありますからねえ。気の毒に従兄も失職して長い間遊んでいましたが、やっと先頃ある会社へ入りましたんですよ」

私は早速そのノートを読んでみた。

――神戸を出て二日目の晩だった。船に弱い私も幾分馴れてきたので、そろそろ食堂に出てみようかと思った。

大切な任務を帯びているということが絶えず頭を離れないので、今度の旅行はどうもいつものようにのんびりとした楽しい気分になれない。私は暗号を預っていたのだった。

出発の際、S夫人から注意された言葉が耳の底に残っていて離れない。「暗号はあなたの生命より大切だと思わなければいけない。トランクも危険よ。スーツケースはなお更だ。肌身につけていらっしゃい」――その通り肌身につけている。恐らくこれより安全な方法はあるまい。しかし私がこの大切な暗号を持っている事を誰も知っているはずはないのだから、自分さえ用心していれば大丈夫だろう。余りそんな事ばかり考えていると神経衰弱になってしまうからな。とにかくいま少し朗らかにやることだ。――と、こんなことを考えながら食堂へ入って行った。

私の席は事務長の傍にとってあった。少し遅れて出て来たので、もう食事は始まっていた。円い卓子を囲んだ五六人の客は事務長を相手に盛に談笑しながら、ホークやナイフを動かしていた。皆元気な若い男ばかりだったので、この卓子が一番賑やかだ。そろそろデザートを運ぼうとしている頃になって、二人連れの支那人が静かに入って来て、私の隣りの空席へ坐った。よほど身分のある人だろうということは、その服装からでも一と目で知れる。

多分お父さんとお嬢さんだろう、どこやら面ざしが似ている。男の方は少し前屈みで背がひょろ高かった。顔はまだ若い、それだのに頭髪は真白だった。

お嬢さんは二十四か五か、桃色の支那服がいかにも奇麗で可愛らしく見えた。しかしこれは病人らしく思えた。小柄で恐しく痩せて蒼白い顔をしているが、非常な美婦人だ。惜しいことに余りにも全身衰弱しきっていて、歩くことさえ大儀そうで、見ていても痛々しく窶れ果てている。

席につく時軽く会釈しながら、ちらりと目を上げて私の方を見た。その眼の奇麗さにまず驚いてしまった。体は、疾くに死んでいるのに、目だけが生きている、といった感じだが、その寂しい美しさが私の心を掻き乱すのだった。今までにこれほど恐しい魅力のある眼に出会った事がなかった。私は彼女の一瞥にすっかり魂を奪われてしまったと云ってもよかった。

食事がすんでから、一人で甲板の上をぶらぶら散歩していた。どうも今見た二人が気に懸ってならない。食事が済んだら必ず甲板に出て来るだろう。と心待ちにしていたがなかなかやって来なかった。病人だから室へ帰っているかも知れない。私は何となく物足りないような気がした。

蒸し暑い晩だ。

月もいいし、狭いキャビンに帰ってしまうのが惜しくって、つい夜を更してしまった。寝苦しいと見えて、一度寝に帰って行った人々までがまた甲板へ上って来たりしていたがいつの間にか皆各自の室へ引きとってしまって、残っているのは私一人きりだった。

「そろそろ寝るかな」時計を出してみた。「ホウ、もう一時だ!」

私は立ち上って続けさまに欠伸をしながら、両手を高く伸した。そのついでにチョッキの上から自分の胴中をちょっと触ってみた。出発以来これが癖になってしまって、日に何度となくやる。大切な暗号を胴中に巻いているのだもの。任地に着いて無事にそれを手渡しするまでは安心がならない、従って責任はなかなか重く少しの油断も出来ないのだ。我々の生活は旅行中だけが呑気で極楽だのに、その旅行中さえこんなに緊張していなければならないなんて、考えてみると情けなくなっちまう。好きなダンスもやれないし、バアへ行くのも差控えているのだ。三十歳の若さだのに、と私は急に詰らなくなった。

私は舌打ちしながら階段を降りかけて、何気なく後を振り返ると、いつの間に上って来ていたのだろう。甲板の欄干にもたれて、先刻のお嬢さんが連れもなくたった一人で、月を眺めながら物思いに沈んでいる。この夜更に、あんな病人がとちょっと妙な気がしたが、そのまま立ち去るに忍びず、少時その後姿を眺めていた。

翌日はいつになく早く眼が覚めた。昨夜は妙な夢を見た。キャビンの丸い窓の真中に、ぽっかり五十銭銀貨ほどの眼がたった一つ現われた。と見る間にその目が大きくなって丸窓一杯にひろがり、遂々その窓が一つの目になってしまった。瞬きもしないで、その大きな瞳が私の顔を見詰めている。それがまたあのお嬢さんの眼そっくりだった。余り気にしているものだから、そんな夢を見たんだろうと可笑しくもなる。ほんもののお嬢さんの眼が覗いてくれたらどんなに嬉しいことだろう。私はなつかしい気持ちで窓を見たが、そこにはあの弱々しいお嬢さんの影さえもなく、朝の空気を吸いながら活発に散歩している西洋人の後姿が見えていた。

私も起きると直ぐ甲板を散歩した。段々顔馴染みの人が出来てきて、出会う度にお互に声をかけるようになった。私は何となくかの二人を待もうけるような心持で、朝も昼も食堂に出たが、隣りはいつも空席で、花のような形に折り畳まれたナフキンが、淋しくお皿の上にのっていた。私は気に懸るので、それとなく事務長に彼等の事を訊いてみた。

「お嬢さんが御病気で故国へ帰られるんだそうです」

「どういう御身分の方なんでしょうか?」

「高貴の出なんですが――、今は何もしていられないそうです。支那の大金持なんですよ」

「そうらしいですな。日本にもよほどながくいられたと見えて、まるで日本人ですね」

「そうです。言葉もうまいしね。しかしまあお気の毒ですよ。お嬢さんがあんなに体が弱っているので、お父さんがお守りをしながら、気候の好いところ、気候の好いところと世界中を遊んで歩いていられるんだそうです」

「結構な御身分ですな」

「何しろ金があるから」

事務長は羨しそうに云うのだった。

夕食の時、少し遅れて食堂へ入ると、もう例の二人は卓子に着いていた。

お嬢さんは手を動かすのさえ苦しそうで、見ていても痛々しい。極めて物静かに少しの音もたてずに食事をしていた。始終伏目になっていて殆んど顔を上げない。長い睫毛は頬の上にうっすりと影を落している。美しい女だな、と、心の中で感歎した。

私はお嬢さんの方ばかり気を付けて見ていたので、お父さんの方は一向注意をしなかったが、何かの拍子にふと見ると、どうも不思議な癖のあるのに驚いた。一種の神経痙攣とでもいうのだろうか、卓上の物を取ろうとして手を延ばす時、彼の手がその物を掴む前に空中に英字のようなものを描くのだ。最初は誰かに合図しているのかと思った。しかしそうではないらしい。何故というのにソースの瓶を取ろうとしてはやる。食塩を取る時もやる。胡椒、果物、何の時でもやるからだ。余り目まぐるしく繰返すので、見ているだけで、こっちの神経がいらいらしてくる。厭な癖だなあと思って見ていると、自分まで伝染してひとりでに手を動かしそうになるのだ。どうもひどく気になる。顔を反向けて、見まいとしても、やはり見ずにはいられないのだ。私は急いで食事をすませるとさっさと食堂を出てしまった。

それからもう一つ気になるのは、お嬢さんが食事中にも拘らず、左の手にだけ手袋をはめていることだ。純白で、それこそ少しの汚点もない、清らかなものなのだが、どうもこれがまた妙に気になる。

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