Chapter 1 of 13

予は今備後の鞆の津より松山へ渡る汽船の甲板の上で意気込んで居る。何の意気込だ。夏目先生の『坊つちやん』の遺蹟を探らうとしての意気込みだ。

『坊つちやん』はたして実在の人だつたか? この小説はどこまで構想に事実の拠り処があるのか? 誰しも読者として小説に魅了せられた程の人はその小説並に著者を愛する心持ちの延長として遂にこの探求まで突進む事は自然の道理である。

いはんや予は『坊つちやん』絵物語に身を入れて描いた後である。予の心の中に馴染みついた『坊つちやん』はどうしても『坊つちやん』の故郷を見せやうと予を唆り立てゝ仕様が無い。実在の人の如くに唆り立てゝ仕様が無い。それで予は『絵物語』の前後の筆を置くやすぐ東京を出発した。今山陽線を降りて連絡船に乗組んだ処である。

夏目先生にして生前聞かれたら苦笑せらるゝであらう。

蒸気の笛は又一つ強く吹いて船は桟橋へ着いた。

『坊つちやん』が着いた筈の時の高浜は、赤ふんどしをしめた船頭の漕ぐ艀で客を往来さして、大森位な漁村で妙な筒つぽうを著た宿引きがこつちへ来いといつて、宿屋へ連れて行かれたら、やな女が声を揃へてお上がりなさいと云つた相だが、只今は相当な汽船が横付けにされる桟橋が二ヶ所、白堊の洋館は汽船発着所で倉庫なども列んでる。停車場を中心に左右海岸通りに展開して中位な粗末さの宿屋が軒を並べてる、上陸ると成程お饒舌な男が扇をバチつかせて松山へは二十分置きに汽車が出るから、ゆつくり休んでつても大丈夫だ。向ふに見えるはごゞ島で中央に高いのがごゞ島の小富士、果物が名物にて年に二十万円の産額があるなど五月蠅くつき纏つて離れない。そのお饒舌の功に賞でゝ連れられて行つてやつたら角から二軒目の宿屋へ案内した。二階の障子を明け離してごゞ島の翠色が延ばす手に染みつきそうな海を眺め乍ら七十五銭の昼飯を食つた。表を『えびのひきたち(生きのよい)お買いんか』『青物おかいんか』と売物屋の呼声が通る。

Chapter 1 of 13