Chapter 1 of 1

Chapter 1

遠く、いなかから、出ていらした、おじいさんがめずらしいので、勇吉は、そのそばをはなれませんでした。おじいさんの着物には、北の国の生活が、しみこんでいるように感じられました。それは畑の枯れ草をぬくもらし、また町へつづく、さびしい道を照らした、太陽のにおいであると思うと、かぎりなくなつかしかったのです。

「こちらは、いつも、こんなにいいお天気なのか。」と、おじいさんは、聞かれました。

「はい、このごろは、毎日こんなです。」と、おかあさんが、答えました。

「あたたかなところで、くらす人は、うらやましい。」

おじいさんは、庭のかなたへ、はてしなくひろがる空を見ました。風のない、おだやかな日で、空がむらさきばんでいました。

「おかあさん、さっき、金魚売りがきた。」

「そうかい、戦争中は、金魚売りもこなかったね。」

「故郷は、まだこんなわけにはいかない。」と、おじいさんは、なにか考えていられました。

「もうすこし、近ければ、ときどきいらっしゃれるんですが。」

「こちらへくると、もう、帰りたくなくなる。」と、おじいさんは笑われました。

勇吉は、おじいさんの顔を見て、

「おじいさん、いなかと、こっちとどちらがいいの。」と、聞きました。

「それは、こっちがいいさ。半日汽車に乗れば、こうも気候が、ちがうものかとおどろくよ。」

「そんなら、おじいさん、こっちへ越していらっしゃい。」

「もうちっと、年でも若ければ。」

「お年よりですから、なおのこと、そうしてくださればいいんですが。」と、おかあさんがいいました。

「ねえ、おじいさん、そうなさいよ。」と、勇吉は、おじいさんのからだにすがりつきました。

「まあ、よく考えてみてから。」と、おじいさんは、しわのよった、大きな手で、勇吉のいがぐり頭を、くるくるとなでられました。

「おじいさん、お湯へいらっしゃいませんか。勇ちゃん、おともをなさい。」と、このとき、おかあさんが、台所から、出てきて、いいました。

こう聞くと、おじいさんも、その気になられたのでしょう。

「そうしようか、どれ、はおりを出しておくれ。」

立ちあがって、みなりをなおしました。

「おはおりなんか、きていらっしゃらないほうがいいですよ。」

「晩がたになると、冷えはしないか。」

「そうですか。」

やがて、おじいさんと、勇吉の二人は、家を出ました。おじいさんは、はおりをきて、白たびをはかれました。途中、近所の人々が、そのうしろすがたを見送っていました。いなかからの、お客さんだろうと思って、見るにちがいないと、勇吉はなんとなく気はずかしかったのでした。

道の両がわに、家が建っていました。それらの中には、店屋がまじっていました。そして、ところどころあるあき地は畑となって、麦や、ねぎが、青々としげっていました。おじいさんは、立ちどまって、それを見ながら、なにか感心したように口の中で、ひとりごとをしていました。それから、すこし歩くと、また立ちどまって、たもとをいじっていました。勇吉には、あまり、そのようすが、おかしかったので、

「どうしたの、なにか落としたんですか。」と、そばへいって聞きました。

「湯銭をなくすと、たいへんだからな。」と、おじいさんは、いいました。

「なあんだ、そんなことなの。」

勇吉は、口まで出たことばをのみこんで、やはり、おじいさんは、いなかものだな、と思いました。

「おじいさん、お金を落としたって、入れてくれるよ。」

「なんで、湯銭なしに、はいれるものか。」

おじいさんは、まじめになって、いいました。

「わけをいえば、かしてくれるだろう。」

「ばかっ。」と、おじいさんは、きゅうにむずかしい顔をして、おこりました。なにも、しかられる理由は、ないと思ったけれど、それきり、勇吉は、だまってしまいました。

二人は、西日のさす、かわいて、白くなった往来をいきました。ほどなく、あちらの水色の空へ、えんとつから、黒い煙が、もくら、もくらと、のぼるのが見えました。

「おじいさん、まだ、お湯屋は、あいていませんよ。」と、勇吉は、立ちどまりました。

「どうしてか。」

おじいさんもいっしょに立ちどまって、そちらを見たが、とつぜん、

「あれは、なにか。」と、さもびっくりしたような、顔をしました。道の上に、手ぬぐいをかぶった、ひげつらの男と、大きな洗面器をかかえたものと、かたちんばのげたをはいた子どもなど、ひとりとして、まんぞくのふうをしない、人たちが集まっていました。それはちょうど、ルンペンどもが、通行人を待ちぶせしているようにも見えるからです。おじいさんが、おどろくのも、むりはありませんでした。

「なんでもないんだよ。戸のあくのを待っているのだ。」と、勇吉は、説明しました。しかし、おじいさんには、どうしても、のみこめませんでした。

「勇ぼうや、帰ろう。おまえは、あとでおかあさんといっしょにおいで。」

こういって、おじいさんは、いまきた道をもどりかけました。勇吉も、しかたなく、その後からしたがいました。

夜になると、家じゅうのものが、火鉢のまわりへよって、たのしく話をしました。

「おじいさんが、こうして、いつも家にいられると、にぎやかで、いいんだがなあ。」と、おとうさんが、しみじみと、いわれました。

「ほんとうに、そうですよ。」と、おかあさんも、いいました。

こう、みんなが、いっても、おじいさんは、そうするとは、いわずに、ただ、笑っていられました。

その話のきれたころ、おじいさんは、思いだしたように、さっき湯屋の前に、ものすごい人たちが立っていた話をなさると、みんなが、笑いだしました。

「そうでしょうな、はじめて、ごらんになっては。」と、おとうさんは、うなずきました。

「おじいさん、このごろは、風儀がわるくなりまして、着物や、げたや、せっけんまで、とられるので、だれも、いいふうなどして、お湯へいくものは、ございません。」と、おかあさんは、わけを話しました。

「その話を、勇ぼうからも聞いたが、なにしろ、おどろいた。」と、おじいさんも、大きな声で、笑われました。

「夏時分は、自分の家から、はだかになって、さるまた一つで、いく人も、あります。」

「そんなに、気をつかうのでは、湯にも、らくらくはいれまいが。」

「そうなんです。それに、こみあいますし、まったく、湯にいくのもらくではありません。おじいさん、いなかはどんなですか。」と、おとうさんが、聞きました。

「いなかは、まだそんなでない。昔とちがい、だいぶ暮らしむきが、きゅうくつにはなったが、湯へいって、着物をぬすまれたということは聞かない。村でも、よくよく困ったものには、自分たちのものを、分けてやるぐらいの義理や、人情が残っているからな。」と、おじいさんは、答えました。

子どもながら、勇吉は、この話に、感心しました。

「ねえ、おかあさん、おあしを忘れていっても、お湯に入れてくれますね。」と、勇吉が、口をだしました。

「さあ、このごろは、どうですか。」

「なんで、入れるものか。」と、おじいさんは、反対しました。

「それで、おじいさんは、お金を落としたら、たいへんと思って、たもとをにぎったり、おさえたりしたの。」

勇吉は、さっきのことを思うと、おかしかったのでした。おじいさんが子どものようなまねをした、そのときのことがわかるように、

「は、は、は。」と、おとうさんまで笑いました。

「よく知った人なら、入れるかもしれませんけれど、お湯などへ、おあしを持たずに、いく人はありません。」と、おかあさんは、おじいさんの意見に、賛成でした。

おじいさんは、なにか、ほかのことを考えていたとみえて、

「いなかに、じっとしていれば、心配なしだが、一足旅へ出れば、金よりたよりになるものはない。万事が金の世の中だけ、金のありがたみもわかるが、また、金がおそろしくもなる。金がなくても、安心して、暮らせるみちはないかと思うよ。」と、おじいさんは、嘆息しました。

「まったく、おじいさんの、おっしゃるとおりです。金が、あるために、貧乏人をつくり、また、貧乏が、人間を卑屈にするのです。」と、おとうさんがいいました。

「お金なんか、世の中から、なくしてしまえばいいんだね。」と、勇吉がいいました。

「まだ、おまえには、そんなことわかりません。だまって、聞いていらっしゃい。」と、おかあさんは、勇吉をしかりました。

「そうだ、馬も牛も、にわとりも、私を待っている。早く帰らなければ。」

こうおじいさんは、ひとりごとをしてから、話は、またお金のことにもどりました。

「わしが、はじめて、東京へきたとき、夜おそく電車に乗ったことがある。雨の降る暗い晩で、その車には、あまり人が乗っていなかった。そのうち、車掌が、切符を切りにきて、一人の男の前で、なにかあらあらしくいっていたが、その男を、途中からおろしてしまった。みすぼらしいふうをして、かさも持っていなかったが、聞いてみると、一銭不足のためというのだった。もっとも、あのころだけれど。」

ふけると、さすがに冷えて、おじいさんが、くしゃみをなさったので話を打ち切って、みんなも、寝ることにしました。いつになく、おそくまで、起きていた、勇吉が、

「おじいさんは、やっぱり、いなかのほうが、いいんでしょう。」というと、

「勇ぼうは、いなかへきて、おじいさんの家の子にならんか。」と、しわのよった、かたい、大きな手で、頭をなでられました。

勇吉は、かつて、知らなかった、あたたかな、強い力を感じました。それがいつまでも、頭に残ったのでした。

●図書カード

Chapter 1 of 1