一、紅い水母
大都市は、海にむかって漏泄の道をひらいている。その大暗渠は、社会の穢粕と疲憊とを吸いこんでゆく。その汚水は、都市の秘密、腐敗、醜悪を湛えてまんまんと海に吐きだす。ところが、どんな都市でも、その切り口を跨いだあたりに奇異な街があるのだ。
そこは、劃然と区切られた群島のようなもので、どこにも橋の影を落さぬ、水というものがない。影は影に接し、水はくらく、しかも海にちかく干満の度がはげしい。ぐるりは、ギラつく油と工場の塀で、まさに色もなにもないまっ黒な堀水である。
そんなわけで、もしも端れの一つに橋がなかったとすれば、その一劃は、腐泥のなかで、孤島のように泛びあがってしまうのだ。
都市中の孤島――私は、当然読者諸君がるであろう不審の眼を予想して、次のその実在を掲げることにする。
諸君は、荒川放水路をくだって行った海沿いの一角に、以前から、「洲蘆の居留地」と呼ばれる、出島があるのを御存知であろう。そこは、杭が多く海流が狭められて、漕ぐにも繋ぐにもはなはだ危険な場所である。水は、はげしく奔騰して、石垣に逆巻き、わずか、西よりの一角以外には、船着場所もない。
それに、じめじめと暮れる西風の日には、塵埃焼却場の煙が、低く地を掃いて匂いの幕のように鎖してしまう。また、島の所々には小沼のような溜りがあって、そこには昔ながらの、蘆の群生が見られるのである。そのそよぎ、群れつどう川鵜の群が、この出島の色に音に荒涼さを語る風物なのであった。
そこで起る当然の疑問は、都心に近いこの港の口に、なぜ、こうも荒れ寂びれた出島があるかということである。
けれども、この「洲蘆の出島」は、もともと仏蘭西大使館の鴨猟地なのであった。現在も、以前の猟館には司厨長が住んでいて、他には、自転車の六日競争の小屋があるくらいである。
おまけに、その二、三の棟が疎らに点在していて、もしも秋の日暮に、私たちがこの島を訪うたとして、海風に騒ぐ茫漠たる枯菅の原を行くとしたら、その風雨に荒れ、繕うこともない石壁の色は、もはやとうていこの世のものとは見えぬであろう。背後の檣も、前にある煙突の林立も、およそ文化といい機械という雑色のなかにあってさえも、この沈鬱の気を和らげるものではない。
ところが、四十町七丁目側の石崖が崩壊して、折角あった、ただ一つの木橋が役立たなくなってしまった。
それからはこの島に――といっても、当分のあいだではあるが――埋立地から出る、渡船で聯絡するようになった。そうして、東京という大都市のなかに、見るも黄昏れたような孤島が作られることになったのである。
さて私は、その出島に起った、世にも凄惨な人間記録を綴ろうとするのであるが、それは、鵜の羽音でも波浪の響でもなく、陰々と、地下にすだく地蟲の声なのであった。
その夜、洲蘆の出島を、最後の渡船が出たのは、十時過ぎであった。
この数日来の降り続きで、いまも、心の底に浸みとおるような霧雨が降っている。渡船には、頭巾を冠った巡査が一人だけ乗っていて、寒さに手足をすぼめ、曳船の掻き立てるすさまじい泡を眺めていた。
出島には、もう一点の灯りも見えない。
多くの船体が、雨脚のなかに重なり合って暈されている。
すると、その巡査が、なにを見たのかいきなり舳に屈みかかった。
「あっ、人間だ」
見ると泡の薄れた、船脚の底からスウッと影を引いて、淡い、どうやら人容らしいものが現われてきた。
が、すぐにそれが、気の迷いでもあったかのように、ふたたび泡立ちはじめた河面のなかに隠れてしまったのである。すると次の瞬間、巡査の、心も眼も凍らせるような、怖ろしいものが現われてきた。
激しく湧き立つ真白な泡のなかに、なにか水底からもくもくと吹き出てきたものがあった。その、黒い油のように見えるものは、間もなく泡のなかで、不思議な模様を刻みはじめた。それが扇形に拡がったり、泡が打衝って、白い皮膚のようにスウッと滑らかになると、縞に曲線に、乱れ入り組んで、慄っとするような交錯が起り、また砕け散って、鱗を撒いたような微塵模様となるうちに、今度は……細長い指のようなものが、暈っと光って白く……泡の外へ行列蛆のように消えてゆくのだった。
その、のろのろと連なってゆく薄気味悪さには、巡査も思わず顔をそむけた。
舟は、まだ中流にある。
ただ一つの街灯の光が、向うの河岸縁を赭く染めているだけだ。
「いまのは、指じゃないかしら……」
やがて、巡査の眼には、なにものも映らなくなってしまった。ただ聴えるのは、轟々と水を捲き返す、推進機の音だけであった。
すると、湧いては流れ、解けては結ばれる激流のなかに、茫っと光る、白いうねりのようなものが現われた。その光りは、泡の谷を染め、闇空を映す峯を曇らせて、パッパと閃きながら、八方へと衝き拡がってゆく。
人の形というものには、一種云うに云われぬ不思議な力がある。
どんな闇のなかでも、どこからか、光をとってきて、形を現わすものだ。巡査は曳船に向って、たまらなくなったような叫び声をあげた。
「オーイ、舟を停めろ、水死人だぞ、停めろ、聴えないか、オーイ、停めんかと云うに……」
しかし、それは風の音、機関の響に消されて聴えなかった。と、続いてそこには、まさに、見る眼を覆わしめるような、およそ現実の怪奇としては極端かとも思われる――それは、血を与え肉を授けた地獄絵の様なのであった。
水は、涯しのない螺旋のように逆巻いて、その、顔もさだかでない、屍体を弄びはじめた。もくもくと湧き出す血が、海藻のような帯を引き、ちらりと緑色に髪の毛のようなものが見えたかと思うと、屍体は、激しいうねりを立てて水底に沈んでゆく。
すると血の帯に、見るも悽惨な渦が捲き起って、いくつとなく真赤な螺旋のようなものが直立してゆくのだ。
それは、血の怖れというよりも、むしろ慄っとするような美しさで、ちりちり尾を捲く暗緋の糸のようなものが、下へゆくほど太まり溶け拡がっていて、ちょうどそれは、触手を上向けた紅水母のようであった。
が、やがて眼前には、ひらひら悪夢のなかで蠢く水母の手の代りに、今度は胃も食道も、グイと逆さにしごかれるような感覚が起った。
それは、底のほうから、もくもくと噴油のような血が湧き出したと見る間に、その層が、水面に高くぐいと盛りあがったように感ぜられると、そこを、紗のような横波が、サッと掃いた。すると紅の暗さに、一抹の明るみが差したかのように、血の流れた下から、見るも鮮やかな淡紅色をしたものが現われたのである。
それは、円い、樹肉の断面のようなもので、中央には白い筒のような芯があり、ところどころに、なにか汚ないながらも触りたくなるようなひらひらが動いている。
「アッ、推進機で、首が截られた……」
すると船底を、鈍くゴツンゴツンと突きながら遠のいてゆくものがあって、その響きが、靴の底からズウンと浸み渡ったとき、巡査はもう何事も分らなくなってしまった。が、やがて気がつくと、舟は舳をケリケリと当てながら、対岸の渡船場に着いたのであった。
「君、あれほど呼んだのに、なぜ聴えんふりをするのだ」
巡査は桟橋に飛びあがると、曳舟の船員を怒鳴りつけたが、その声も、風に消されて相手には届かなかった。
湖水のように見える、混凝土の舟待ちには、街灯が一つ長い影を引いている。
しかし船員は、纜を捲きながら、暗い水のうえを覗き込んで、
「ああ旦那、お客様ですぜ。舟も終発なら、この仏様にも返り車がねえときた。ひでえこんだ、こりゃ、推進機にやられたらしいな」
ギラつく脂のなかで、その全裸の屍体が男であると分った。首はなく、推進機の打ち込んだ、無数の切り傷が全身にわたって印されていた。やがて、肩口に縄をつけて、舟待ちに引きあげた。
下腹は、わけてもパックと口を開けていて、そこから、淡い藤色をした小腸の端がのぞいている。
船員は、群れてくる船蟲を、揮発油で防ぎながら、
「ねえ旦那、こりゃ他殺でしょうかねえ。きょう日は、裸で涼むような、時候でもねえんだし……」
「サア、そりゃ、どうとも分らんよ」
その若い巡査は、雨沫を浴びて、黙然と腕組みをしている。
「とにかく、検屍をうけなきァならん。君、帰ってせっかく休みたいところを気の毒だが……」
するとその時、足を小流れのなかに突っこんだまま、凝っとその様子を見ている男があった。それは、遠くから見たら、幽霊かとも思われるような、影を、流れにちらつく街灯の灯のなかに倒している。
「オーイ船頭、いや船長、ふ、船を出してくれ」
その、死んだように酔っ払った、外套のない男は、足を流れにとられながら、船員の側に歩み寄って来た。
「出せ、船を出せ」
「冗談じゃないよ、時間切れだぜ。これでも、東京市橋梁課の渡船なんだ。お役所仕事だぜ。銭をとる渡しと、ちったァわけがちがうんだ」
「頼む、今夜は洲蘆の出島に、ぜひにもの用があるんだ。ねえ君、判任官閣下、頼むから君、かけ合ってくれ給えな」
が、間もなくその男の眼は、巡査にも船員にも向けられていなかった。まるで、悲しむような、それでいて、異常な興味をたたえている、抉るような視線を、船待ちの屍体のうえに注いでいるのだった。
「どうだ判任官閣下、君はこの屍体が、他殺か自殺か判明せんと云ったね。君、この屍体の胃袋を、押してみたらどうだね。ハハハハハそれで分ったら、御褒美に洋行のことをかけ合ってくれ給え」
巡査の頭巾の蔭には、その四十男を見る不審そうな眼が瞬いている。垢染みた、硬い無精髭が顔中を覆い包んでいるが、鼻筋の正しい、どこか憔悴れたような中にも、凛とした気魄が仄見えているのだ。
「そうか、それでも足りなきァ、船賃に追い付くまで、もう少し弁じようか。そこで、下腹の傷だがねえ。見給え、それだけが――なに、推進機でやられたように真直だと。それだから、君はまだまだ講習が足らんというのだ。だいたい人間の、自然の手の運動というやつは、曲線なんだ。対象を見ないでいて――つまり例を引けば、盲人の手の運動だが――けっして、正しい直線を自然に描けるものじゃない。ところがこの屍体には、それが逆の論理になっている。背後から抱えられて、グサリと突き立てられたとき、屍体には、屈むのと、伸びる反射運動とが連続して起るのだ。だから創の歪みが、その屈伸に符合する。正数が負数に化ける。二段に起る、曲線が直線に是正されてしまうんだ。ハハハハ、分ったかね。それにこいつぁ、創の浅まり方から考えても、明白に左利きだ。ねえ判任官閣下、この屍体の犯人は左利きなんだぜ」
途端に、巡査の眼からは光りが消え、彼は阿呆のようにぽかんと立ち竦んだ。
その憔悴したさま、滴のしたたる蓬のような髪の毛、それを仄めぐって、陰火のような茫々としたものが燃えあがっている。
この男には、自然としか見えぬものでさえも、矯め直す不思議な魔力があるのだ。と、巡査には、なにか人間放れのした神秘的なものを見るように、この男が薄気味悪くなってきた。
すると、その男の顔に、巫山戯たような笑いの皺が打ちはじめて、
「ハハハハ、まだ合点がいかんのかね。左利き――それが、ギリギリ結着というところだ。早く犯人を挙げて、暮にはたんまりと暖まるさ」
そう云って、莨を取り出し、燐寸を摺ったその手を見たとき、巡査は頭から水を浴びせられたような気がした。
この男が、左利きではないか。
赭く、燐寸の灯影にちらつく、刻みあげたような陰影――それを、怖れるかのようにまじまじと見詰めながら、巡査の鼓動がドド、ドドっと走りはじめたのである。そうして、細かい雨と冷たい闇とを挟んで、二人の間には息詰るような沈黙が流れていった。
すると、背後に跫音がして、ひとりの警部補がヌウっと顔を突き出した。
「君、どこかに首なしが、上がったと云うじゃないか」
ところが、その警部補は不思議なことにも、男の横顔に、凝っと視線を据えたまま動かない。その顔には、なかば驚きを交えた、複雑な色が掠めてゆく。そうして、なにやらもそもそと語り合っていたが、やがて船員に、もう一度発船するように命じた。
「有難い、助かった。君は、なるほど話が分るよ。オイ、東京市橋梁課のお役人、ふ、舟を出せ」
その男は、再びもとの酔いどれ口調に返って、襟を立てながら渡舟のなかに蹌踉き込んだ。巡査は、なにか得体の知れない魔性の霧に包まれたような気がして、しかし、屍体はあるぞとまた現実に戻るのであった。
水量の増した、河面をゆるく推進機が掻きはじめ、この神秘の男を乗せた、船尾灯が遠く雨脚のなかに消えてゆくのだった。
「江藤警部補、これはいったい、どうしたということなんです。貴方は、あの不審な男を渡船に乗せてしまって……」
その若い巡査は、やっと夢から醒めたように、警部補になじりかかった。しかし江藤警部補は、いきまく部下を、優しく宥めるように見て、
「なるほど、事情を知らん君は、そう思うだろうがね。いまの男を、君は誰だと思う。知っておるじゃろう――つい四、五年まえ、主任検事級で鳴らした左枝八郎という方を……」
「ああ、左枝八郎……」
しかし巡査にとると、いまの男が左枝八郎であるということは、むしろ無名氏で置くよりも、いっそう不可解なことだった。
「だが、どうにもそれは信じられませんよ。あの変りかたは、いったいなんということです。左枝八郎ともあろう人が、『欧航組』の、組織を木葉微塵に叩き潰した方が、なんという……」
「そうだ、あの方がああなるについては、いまの、『欧航組』の大検挙に原因があった。――それでと云うても勤務中だが、君に警察医が来るまで、かいつまんで話してあげよう」
それから、本庁への報告、水上署への手配が終ると、二人は並んで舟待の腰掛に腰を下した。風が凪いで、波に隠れていた、渡船の灯がまた現われた。
「その、『欧航組』というやつは、君も知っとるであろうが、以前船員だった連中が企んだ、大仕掛な密輸団だった。おまけに、港々には、春婦宿を経営していたし、大規模な、世界を股にかけた、人肉買売までもやっておった。ところで、その組織を云うと、四人の秘密組合になっておってな。そのなかで、高坂三伝というのが、マア首領株で、他にはたしか――それが、三、四、五と順になるような名前じゃったと思うたが――それぞれ船場四郎太、それから矢伏五太夫、もう一人は、ちょっと度忘れしたが、そうだった、成戸六松というその四人じゃったと思うたよ。ところが、しまいには、仲間割れをしおってな。なにしろ、その三伝という男が、冷血なことこの上なしという辣腕家だったで、自然独裁の形にもなるし、他の三人も、自衛上三伝と対立するようになった。つまりが、勢力争いじゃ。そうして、感情やら、利害の衝突やらがつのりきった結果が、誰も知るとおり三伝の死ということで終ったのだよ。それも、一味が検挙されてから、はじめて分ったことで、三伝は横浜の事務所で、矢伏五太夫のために心臓を狙い撃ちにされた。屍体はそのまま、窓から海に落ちて分らずじまいになってしもうたが、いや三伝の死は、無類この上なしという確実なんじゃ。まさか、射ちはしまいと、軽く考えていたのじゃろう。三伝はせせら笑って、弾莢までも調べさせ、サア射てとばかりに、麗々しく胸をはだけたそうだ」
「なるほど、度胸も相当だし……芝居気たっぷりな奴ですね」
「なにしろ、鬼も怖れるという、仏領カレドニアのアンチモー鉱夫を志願したほどで、それから欧州各地を流れ歩いていたのじゃから、腕も度胸も、三伝だけはまったく群を抜いておったよ。ところが、多寡をくくって、よもやと思っていたやつを、矢伏が狙いを定めて、ドカンとやってしもうた。三伝は、あっと叫んで心臓を押えたなり、窓から海中に転げ落ちてしまったのだ。ところが、さて検挙してみると、三伝が保管していた、一味の利得金の所在が分らない。だが、それはまだまだ、手軽な方でな、後で曝け出された事実というのが、比べもつかんほど奇怪なことじゃった。矢伏に、死刑が執行されてから、ちょっと後の話で、意外にも、保釈中の船場四郎太が拳銃で自殺を遂げてしもうた。
――犯人は俺じゃという、遺書を残してな」
三伝、四郎太、五太夫、六松と、偶然にも三・四・五と揃った「欧航組」の幹部が、ひとりは仲間に殺され、ひとりは死刑になり、もう一人は、遺書に告白を記して自殺を遂げてしまった。
そうして、残る成戸六松の一人だけが、四年の刑期を豊多摩刑務所で送っているのである。「欧航組」は、こうして壊滅した。けれども、その終焉を、いと朦朧とさせているのは、一つの殺人に、下手人が二人現われたということである。生憎、屍体は海中に落ちて、発見されなかったのであるから、三伝が、二つの弾のどっちの方をうけたのか、また、その二つが二つともという場合もあるだろうし、もし屍体があがれば、体位からでも推定できることであるが、いまはその証明が全然不可能になってしまった。が、一方に、また船場の遺書を見ると、その疑問を、やや解き得たかのような気もするのだった。
「そこで、遺書の内容を云うと、たぶんこんなことが書いてあったと思うよ。矢伏の手が顫え、腕にも安定がない。たぶん弾は、肩を掠めて後方に飛ぶであろうから、自分が彼に代って狙撃をした。それは、ほとんど矢伏の発射と同時であって、居合せたのも、私が狙撃をしたことを知らなかったようである。というんだが、わしはなるほどと思った。要するに、問題は撃ち手の腕にあるのだからな」
屍体の菰に船蟲がざわざわざわめく音が、この奇怪な話にいっそうの凄気を添えた。しかし、若い巡査は、眼を眩しそうに瞬いて、
「ですが、居合せたもののなかで、誰かその辺の機微を、知っている者はなかったのでしょうか」
「ところが君、耳というやつはじゃよ。両側で、同時に非常な高い音を出された場合、その人間には、音の見当というのがてんで付かなくなってしまうそうだよ。そのことは、居合せた証人で、抱え淫売婦のお悦という女が証言しておる。それに、船場の女中の話によると、その遺書は、わずか五、六分の間に認められたのだし、むろん、筆跡には寸分の相違もないし、そうこうの事で、左枝検事はポンと辞表を投げ出してしもうた」
「自分が起訴をして、死刑になった男が、無罪という……。そりゃ、左枝検事でなくても、たまらないでしょうからね」
「それで、職を退いた後の左枝検事は、自暴自棄という有様で、奥様には去られるし、もともと資産というほどのものもないし、今では、どうして暮しておられるのか、まったく沙汰の限りじゃよ。ああ、憔悴れ果て、うらぶれた姿を見たら、誰が、法衣に包まれた昔の検事を思うじゃろうか。だが儂には、そういう気持が、てんで分らんがねえ。自分の起訴が正しかったか正しくなかったかって。ハハハハ、あの御仁は哲学者じゃよ」
そう云って警部補は、さも自分には、左枝の辞職が腑に落ちぬといったような素振りを見せた。しかし、若い巡査には、左枝の苦悶も、呵責にひしめくような有様も、しかもそうしていながら、なにかを凝然と見詰めているような気がしてならなかった。
「私は左枝検事に、なにかあの方だけが疑問に思っていることがあるのじゃないかと思いますよ。人間の力では、とうてい割り切れない問題を、あの方だけは、御自身でやり遂げようとなさっているのではないでしょうか。それに……」
と云いかけて、巡査はハッとしたように口を噤んだ。二人の間には、時代の隔たりがある。まして、上司である警部補にそれを云うということは、今の身分として、はなはだ当を得たことではない。彼は、左枝八郎の姿に、悲劇的なものを感じながら、それから黙々と考えはじめたのである。
われわれは、常に過失を犯している。
しかし、検事の起訴理由には、寸毫の謬りもないのである。
船場四郎太が、遺書に告白を残して死んでいったということも、人であり、神でないかぎりは窺うことさえ出来るものではない。まして、矢伏の犯行には、自白を伴っている。いわば、それは確実以上の事実である。それを一瞬の間に、覆してしまうような、怖ろしい力が現われたとき、人は不可抗とだけで、悔いの欠片も残さずケロリと断念めてしまうものである。
人間は、自分の力の限りというものを知っている。
けれども、稀に出る、高い稟性を持つ人物というものは、よく自分を、人間以上のとんでもない位置に置きたがるものだ。検事の苦悶も、呵責も、実にそこから発しているのではないか。彼はいま、不可抗と闘いながら、路傍を彷徨っている。人が裁くか、神が裁かれるか――それこそ、人間の一番な壮烈な姿であろう。
と、やがて若い巡査には、ひしと胸を打つ、ひたむきなものが感ぜられてきた。ところが、ちょうどその頃、左枝八郎を送り届けた洲蘆の出島には、陰々と闇にひしめく悲劇の兆しが濃くなっていったのである。