Chapter 1 of 14

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夜光虫

織田作之助

裸の娘

その日、朝から降り出した雨は町に灯りがつく頃ふとやみそうだったが、夜になると急にまた土砂降りになった。

その雨の中で、この不思議な夜の事件が起ったのである。

不思議といえばよいのか、風変りといえばよいのか、それとも何と形容すればよいのだろうか。

新聞記者なら「深夜の怪事」とでも見出をつけるところだろうが、しかしこの事件は大阪のどこの新聞にも載らなかった。

たまたまその日がメーデーだったので、新聞はその方に多くのスペースを割かねばならず、大阪の片隅に起ったそんな出来事なぞ、どうでもよかったからだ――というわけではない。

もっとも、事件そのものは取るに足らぬ些事に過ぎなかった。事件というより、出来事といった方がいいくらいだ。しかし、耳かきですくうような、ちっぽけな出来事でも、世に佃煮にするくらい多い所謂大事件よりも、はるかにニュース的価値のある場合もあろう。たとえば、正面切った大官の演説内容よりも、演説の最中に突如として吹き起った烈風のために、大官のシルクハットが吹き飛ばされたという描写の方を、読者はしばしば興味をもって読みがちである。

実は、その出来事が新聞に載らなかったのは、たった一人の目撃者を除いては誰ひとりとしてそのことを知っている者はなかった――という極く簡単な事情に原因しているのである。

いいかえれば、当事者はべつとして、その出来事を知っているものは、大阪中にただ一人しかいない――ということになる。

その意味では、その目撃者はかなり重要な人物だと、云ってもよいから、まずその姓名を明らかにして置こう。

小沢十吉……二十九歳。

その夜、小沢は土砂降りの雨にびっしょり濡れながら、外語学校の前の焼跡の道を東へ真直ぐ、細工谷町の方へ歩いていた。

夜更けのせいか、雨のせいか、人影はなかった。バラック一つ建っていない、寂しい、がらんとした道だった。

しかし、上ノ宮中学の前を過ぎると、やっと家並が続いて、この一角は不思議に焼け残ったらしい。

この分なら、これから頼って行く細工谷町の友人の家は、無事に残っているかも知れないと、思いながら四ツ辻まで来た時、小沢はどきんとした。

一糸もまとわぬ素裸の娘が、いきなり小沢の眼の前に飛び出して来たのである。

雨に濡れているので、裸の白さが一層なまなましい。

小沢ははっと眼をそらした。同時に、娘も急に身をすくめて、しゃがもうとした。

が、再び視線があった時、もう娘は、

「助けて下さい!」

とすがりついて来た。

昭和二十一年五月一日の、夜更けの出来事である。

小沢はまるで自分の眼を疑った。

いかに深夜とはいえ、敗戦の大阪とはいえ、一糸もまとわぬ若い娘の裸の体が、いきなり自分の眼の前に飛び出して来るなんて、戦争の影響で相当太くなっているはずの神経にとっても、これは余りに異様すぎる感覚だった。

しかも、まるでこの異様さをもっと効果的にするためと云わんばかしに、わざとのような土砂降りの雨だった。

溺死人、海水浴、入浴、海女……そしてもっと好色的な意味で、裸体というものは一体に「濡れる」という感覚を聯想させるものだが、たしかにこの際の雨は、その娘の一糸もまとわぬ姿を、一層なまなましく……というより痛々しく見せるのに効果があった。

そこは四ツ辻だったが、角の家に一軒門燈がついていて、その灯りが雨を透して、かすかに流れていたから、娘の顔はほのかに見えた。

あどけない可愛い顔立ちは、十六、七の少女のようだった。しかし、むっちり肉のついた肩や、盛り上った胸のふくらみや、そこからなだらかに下へ流れて、一たん窪み、やがて円くくねくねと腰の方へ廻って行く悩ましい曲線は、彼女がもう成熟し切った娘であることを、はっと固唾を飲むくらいありありと示していた。

もっとも、小沢はいたずらに固唾を飲んで、いたずらに観察していたわけではない。

そんな余裕はなかった。

とにかく娘は、

「助けて下さい!」

と、言っているのだ。

しかし、どう助ければいいのか。――いや、そんなことを考えている場合ではない。

何はともあれ、小沢は著ていたレインコートをあわてて脱いだ。(そのレインコートは軍隊用のものだから、もっと別の名があった筈だが、この際そんなことはどうでもよい)

そして、娘の裸の体へぱっと著せてやった。

「ありがとう」雨の音で消されてしまうくらいの小さな声で言って、娘は飛びつくように、レインコートにくるまってしまうと、ほっとしたようだったが、しかし、なお恐怖の去らぬらしい険しい表情を、眉に見せて、

「…………」

小沢にすがりついて、ガタガタ顫えていた。

言葉がないだけに、一層必死の気持が現れているようだった。

「…………」

小沢も口は利かず、咄嗟に身構える姿勢で、その娘が来た方向へ、眼を光らせた。

そして、暗がりの中に不気味に光っている雨足を透して、じっと視線を泳がせていると、ふと黒く蠢いた気配がした。

はっと思った。

が、気のせいかも知れない。それとも、雨のせいだろうか……。

黒く蠢いたように思ったものの、一向に動き出して来る気配はなかった。

「……追われているわけでもないんだな」

そう呟いた途端、角の家の門灯がすっと消えた。

雨はますます激しくなってきた……。

小沢はどきんとした。

たった一つ点っていたその角の家の門燈が、突然消えたのには、何か意味がありそうだった。

あるいは偶然かも知れない。が偶然にしても不吉な偶然だと思った。

よしんば雨のための停電にせよ、まるでわざとのような停電のような気がした。

しかし、べつに何ごとも起らなかった。いきなり誰かが飛び掛って来そうな気配もない。

してみれば、ただ、門燈が何となく消えたというに過ぎなかったのだ。が、やはり不気味な予感は消えなかった。

とにかく、事情を明らかにすることだ。

「どうしたんです、一体……?」

小沢は自分にしがみついている娘に、そうきいた。

「…………」

娘は答えなかった。

「辻強盗に剥がれたんですか……?」

一糸もまとわぬ裸から、想像できるのは、わずかに辻強盗ぐらいなものだった。

小沢は外地から復員して、今夜やっと故郷の大阪へ帰って来たばかしだが、終戦後の都会や近郊の辻強盗の噂は、汽車の中できいて知っていた。

「…………」

娘はだまって首を振った。

「じゃ、どうしたんです……?」

娘はそれには答えず、

「早くどっかへ連れて行って下さい」

それもそうだ。一刻も早くここは立去った方が良さそうだと小沢はうなずいて、歩き出した。

娘は小沢が着せてやったレインコートにくるまっていたが、やはりその下の裸を気にしたような歩き方でついて来た。

「家はどこ……?」

「…………」

やはり娘はだまっていた。

「云ってくれないと、送って行きようがないじゃないか」

小沢はふと強い口調になった。

「何にもきかないで下さい」

娘はうなだれていた顔をひょいと上げて、小沢の顔を見上げた。

暗がりではっきり見えなかったが、娘の顔が半泣きらしいことは声で判った。ずっと家並みは続いていたが、停電のせいだろう、門燈は消えて、洩れて来る一筋の灯りもなく、真っ暗闇だった。

「この先に交番があった筈だが……」

と、小沢がふと呟くと、娘はびっくりしたように、

「交番へ行くのはいやです。お願いです」

と、小沢の腕を掴んだ。

「じゃ、どこへ行けばいいの……?」

「どこへでも……。あなたのお家でも……」

「だって、僕は宿なしだよ。ルンペンだよ」

小沢はひょいと言ったが、さすがに弱った声だった。

「宿無しだよ。ルンペンだよ」

と、語呂よく、調子よく、ひょいと飛び出した言葉だが、しかしその調子の軽さにくらべて、心はぐっしょり濡れた靴のように重かった。

小沢は学生時代、LUMPEN(ルンペン)という題を出されて、

「RUMPEN とは合金ペンなり」

という怪しげな答案を書いたことがあるが、ルンペンの本来の意味は、ボロとか屑とかいう意味である。

つまり、宿なし、失業者、浮浪者といった意味のルンペンとは、人間のボロ、人間の屑というわけであろう。

宿がないということは、屑であるということだ。それほど、宿なしは辛いのだ。

ところが、今、小沢はその辛さを痛切に味わねばならなかった。

実は、この細工谷町で異様な裸の娘を拾ったというのも、小沢が宿なしだったからである。

小沢は両親も身寄りもない孤独な男だったが、それでも応召前は天下茶屋のアパートに住んでたのだから、今夜、大阪駅に著くと、背中の荷物は濡れないように(また、雨の中を背負って行く邪魔でもあったので)駅の一時預けにして、まず天下茶屋のアパートへ行ってみた。

しかし、跡形もなかった。焼跡に佇んで、途方に暮れているうちに、ふと細工谷の友人のことを想いだした。

「そうだ、今夜あそこで泊めて貰おう」

そう思って、やって来たのだが、裸の娘を拾った今は、もう頼って行けそうにもなかった。

深夜、停電している家へ、そんな娘を連れて行って、泊めてくれとは、さすがに云えなかった。自分ひとりなら、無理も云えるのだが、といって、娘を追い返すわけにもいかない。

宿なしの悲しさが、土砂降りの雨のように小沢の心に降り注いで来た。

「困ったなア……」

小沢は眉毛まで情けなく濡れ下りながら、呟いた。

長い間、雨の中を傘なしで歩いて来たので、下着を透して毛穴まで濡れていた。五月だが、寒く、冷たい。

「しかし、この娘の方がもっと寒いだろう」

ガタガタ顫えている娘の身ぶるいを感ずると、少しでも早く雨をしのぐところを探してやりたかった。

「本当に家へ帰らないの……?」

娘はうなずいて、

「帰れません」

小さな声で言った。

「どこか宿屋はないかな」

「阿倍野の方へ行ったら、あるかも知れません」

娘が言った。大阪訛だった。

宿屋へも構わずついて来るつもりらしい。

「とにかく行ってみよう」

二人は、恋人のように肩を並べて阿倍野橋の方へ歩きだした。

玉造線の電車通へ出て、寺田町の方へ二人はとぼとぼ歩いて行った。

寺田町を西へ折れて、天王寺西門前を南へ行くと、阿倍野橋だ。

途中、すれ違う電車は一台もなかった。よしんばあっても、娘のそんな服装では乗れなかった。焼跡の寂しい道で、人通りは殆どなかったが、かえってもっけの幸いだった。

娘ははだしで歩きにくかったので、急いだつもりだが、阿倍野橋まで一時間も掛った。

阿倍野の闇市のバラックに、一、二軒おそくまで灯りをつけている店があった。

立ち寄って、暖いものでも食べたかったが、やはり裸の上にレインコートだけ、おまけにはだしだという娘の服装が憚られた。

しかし、灯りの見えたことは嬉しかった。この辺は停電ではなかったらしい。

大鉄百貨店の前のコンクリートの広い坂道を、地下鉄の動物園前の方へ降りて行くと、ホテルや旅館がぼつりぼつりあった。

一軒ずつ当ってみたが、みな断られた。

「だめだね」

もう地下鉄の中ででも夜を明かすより方法がない、と娘の方へ半泣きの顔を向けると、

「もう一軒当ってみましょう。――ほら、あそこに……」

小沢は寄って行って、ベルを鳴らした。暫らくすると、女中が寝巻のままで起きて来て、玄関をあけた。

小沢は娘を表へ待たせて、一人はいって行くと、

「部屋あいてませんか。いくら高くても結構です」

と、言いながら、女中の手に素早く十円札を三枚掴ませた。復員した時、三百円の新円を貰っていたのだ。

「お一人ですか」

「いや、女と一緒です」

「どうぞ……」

新円の効き目だった。

小沢は娘を呼びに出た。

そして、娘を自分の背中にかくすようにして、はいった。

女中はちらりと娘をみたが、さすがに連込み宿らしく、うさん臭そうな眼付きもせず、二階の部屋へ二人を案内した。

鍵の掛る、粗末なダブル寝台のある洋風の部屋だった。

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