Chapter 1 of 5

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琉球の宗教

折口信夫

一 はしがき

袋中大徳以来の慣用によつて、琉球神道の名で、話を進めて行かうと思ふ。それ程、内地人の心に親しく享け入れる事が出来、亦事実に於ても、内地の神道の一つの分派、或は寧、其巫女教時代の俤を、今に保存してゐるものと見る方が、適当な位である。其くらゐ、内地の古神道と、殆ど一紙の隔てよりない位に近い琉球神道は、組織立つた巫女教の姿を、現に保つてゐる。

而も琉球は、今は既に、内地の神道を習合しようとしてゐる過渡期と見るべきであらう。沖縄本島の中には、村内の御嶽を、内地の神社のやうに手入れして、鳥居を建てたのも、二三ある。よりあけ森の神・まうさてさくゝもい御威部に、乃木大将夫婦の写真を合祀したのが一例である。

国頭の大宜味村の青年団の発会式に、雀の迷ひ込んだのを、此会の隆んになる瑞祥だ、と喜び合うたのは、近年の事である。此は、内地風の考へ方に化せられたので、老人仲間では、今でも、鳥の室に入ることを忌んでゐる。其穢れに会ふと、一家浜下りをして、禊いだものである。併しながら、宗教の上の事大の心持は、此島人が昔から持つてゐた、統一の原理でもあつた。甚しい小異を含みながら、大同の実を挙げて、琉球神道が、北は奄美の道の島々から、南は宮古、八重山の先島々まで行き亘つてゐる。

二 遥拝所――おとほし

琉球の神道の根本の観念は、遥拝と言ふところにある。至上人の居る楽土を遥拝する思想が、人に移り香炉に移つて、今も行はれて居る。

御嶽拝所は其出発点に於て、やはり遥拝の思想から出てゐる事が考へられる。海岸或は、島の村々では、其村から離れた海上の小島をば、神の居る処として遥拝する。最有名なのは、島尻に於ける久高島、国頭に於ける今帰仁のおとほしであるが、此類は、数へきれない程ある。私は此形が、おとほしの最古いものであらうと考へる。

多くの御嶽は、其意味で、天に対する遥拝所であつた。天に楽土を考へる事が第二次である事は「楽土」の条りで述べよう。人をおとほしするのには、今一つの別の原因が含まれて居る様である。古代に於ける遊離神霊の附著を信じた習慣が一転して、ある人格を透して神霊を拝すると言ふ考へを生んだ様である。近代に於て、巫女を拝する琉球の風習は、神々のものと考へたからでもなく、巫女に附著した神霊を拝むものでもなく、巫女を媒介として神を観じて居るものゝやうである。

琉球神道に於て、香炉が利用せられたのは、何時からの事かは知られない。けれども、香炉を以て神の存在を示すものと考へ出してからは、元来あつたおとほしの信仰が、自在に行はれる様になつた。女の旅行者或は、他国に移住する者は、必香炉を分けて携へて行く。而も、其香炉自体を拝むのでなく、香炉を通じて、郷家の神を遥拝するものと考へる事だけは、今に於ても明らかである。また、旅行者の為に香炉を据ゑて、其香炉を距てゝ、其人の霊魂を拝む事すらある。だから、村全体として、其移住以前の本郷の神を拝む為の御嶽拝所を造る事も、不思議ではない。例へば、寄百姓で成立つて居る八重山の島では、小浜島から来た宮良の村の中に、小浜おほんと称する、御嶽類似の拝所をおとほしとして居り、白保の村の中では、その本貫波照間島を遥拝する為に、波照間おほんを造つて居る。更に近くは、四箇の内に移住して来た与那国島の出稼人は、小さな与那国おほんを設けて居る。

此様におとほしの思想が、様々な信仰様式を生み出したと共に、在来の他の信仰と結合して、別種の様式を作り出して居る所もあるが、畢竟、次に言はうとする楽土を近い海上の島とした所から出て、信仰組織が大きくなり、神の性格が向上すると共に、天を遥拝する為の御嶽拝所さへも出来て来たのである。だから、御嶽は、遥拝所であると同時に、神の降臨地と言ふ姿を採る様になつたのである。

三 霊魂

霊魂をひつくるめてまぶいと言ふ。まぶりの義である。即、人間守護の霊魂が外在して、多くの肉体に附著して居るものと見るのである。かうした考へから出た霊魂は多く、肉体と不離不即の関係にあつて、自由に遊離脱却するものと考へられて居る。だから人の死んだ時にも、肉霊を放つまぶいわかしと言ふ巫術が行はれる。又、驚いた時には、魂を遺失するものと考へて、其を又、身体にとりこむ作法として、まぶいこめすら行はれて居る。

大体に於て、まぶいの意義は、二通りになつて居る。即、生活の根本力をなすもの、仮りに名付くれば、精魂とも言ふべきものと、祟りをなす側から見たもの、即、いちまぶい(生霊)としにまぶい(死霊)とである。近世の日本に於ては、学問風に考へた場合には、精魂としての魂を考へることもあるが、多くは、死霊・生霊の用語例に入つて来る。

けれども古代には、明らかに精霊の守護を考へたので、甚しいのは、霊魂の為事に分科があるものとした、大国主の三霊の様なものすらある。

但、琉球のまぶいは、魂とは別のものと考へられて居る。魂は、才能・伎倆などを現すもので、鈍根な人を、ぶたましぬむうんと言ふのは、魂なしの者、即、働きのない人間と言ふ事になつて居る。又、たまと言ふ語を、人魂或は庶物の精霊に使用する例は、恐らく日本内地から輸入したもので、古くは無かつたものと思ふ。強ひて日琉に通ずる、たまの根本義を考へると、一種の火光を伴ふものと言ふ義があるやうである。

精霊の点す火の浮遊する事を、たまがり=たまあがりと言ふのは、火光を以て、精霊の発動を知るとした信仰のなごりで、その光其自らが、たまと言はれた日琉同言の語なのであらう。だからもとは、まぶいは守護霊魂が精霊の火を現したのが、次第に変化して、霊魂そのものまでも、たまと言ふ日本語であらはす事になつたのであらう。そして、魂が火光を有つと言ふ考へを作る様になつたと思はれるのである。

此守護霊を、琉球の古語に、すぢ・せぢ・しぢなど言うたらしい。近代に於ては、すぢ或は、すぢゃあは、人間の意味である。其義を転じて、祖先の意にも用ゐてゐる。普通の論理から言へば、すぢゆん即、生れるの語根、すぢから生れるものゝ義で、すぢゃあが人間の意に用ゐられる様になつたのだ、と言ふことが出来よう。然しながら、更に違つた方面から考へれば、すぢが活動を始めるのは、人間の生れることになるのだから、すぢを語根として出来たすぢゆんが、誕生の動詞になつたとも見られよう。其点から見ると、すぢゆんは、生るの同義語であるに拘らず、多くは、若返る・蘇生するなどに近い気分を有つて居るのは、語根にさうした意味のあるものと思はれる。後に言ふ、聞得大君御殿の神の一なる、おすぢの御前は、唯、神と言ふだけの意味で、精しくは、金のみおすぢ即、金の神、或は米の神、或は楽土(かない)の神と言ふ位の意味に過ぎない。而も其もとは、霊魂或は、精霊と言ふ位の処から出て居るのであらう。琉球国諸事由来記其他を見ても、すぢ・せぢ・ますぢなどを、接尾語とした神語がある。柳田国男先生は、此すぢをもつて、我国の古語、稜威と一つものとして、まな信仰の一様式と見て居られる。

とにかく、近代の信仰では、すべてが神の観念に飜訳せられて、抽象的な守護霊を考へる事が、出来なくなつて居る。けれども、長く引続いて居る神人礼拝の形式を溯つて見ると、さうした守護霊の考へられて居た事は、明らかである。

沖縄に於ては、妹をがみ・巫女をがみ・親をがみ・男をがみ等の形を残して居る。

おもろさうし巻二十二、てがねまるふしに、

きこゑ大きみが

おぼつ、せぢ、おるちへ

あんじ、おそいよみまぶて

と言ふ歌がある。此意味は

名にひゞく天子がことを言はむ。

楽土なるせぢをおろして、

大君主をみまもりてあらむ。

と言ふ位の意味である。此を見ても、せぢが神でなく、守護霊であることは、考へられる。又、くわいにやの例として、伊波普猷氏が引かれた、久高島のものには、かういふものがある。

にらいどに、おしよけて

かないどに、おしよけて

のろがすぢ、せんどう、しやうれ

主がすぢ、せんどう、しやうれ

きみがおすぢ、みおんつかひ、をがま

しゆうがおすぢ、みおんつかひ、をがま

此意味は、

楽土への渡りどに、大船おしうけてあれば、

此船に祈る巫女のすぢよ、せんどう、しませ。

天子のすぢよ、船頭しませ。

われはかくして、女君のおすぢを、をがみ迎へむ。

天子のおすぢを、をがみ迎へむ。

と言ふ意味であらうが、此は、巫女を拝み、君主を拝む事に因つて、それ/″\のすぢを拝む事になるので、古くから、此すぢと、すぢのつく人との間に、区別が著しくは立つて居らないのである。畢竟、我国古代の、あきつかみと言ふ語も、此すぢを有つ天子を、すぢ自身とも観じたのである。即、主がおすぢと同じことになる。但あきつかみに於ては、其すぢが、神に飜訳せらるゝほどに、日本の霊魂信仰が、夙に変化して居つたことを示して居る。

四 楽土

琉球神道で、浄土としてゐるのは、海の彼方の楽土、儀来河内である。さうして、其処の主宰神の名は、あがるいの大神といふ。善縄大屋子、海亀に噛まれて死んだ後、空に声あつて、ぎらいかないに往つた由、神託があつた。而も、大屋子の亡骸は屍解してゐたのである。天国同時に、海のあなたといふ暗示が此話にある様である。(国学院大学郷土研究会での柳田先生の話)

昔の書物や伝承などから、楽土は、神と選ばれた人とが住む所とせられたやうである。六月の麦の芒が出る頃、蚤の群が麦の穂に乗つて儀来河内からやつて来ると考へられてゐる。此は、琉球地方では蚤の害が甚しい為、其が出て来るのを恐れるからである。儀来河内は、善い所であると同時に悪い所、即、楽土と地獄と一つ場所であると考へ、神鬼共存を信じたのである。

儀来は多く、にらい・にらや・にれえ・ねらやなど発音せられ、稀には、ぎらい・けらいなど言はれてゐる。河内は、かない・かなや・かねやと書く事がある。国頭地方ではまだ、儀来に海の意味のあることを忘れずにゐる。謝名城(大宜味村)の海神祭のおもろには「ねらやじゆ〔潮〕満すい、みなと〔湊〕じゆ満ゆい……」とあつて、沖あひの事を斥すらしい。那覇から海上三十海里にある慶良間群島も洋中遥かな島の意らしく思はれる。かないは、沖に対する辺で、浜の事ではなからうか。かな・かねで海浜を表す例が多いから。つまりは、沖から・辺からと言ふ対句が、一語と考へられて、神の在す遥かな楽土と言ふ事になつたのであるまいか。さうして其儀来河内から、神が時を定めて渡つて来る、と考へてゐる。其場合、其神の名をにれえ神がなしと称へてゐる。

先島では、にいるかないを地の底と考へてゐる。にいるに、二色を宛てゝゐる。毎年六七月の頃、のろの定めた干支の日、にいるかないから二色人が出て来ると言ふ信仰が、八重山を中心として小浜・新城・古見の三島に行はれてゐる。石垣島の宮良村には、なびんづうと言ふ洞穴があつて、祭りの日には、此穴から二色人が現れて来ると言はれてゐる。

此祭りは、少年を成年とする儀式で、昔は二色人が少年に対つて色々の難題を吹きかけたり、踊らしたりしたといふ。にいるぴとは、それ/″\赤と黒との装束をしてゐたので、二色人と言うたのだと言ふが、他の島では一定した色はない。今は二色人を奈落人と考へてゐる。沖縄の言葉は、日本語と同じく、語部に伝誦せられた神語・叙事詩から出たものが多い。だから、対句になつてゐる儀来河内も其例の一つと見てよい。

沖縄本島から北の鹿児島県に属する道の島々並びに、伊平屋島に亘つては、其浄土を、なるこ国・てるこ国と言うてゐる。其処から来る神の名を、なるこ神・てるこ神(又、ちりこ神)と言ふ。なるこは勿論、にらい系統の語であらう。此伊平屋島は南北の島々の伝承を一つに集めてゐる様に見える場所で、沖縄本島近辺と同じく、にらいかないを信じ、にらい神・かないの君真者の名を言ふと共に、なるこ神・てるこ神を言ふ。其ばかりか、まやの神・いちき神といふ名称をさへ、右の海を渡つて来る神に、命けてゐる。

まやの神は、石垣島で六月の頃行ふ穂利の祭りの日に、ともまやの神を連れて家々を祝福して歩く神である。此神には勿論、村の青年が仮装するのであるが、村人は、神である事を信じてゐる。手四箇では盆の四日間にあんがまあが来る。もとは芭蕉の葉で面を裹んでゐたが、今は許されなくなつて薄布を以てする。また、老人の神うしゅめい(おしゅまい)・老婆の神あつぱあに連れられて来る亡者の群もある。此等は皆、同一系統のもので、後生から来ると言ふ。後生は、地方に依つては墓の意味に用ゐられてゐる。まやの神は、何処から来るか、訣らない。まやには猫の義があるが、此処ではそれではないらしく、土地の名であらう。此信仰は台湾に亘つて、阿里山蕃族が、ばく/″\わかあ山或はばく/″\やまから出て、分れて一つはまやの国へ行つたと言ふ伝説があるから、琉球の南方でも、恐らくまやを楽土と観じてゐたのであらう。

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