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1 ミシシッピー州東テュペロ

その双子の兄弟の名は韻を踏んでいた。兄のほうはジェス・ギャロンといい、弟は、エルヴィス・アロンだった。貧しい生まれだった。父親のヴァーノン・プレスリーは、二〇歳。利益のなんパーセントかをもらう契約で綿農園で働く雇われ農夫だった。妻のグラディスは一九歳。パートタイムの仕事がみつかれば、それですこしずつかせいで家計に加えた。国内は不景気だった。ミシシッピー州のそのあたりには、当時のアメリカでももっとも景気のよくない農園がそろっていた。

ジェス・ギャロンは、生まれてまもなく死んでしまった。エルヴィス・アロンも、はじめは順調ではなく、生まれてからひと月ほどは、長くもつ命ではないであろうと考えられていた。しかし、ひと月をこえると、その赤ん坊は、丈夫になっていった。この双子の兄弟が生まれたのは、社会保障法が成立した一九三五年の一月八日の夜だった。ひどい嵐で、はげしい雨が東テュペロの赤土を叩いていたという。

ミシシッピー州東テュペロは、テュペロから三マイルはなれている。この東テュペロからアラバマに向かう道を二マイルほど車で走ったところに、プレスリー家の建物があった。事実上はひと部屋しかない木造平屋の、家というよりは小屋と呼んだほうが正確な住居だった。門が一五フィート、長さはそのちょうど倍の三〇フィート。床は高床式のまねごとみたいに高くなっていて、ポーチへは階段を五段あがる。

グラディス・アンド・ヴァーノン・プレスリー夫妻は、宗教に熱心だった。テュペロのファースト・アセンブリー・オヴ・ゴッド教会が、ふたりの宗教の場だった。ひとりっ子のエルヴィスは、まだひとつにもならないうちから、この教会となじむことになった。七五人分の席しかない、小さな教会だった。

エルヴィスは、四歳になると、母親のひざから降りて、教会の中央通路を歩いてプラットフォームの下までいき、そのうえでうたう聖歌隊に聞き入るのだった。言葉はまだわからないため、リズムやメロディを、エルヴィスはおぼえるのだ。

両親といっしょにゴスペルをうたうエルヴィスは、数年後には、その教会の名物になっていた。教会がおこなうバザー、キャンプ・ミーティング、リヴァイヴァル・ミーティングなどで、プレスリー一家のトリオはよくうたった。エルヴィスは、教会とゴスペルを中心に、かなり厳しく育てられた。おとなしい子供だったエルヴィスは、両親と讃美歌をうたっているときは、楽しそうだった。

テュペロにある公立学校のほとんどでは、朝、一日の授業がはじまる前に、みじかいおいのりがおこなわれていた。エルヴィスが東テュペロ・スクール(現在はローホーン・スクール)の五年生だったとき、担任の先生、ミセス・J・C・グライムズが、

「みなさんのなかでおいのりの文句をちゃんと知っている人はいますか?」

と、二日つづけて、生徒たちに訊いた。

三日目にも、グライムズ先生は、おなじことを訊いた。手をあげたのは、エルヴィス・プレスリーだけだった。

彼は、おいのりの文句をまちがえずに言い、さらに、両親といつもうたっている讃美歌を数曲、うたってみせた。グライムズ先生はこれを非常にうれしく思い、母親のグラディスに伝えてほめたたえ、校長のJ・D・コールにも話しておいた。

しばらくあと、テュペロで、アラバマ・ミシシッピー・フェアが、開催された。もよおし物のひとつとして、歌やフィドリングのアマチュア・タレント・コンテストがおこなわれることになり、グライムズ先生から聞かされたエルヴィス・プレスリーのことを覚えていた校長は、エルヴィスにこのコンテストに出てみることをすすめた。

エルヴィスの出番は、いちばん最後だった。五〇〇〇人の観衆の前で、エルヴィスは『オールド・シェップ』を、うたった。子供が一匹の犬を大切にしていたがその犬は年をとって動けなくなり、子供は涙をのんで犬を射殺する、という内容のバラッドだった。たいへんな拍手だった。エルヴィスは、一等になってしまった。これによろこんだ父のヴァーノンは、ほうびにギターを買ってあたえた。

一九四八年九月、プレスリー家は、ミシシッピー州東テュペロから、テネシー州メンフィスにひっこした。政府が計画してつくった住宅難解消のための住宅に入ることができたのだ。エルヴィスは、L・C・ヒュームズ・ハイスクールにかよった。母のグラディスは、高校生になった息子といっしょに、毎日、学校まで歩いていた。グラディスは、やさしくて同時に厳しかった。不況の時代に人の親となったアメリカ人は、みな厳しかった。

父親は仕事をかえてトラックの運転手になった。安定した職ではなく、主としてトラックの運転によって生活費をかせいだのだ。野菜を市場にはこぶトラックを運転することが多かった。家にトラックでそのままかえると、エルヴィスはなん時間でもそのトラックの運転台にいた。ダッシュボードのラジオで、音楽が聞けたからだ。自分もトラック・ドライヴァーになりたいと、エルヴィスは考えた。巨大なトラックをあやつるドライヴァーは、野生的な英雄にみえた。一六歳になると、エルヴィスは、サイドバーンズ(もみあげ)を長くのばしはじめた。多くのトラック・ドライヴァーが、そうしていたからだ。

エルヴィスは、学力はそれほどではなかった。しかし、フットボールの好きなアメリカ的な少年で、しつけによくしたがい、もの静かで無口だが人には好かれる明るい少年といわれた。朝食で特に大食いをするのがクセで、白いパンにピーナッツ・バター、ねりつぶしたバナナなどを塗りこめてサンドイッチにこしらえ、ペプシ・コーラとミルクで交互にながしこむのだ。

父は、また仕事をかわった。塗装会社の班長みたいな職が手に入った。エルヴィスの成長とともにアメリカは豊かになり、プレスリー家の家計もすこしは楽になった。エルヴィス自身、映画館で場内案内人のアルバイトをして、週に一四ドルをかせいでいた。彼はレコードやラジオを聞くのが好きで、覚えたメロディをギターでよく弾いた。クリスマスのときには、学校で歌をうたった。当時のカントリー・アンド・ウエスタンのヒット曲だった『冷たい冷たい氷のような指』を彼はうたい、メンフィスのラジオ局でアナウンサーのアルバイトをやっていたクラスメートに、忘れることのできない経験として記憶されることになった。母のグラディスは、とても満足していた。そして、ウエートレスや看護婦助手などのパートタイム・ジョッブをもって働きつづけた。

一九五三年、エルヴィス・プレスリーは、高校を卒業した。クラウン・エレクトリック・カンパニーという会社のトラック・ドライヴァーになった。給料は、週に三五ドルだった。このトラック・ドライヴァーのころのある日、エルヴィスは自費でレコードをつくることを思いたった。母親の誕生日のプレゼントにしようと考えたのだ。

地元の小さなレコード会社、サン・レコードをエルヴィスはたずね、四ドルでシングル盤を一枚、カットしてもらった。母親の好きな『マイ・パピネス』と『ザッツ・ホエン・ユア・ハートエイクス・ビギン』の二曲だった。このレコードをつくるときに立ちあった社長のサム・C・フィリップスは、

「歌は練習をつづけてみたらどうだろう。またそのうち電話するかもしれない」

と、エルヴィスに伝えた。彼の名前、住所、電話番号をファイルし、「面白いうたいかた。バラッドにいいかもしれない」と、簡単にメモしておいた。

一年近くあとになって、サムはエルヴィスに電話をかけた。歌手としてレコードをつくってみないか、というのだ。

プラクティスがはじまった。リード・ギターにスコティ・ムーア、ベースにビル・ブラックがつき、数週間にわたってリハーサルがおこなわれた。経過は、あまりかんばしくなかった。サムは、エルヴィスにポップなバラッドをうたわせようとしていた。

ある日、プラクティスの途中でひと休みしているとき、エルヴィスは、

「ぼくはこういうのがいいのだが」

と、『ザッツ・オールライト、ママ』をうたいはじめた。聞いていたサムは、やはりこの青年にはこれだ、とその場で結論をだし、B面には『ケンタッキーの青い月』を入れ、45回転シングル盤を一枚、つくった(サン209)。エルヴィスは、サン・レコードの専属歌手、という契約になった。

レコードは、一九五四年の夏に、かぎられた地域で発売された。はじめにこのレコードをとりあげたDJは、メンフィスの放送局WHBQのデューイー・フィリップスだった。三時間にわたる彼のレコード番組でエルヴィスの歌が紹介された夜、エルヴィスはひとりで映画をみにいってしまった。みんなの笑いものになるのを、彼はおそれたのだ。

「さっきのレコードをもういちどかけろ」

というリクエストを、フィリップスは、電話で四七回、電報で一四回、うけとった。三時間の番組のなかで、フィリップスは『ザッツ・オールライト、ママ』を七回もかけることになった。次の週、そのレコードはメンフィスで七〇〇〇枚、売れた。

〈ザ・ヒルビリー・キャット〉と愛称をつけられたエルヴィス・プレスリーは、ボブ・ニールのマネジメントのもとに、カントリー・アンド・ウエスタンのショウに加わり、巡業公演に出た。ハンク・スノウやジョニー・キャッシュといっしょになることもあった。

テクサカーナのディスク・ジョッキー、アンクル・ダドレイからエルヴィスの人気を聞かされたトム・パーカーという男が、エルヴィスのマネジャーになった。かつてはエディ・アーノルドのマネージをしていたこともある男で、興行の世界で厳しい体験をつんだすぐれたマネジャーだった。

一年たたないうちにエルヴィスは自分のジャンボリーを持ち、シュレヴポートのKWKH局の有名な番組『ルイジアナ・ヘイライド』の常連になった。ロイ・エイカフのショウに加わって北部をまわり、一九五四年七月にはメンフィスのオヴァトン・パーク・シェルでスリム・ホイットマンやビリー・ウォーカー、ルーヴィン・ブラザーズたちとともに、二〇〇〇名の観客の前に出た。

カントリー・アンド・ウエスタンのさかんな地域だけに限られていたのだが、エルヴィスの人気は急速にたかまった。一九五五年の夏には、業界の人たちやDJの口づてで、エルヴィスのレコードは南部をはなれてニューヨークやクリーヴランドでも放送された。反応は、すばらしかった。

テネシー州ナッシュヴィルでは、カントリー・アンド・ウエスタンのDJたちの大会が毎年おこなわれる。これによばれたとき、エルヴィスはヴィクターのスティーヴ・ショールスの興味をひいた。トム・パーカーの売りこみとうまくかさなりあい、サン・レコードでつくったマスター・テープとともに、エルヴィスの専属料は三万五〇〇〇ドルでヴィクターに買いとられ、エルヴィスはヴィクターの歌手になった。ヴィクターは彼に五〇〇〇ドルのボーナスをあたえ、彼はこれでさっそくはじめてのキャデラックを買った。ピンクのキャデラックだった。

サン・レコードがプレスしたエルヴィスのレコードは、一九五五年いっぱい販売できることになっていた。ヴィクターは、サンから買ったマスターをもとに、五枚のシングルをつくりなおし、五枚を同時に発売した。あらたなレコーディングもはじまり、『アイ・ガット・ア・ウーマン』がヴィクターでの最初の吹きこみになった。つづく『ハートブレイク・ホテル』は、はじめて出演したテレビで紹介されることになった。一九五六年一月二八日、土曜の夜のジャッキー・グリースンの『ステージ・ショウ』だった。

ドーシー・ブラザーズのショウに六回の出演をすませたころには『ハートブレイク・ホテル』は、ポップの分野で一位、カントリー・アンド・ウエスタンでは三位、リズム・アンド・ブルースでは五位のポジションにあった。

ハリウッドでスクリーン・テストをうけ、ミルトン・バールやスティーブ・アレンのテレビ・ショウの出演がつづいた。エド・サリヴァンのショウには、三万五〇〇〇ドルの出演料で登場した。

スクリーン・テストは成功し、パラマウントと一年一本の七年間契約を結び、第一作は二〇世紀フォックスのためにつくられ、当時のエルヴィスのヒット『ラヴ・ミー・テンダー』をタイトルにし、おしまいに彼がこの歌をうたう部分をくっつけて、一九五六年一一月一五日、ニューヨークのパラマウント劇場で封切られた。タイムズ・スクェアをみおろすビルの壁にはギターをかかえたエルヴィスの巨大なカットアウトが飾られ、それにかぶせられていたカヴァーは、盛大なおまつりさわぎとともに、封切りの日にとりはらわれた。第二作の『さまよう青春』は五七年の六月に、三作目の『監獄ロック』は、一一月に、それぞれ封切られた。

五六年の秋、テネシー州で〈反エルヴィス・プレスリー・クラブ〉がつくられた。いつどこのラジオ局でもプレスリーのレコードが放送されている、なんとか彼を追いはらってくれ、と五〇名ほどのメンバーがDJたちに嘆願書を送ったのだが、DJたちから逆につぶされてしまった。

〈エルヴィス・プレスリー〉の名を冠したさまざまな商品がつくられはじめた。『ハウンド・ドッグ』にひっかけた犬のぬいぐるみ、『テディ・ベア』の熊、帽子、Tシャツ、ジーンズ、ハンカチ、口紅(ハウンド・ドッグ・オレンジ、ハートブレイク・レッド、など)、手ぶくろ、セーター、スニーカー、ブラウス、ネックレス、ブレスレット、便箋、本立て、グリーティング・カードなどの年間売りあげが、五六年には二〇〇〇万ドルにまでなった。暗いところに置いておくと二時間だけ光りつづけているシカケのプレスリー・ポートレート、というようなものまでつくられた。

彼のレコードのタイトルをつづりあわせたファン・レターが、一〇万ドルで買ったグレースランドの自宅によくとどいた。

Dear Big Hunk of Love,

I want you, I need you, I love you. All shook up over you so Don't be cruel Just because … Treat me nice I beg of you, Let me be your teddy bear. Don't let this be a one-sided love affair. There'd just be one broken heart for sale. Loving you.

ボストンのDJは、エルヴィスの肉体的なトレード・マークのひとつである長いもみあげから、七本の髪を手に入れてきた。

「欲しい理由として、もっともバカげた理由をあげた七人の人たちに進呈しよう」

とラジオでしゃべったら、それから一週間のあいだに、一万八四〇〇人の人が応募してきた。

プレスリーの自宅の芝生はファンによってひき抜かれ、小さなビンに入れてフォルマリンづけにし、いまでも持っている人がいる。

彼のキャデラックにちかづくことのできた女のこは、ブラウスを脱いでキャデラックをふき、ブラウスについたホコリごと大切に保管した。

「エルヴィスが好き」「エルヴィスは嫌い」と印刷したふたつのボタンが、同じ会社でつくられ、どちらもよく売れた。

いっしょに写真をとった女のこが、

「私はプレスリーに強姦された」

と狂言をでっちあげて裁判にもちこみ、示談で五〇〇〇ドルをせしめた。

やはり一九五六年、エルヴィスは、故郷のテュペロで、コンサートを二回おこなった。一度は、子供のときタレント・コンテストに出たアラバマ・ミシシッピー・フェアだった。三万の人たちが、彼をみにやってきた。テュペロの商店のすべてが、エルヴィス・プレスリーをテーマにした飾りつけをウインドーにこしらえ、パレードがおこなわれた。あくる年ふたたび彼はテュペロにでかけ、そのコンサートであげた二万五〇〇〇ドルの収益を市長のジェームス・F・バラッドに託した。この資金で、エルヴィスの生家のちかくに、ユース・センターとエルヴィス・プレスリー公園がつくられた。

シンシナティでは、プレスリーのレコードに熱狂しておなじものをなん枚も買いこむ妻を、夫が射殺したりしていた。

一九五八年一月一五日、エルヴィスは、アメリカ陸軍から徴兵命令をうけとった。四作目の映画『闇に響く声』にすでにとりかかっていて、ここで軍隊に入るとパラマウントその他にめいわくがかかるから、という理由で入隊をのばしてもらい、三月二四日、アーカンソーのフォート・チャックスに出頭した。そして、テキサス州のフォート・フードで基礎訓練をうけはじめた。このフォート・フードにいたとき、エルヴィスの母親が死んだ。

死因は、肝臓障害による心臓マヒ。四二歳だった。葬儀はメンフィスで一般公開のかたちでおこなわれた。ジェイムス・E・ハミル牧師がおいのりをあげ、ブラックウッド・ブラザーズ・カルテットが『主よ、我が手をみちびきたまえ』をうたった。いよいよおわかれのときは、エルヴィスは母の棺にもたれて気絶寸前だった。あくる日、母親にわかれをつげるエルヴィスの言葉が新聞にでかでかと報道され、彼自身はカゼをひいて寝こんでしまった。

エルヴィスの母親思いは有名で、彼の母の死をテーマにして歌がつくられた。デイヴ・マックェナリイに作詞されたその歌は、次のような内容だった。

「輝くみ空に、今夜、またひとり、天使がつくられた。その天使は、我らのロックンロール・キングの母親だ。いま陸軍で兵隊をやっている自分の息子を、母親は天から見守っている。なつかしい数々の思い出を胸に」

その年の九月二二日、エルヴィスはドイツにあるアメリカ陸軍基地に駐留することになり、ニューヨークのブルックリンから船出した。このとき、『ムーヴィランド・アンド・TVタイム』の編集長ジェームズ・グレゴリとのあいだにおこなわれた一問一答は、『エルヴィスの船出』という一枚のシングル盤にまとめられて発売された。

アメリカ陸軍兵士としてのエルヴィス・プレスリーは立派だったという。ベーシック・トレーニングのときすでにアシスタント・スクォッド・リーダーとなり、カービン銃ではマークスマン、ピストルではシャープ・シューター、そして戦車の銃砲操作はエキスパート、という評価だった。

軍籍番号は53310761。西ドイツ、フリードバーグの第三機甲師団に配属され、ジープやトラックの運転手をつとめた。すぐに一等兵になり、五九年のはじめには、四級特技兵に昇進した。これは大佐の位にあたり、給料は月に一二二ドルだった。一週間に一万通前後のファン・レターが、基地にとどいた。

一九六〇年三月二四日、エルヴィス・プレスリーはアメリカ陸軍から名誉除隊をとげ、基地から歩いて出てくる現場の写真撮影権をマネジャーのトム・パーカーは、『ライフ』に三〇〇〇ドルで売ろうとして断られた。

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