Chapter 1 of 7

今日も千日前へ首が七つかゝつたさうな。…

昨日は十かゝつた。‥‥

明日は幾つかゝるやろ。‥‥

こんな噂が、市中いツぱいに擴がつて、町々は火の消えたやうに靜かだ。

西町奉行荒尾但馬守は、高い土塀に圍まれた奉行役宅の一室で、腕組みをしながら、にツと笑つた。

『乃公の腕を見い。』

彼れは腕は細かつたが、この中には南蠻鐵の筋金が入つてゐると思ふほどの自信がある。其の細い手の先きに附いてゐる掌が、ぽん/\と鳴つた。

『お召しでございますか。』

矢がすりの袷に、赤の帶の竪矢の字を背中に負うた侍女が、次の間に手を支へて、キッパリと耳に快い江戸言葉で言つた。

『玄竹はまだ來ないか。』

但馬守もキッパリと爽かな調子で問うた。

『まだお見えになりません。』

侍女は手を支えたまゝ、色の淺黒い瓜實顏を擡げて答へた。頬にも襟にも白粉氣はなかつた。

『おそいなう。玄竹が見えたら、直ぐこれへ連れてまゐれ。』

滅多に笑つたこともない但馬守、今日は殊に機嫌のわるい主人が、にツこりと顏を崩したのを、侍女紀は不思議さうに見上げて、『畏まりました。』と、うや/\しく一禮して立ち去らうとした。其の竪矢の字の赤い色が、廣い疊廊下から、黒棧腰高の障子の蔭に消えようとした時、

『あゝ、これ、待て、待て。』と、但馬守は聲をかけた。

『御用でございますか。』と、紀は振り向いて跪いた。但馬守はヂッと紀の顏を見詰めてゐたが、

『其方は江戸に歸りたいか。』

優しい言葉が、やがて一尺もあらうかと思はるゝほどに長く大きな髻を載せた頭のてツぺんから出た。

『はい。』

紀の返辭はきはめて簡單であつた。

『歸りたいか。』

『はい。』

『歸りたいだらう。生ぬるい、青んぶくれのやうな人間どもが、年中指先でも、眼の中でも算盤を彈いて、下卑たことばかり考へてゐるこの土地に、まことの人間らしい人間はとても居られないね。狡猾で恥知らずで、齒切れがわるくて何一つ取り柄のない人間ばかりの住んで居る土地だ。取り柄と言へば、頭から青痰を吐きかけられても、金さへ握らせたら、ほく/\喜んでるといふ其の徹底した守錢奴ぶりだ。此方から算盤を彈いて、この土地の人間の根性を數へてやると泥棒に乞食を加へて、それを二つに割つたやうなものだなう。』

但馬守は、例の額の筋をピク/\と動かしつゝ言つた。紀はなんとも答へなかつたが、厭で厭でたまらないこの土地の生ぬるい、齒切れのわるい人間をこツぴどくやつ付けてくれた殿樣の小氣味のよい言葉が、氣持ちよく耳の穴へ流れ込んで、すうツと胸の透くのを覺えた。

『あゝもういゝ、行け/\。‥‥江戸はもう山王祭だなう、また賑かなことだらう。』

但馬守は懷かしさうに言つて、築山の彼方に、少しばかり現はれてゐる東の空を眺めた。紀も身體がぞく/\するほど東の空を慕はしく思つた。

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