Chapter 1 of 8

香玉

労山の下清宮といふは名だゝる仙境なり。ここに耐冬あり、その高さ二丈、大さ数十囲。牡丹あり、その高さ丈余。花さくときぞ美はしうかなるや。

そが中に舎を築きて居れるは膠州の黄生とて、終日書読みくらしたる。ある日のことなりき。ふとより見おこせたるに、やゝ程とほくへだてて女人ひとり、着けたる衣白う花のひまに照り映ゆるさまなり。かゝる境に争でとあやしけれど、趨り出でゝ見むとすれば、疾う遁れき。

度かさなりぬ。さて樹叢に身をひそめて、そが来むをりをこそ俟てりしか。こたびは彼の女人、紅裳のひとりを偕ひ来と見ゆるに、そのすがた尋常ならず艶だちたり。やうやう近うなりぬ。紅裳のひとり一歩退きて、『人のけはひす』といふに、つとすゝみ出づれば、かなたは驚き惶て、裾たもとひるがへし奔せゆく。追風えならぬにほひ溢れたり。牆のもとにて影きえぬ。黄生愛慕のおもひいとど切なれば樹上に題すとて

『無限相思苦、含情對短、恐歸沙利、何處覓無雙。

やがてはあだし他処の花』と、引こもり、物思ひてあるとき、かの女人たちまちおとづれ来ぬ。夢かと喜び迎ふるに、女人はほほゑみて、『君はなどしも盗人めきし行ひをやしたまひし、胸もつぶるるばかりなりき。おもふに君は風騒の士、これよりかたみに親しまばや』といふ。

さてその生平を叩けば言へらく、『わが小字は香玉、平康の巷にあだなる名をぞつらねし。さるからに道士にひかされてこの山中に閉め置かれたる、浅まし』とうち嘆く。

黄生『その道士の名は何ぞ。卿をば救ひ出でなむはいかに』

女人『しかしたまふには及ばじ。』と遮りて、『ただ君と相ひ見るかぎりこそ嬉しけれ。』

『かの紅衣を着けたるは誰ぞ』

女人『絳雪とよびて、やがてわが義姉なり。』といふ。

その夜は狎れむつみて、さむれば明け過ぎぬ。急ぎ起きて『あかでしも朝寝しつ』と言ひ/\、衣整なつて『おん口占に酬いまつらむ、笑ひなしたまひそ』とて、

『良夜更易盡、朝暾已上、願如梁上燕、棲處自成雙。

つばさならぶるつばくらめ』とあるに、黄生その腕にとりすがりて、『すがた秀れこころ優しき卿に添ひあくがれては、長生不老の思ひせぬものやなからむ。ただ一日離り居ればとて、なほ千里の別しつるここちやせむ。あだぶしの夜こそ愁からめ。』

香玉こをうべなひて、これよりは宵々の契り渝らざりき。

ただかの絳雪を伴なふごとに輙くはえも来ず。怨ずるに香玉、『わが情癡の性には似もやらで、絳雪物に拘らはねば、こころ自からゆるやかなり。』と言ひ解きつ。

或る夕つかたなりき。香玉涙ながらに入り来りて、『これを限りのおん別れとはなりぬ。』といふ。『いかなれば』とうら問へば、袖もて涙おし拭ひ、『こも定数とや言はまし。君がかの日のおん歌今はわが身の讖を為しぬ。

佳人已属沙利、義士今無古押衙。古人の句こそまことなれ。

蕃将沙利にはあらぬ無理強ひの根びき』といひさし黙して咽び泣く。

この夜は夜すがら寐もやらで東雲に出でゆきぬ。

こをあやしと思ふに、次日、藍氏といへるが遊覧のついで、園中の白牡丹をいたく愛で根ごしにして去にき。かかれば黄生ここにはじめて香玉の牡丹花の精なるを悟りて、数日を経るに、藍氏がおのが家に移し植ゑし花の日々に枯れ萎みぬと聞きては、あまりに恨めしく、哭花の詩五十首を作りて、日毎にかの根ごしにしつるあとをうかがひ、涙そそぎぬ。

その後例の弔ひて帰り来るに、紅衣の女人の、これもそのあとを見てうち泣くけはひなれば、やをら近づくに、かなたも亦そを嫌はず。黄生因て袂をひかへ、請うて室に延きぬ。いふがままになりて、さて、『稚きより睦びあへりし姉妹のちぎりもかくは一朝にして絶え果てき。そが上君が哀傷を聞けば狭き胸のうちいよ/\堪うまじくなりぬ。九泉に堕つる涙まことこもりて、再び亡魂をや還しぬべき。しかすがに亡き人の神気すでに散じたれば、猝にわれ等と談ひ難くや』とうち喞つ。

黄生また、『わが薄命こそうらめしけれ』とつくづくおのが無福を嘆じ、『今や卿幸ひに香玉に代りたまへ。』といふ。

絳雪『おもふに年少書生の薄倖なるは什の九なり。君が情は篤からむ。その情によりて交り、淫せじ。昼夜狎れむはおのれえせじ』と、言ひ畢りて別れいなむとす。

黄生『香玉かしまだちて後は寝食倶に廃しぬ。頼卿しばしとどまりて、この物憂き思ひを慰めてもあるべきに、何ぞふり放て行くや』といふに、すなはち一夜をやどりぬ。

これより数日復たそのすがたを見ざりき。冷雨幽、切りに香玉を懐ひて牀頭の枕露けかりき。更にまた燈を挑げ、筆とりて前韻を踵ぎぬ。

『山院黄昏雨、垂簾坐小、相思人不見、中夜涙雙々。君をおもひて夕まぐれ』と吟じ出づれば、忽ち外人ありていへらく、『おん歌のかへしなからでやは』と、絳雪の声なり。門を啓きて入るれば、絳雪詩の後を続けむとて、

『連袂人何處、孤燈照晩、空山人一個、對影自成雙。ともしび暗きまどのもと』とうちいづ。

黄生読みて涙ぐましく、かつは絳雪のこのごろの疎さを恨めば、をみな『わが情は香玉の熱きに似もやらず、但少しく君がおん寂寞を慰めむのみ』狎れむとすれば遮りて『相見るよろこび、何ぞ必ずしもここにあらむ』といふ。

酒くみかはし歌ひつれて、をり/\は夜たゞ眠らでぞある。黄生ぜひなくまたいふやう、『香玉はわが愛妻、絳雪はわが良友、卿そも院中第幾株、いづれの木立ぞと、疾く聞えよかし。わが家のうちに抱へ移して、かの香玉の悪人に奪ひ去られて百年の恨貽ししわざはひ再びせさせじ』とうながす。

絳雪『故の土移しがたし、君に告げまつらむも益なし。君が妻だにみこころのままならざりき。さるをわれは友なるをや。』

黄生やむなくその臂を捉へて下りたち、牡丹の一もとごとに『こは卿か、あらずか』と試むれば、女人ものをも言はで、口を掩ひてうち笑ふのみなりき。

たまたま黄生臘月のすゑ故郷に帰りぬ。歳を踰えて二月、夢に絳雪愀然として『今大難せまりぬ。急ぎ来まさずば甲斐なからむ』といふとおぼえてめざめぬ。

こを訝りて、早馬にて行きつけば、道士新に屋を建つるとて、耐冬樹一もと障へたるを、工師今しも斧を当てむとするなり。かくてこそと、そをおし禁めたるその夜、絳雪来り謝したり。

黄生うちゑみて『向きに実を告げざりし罰にやあらむ、うべなり、この厄に遇はむとはしたる。今や卿を知り得たり。卿もし疎くもてなさば艾もてくゆらしやらむ』とたはぶれつ。

女『さればこそ洩らさゞりしか』といひつつ、対ひゐて時を移せり。

黄生『今かく良友に対してます/\艶妻をこそおもひ出づれ。げにも香玉を弔らはざること久しうなりぬ。いで卿とともに弔らはむ』とて、かのありしかたみの処に往きて、涙を濺ぎぬ。一更をはや過ししかど、なほ立ちうくて、絳雪のとどむるによりて帰りぬ。

また数日を過しぬ、黄生独り居のすさまじうてあるに、絳雪笑みを浮べて入り来り『よろこばしき事こそあれ、花の神君がまごころに感じて香玉の魂をば還らしむ』といふ。

黄生『そは何日なりや』と問ふ。

『遠きにはあらざるべし』とのみ。天明、榻を下る時、黄生『卿の為にこそここには来つれ、これよりは孤寂の思ひをなせしめそ』とあるに、絳雪ほほゑみ諾へり。

さあれ絳雪の来ぬこと二夜になりぬ。黄生かの樹下に到りて、ゆり動かし、かかへ撫でつつ、その名をば呼びしかども声なかりき。黄生乃ちかへり来て一団の艾をととなへ、将にかの樹を灼きなむとするに、女人つと見えて、いちはやく艾を奪ひとり、うち棄てたり。

絳雪『悪作劇をなしたまひそ。わが身に痛き目みせたまはば、この交をや絶たむ』といふ。

黄生うち笑ひて擁き寄り、座も定まりし時、香玉ほのほに入り来れり。黄生こころまどひて、一手に香玉、一手に絳雪を捉へて放たず、相対して愁き限りを泣きつくせり。

ただ執り結べる香玉の手の虚しきが如きを覚えてあやしめば、香玉然として言ふやう、『むかしは花の精、さるからに凝りき。今は花の鬼、さればうつろなり。しばし聚りて形を為せども、こを真とな見たまひそ。ただ夢寐の觀を成せるのみ。』

絳雪傍より、『おん身よきところに来ませり。われはかの人にあやめられて、危く死ぬべかりき』と、言う/\も辞し去りき。

香玉がたさはつゆ昔日にかはらざりき。かの楽みを取るをりぞさながら影に就くが如くて、これをのみ黄生こころゆかであれば、香玉も亦自から恨みていふやう、『白※屑に少しく硫黄を雑へて、日ごとに一杯の水をしもたまはらば、明年この日おん恵みに酬いまつらむ』とて別れゆきぬ。

あくる日もとありしところに往きて観るに、牡丹の芽ひとつ萌え出でたり。かの言へるがままに培ひ水濺き、墻結ひなどして、その芽をいたはりぬ。

香玉来りていたくよろこべり。

黄生はわが家に移しうゑむと促がせども、『そはえ堪うまじくもおぼえぬが上に、物皆定処ありて生ひたつ。違はば反りて寿短かからむ』とてゆるさず。

黄生また絳雪の来ぬを恨めば『強ひて来させむとならばその術あり』と香玉のいふがまゝに、燈かかげて樹下に到りぬ。一茎の草を摘みとり、布の巾にあてて度をさだめ、幹の根より上に四尺六寸、黄生をして爪もてその処を爬かしむるに、絳雪俄かに背後よりあらはれ出でて笑ひ罵る。

『いまし何ぞや彼を嗾けし』といふ。

香玉『怪しとな思ひそ、しばらくかの君の傍に添ひてあれよ、一年の後またおん身を煩はさじ。』

かの花の芽はやうやう肥え太りて、晩春のころ丈二尺にあまりたり。

黄生の故里に帰りたるひまは、道士そをあづかりて、朝夕の培養にこころがけにき。

次年四月、黄生来りて見るに、花一朶、つぼみふくらかに、枝撓みて折れなむばかりなり。

しばしが程あれば花ひらきぬ。その大さ盤のごとし。蕋のおくふかく姿ただしき小美人のかげ見ゆ。花びらかきわけつつ転瞬の間に下りたつを見れば、こはやがて香玉なりき。『風に雨にしのびて君を待ちぬ。いかなればかくは来ますことの遅かりし』

黄生その手を執りて室に入れば絳雪すでにありて『人に代りて婦となりき、今は退きて友たらむ』と笑みつついふ。

こころゆくばかりの宴して、この夜も央をすごしつ。絳雪さらばと暇乞してかへりぬ。夜すがら二人の夢温かきことむかしの如かりき。

この後、黄生、その故里の妻みまかりてより、山にこもりゐて、復かへらず。この時牡丹の茎の大さ臂の如く生ひたちたるが、黄生指さして、『われ死なば魂をこゝに宿さむ、卿の左に生ひ出づべし』

両女笑ひて、『その言の葉忘れなしたまひそ』といふ。

十年あまりを経たり。黄生俄かに病みぬ。その子尋ね来て哀しめばほゝゑみつゝ、『わが生るゝときこそ来つれ、死にゆく期ならねば、哀しみなせそ』とて、やがて道士にむかひて、『牡丹のもと赤き芽土を破りて萌えいづべし。五葉を放つもの、われなり』と、言ひ畢りて、黙しぬ。

その子父の病躯を扶けて家に帰れば、尋でこと切れぬ。

次年果して太き芽ゆるぎ出づ、葉の数まことに五つなり。道士あやしと思ひて養ふに、三年がほどに、高数尺、すく/\と生ひたちぬ。ただ花をばつけざりき。

老いたる道士もみまかりぬ。

その弟子むごくも花咲かずといひて、かの芽をばかき棄てたり。これより白牡丹もまた枯れにき。かの耐冬もまた枯れにき。(聊斎志異巻三)

(新古文林 第一巻第一号 明治三十八年五月)

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