Chapter 1 of 14

内海達郎は、近頃あまり経験したことのない胸騒ぎを感じた。それは、十数年前にパリで知合つて、わりにちかしく交際をした一人のフランス人、ロベエル・コンシャアルから、思ひがけない手紙を受けとつたことからである。

手紙の文句はあらまし――戦争はすんだが、君の消息をまづ知りたい。無事であつてくれることを心から祈る。おそらく、君からの直接の返事が貰へるとしても、それを待つてゐる暇は自分にはないと思ふ。一ヶ月後には東京に向つて出発する。ある貿易商の秘書兼通訳の資格でといへば、君は、自分の日本語研究が今やつと役に立つたのだといふことを察しるだらう。船は君も承知のアンドレ・ルボン、ヨコハマ着は七月の末、そちらも雨季が明けた頃だと思ふ。家内や子供としばらく別れるのはつらいが、君のあの頃のことを思ひ出してみて、同じ運命が自分を訪れた皮肉におどろいてゐる。写真でしか知らぬマダム・ウツミに僕の敬意を伝へてくれたまへ。親愛なる友よ、再び君の手を固く握り得るチヤンスが近いことを確信する、といふ意味のものであつた。

実をいふと、このロベエル・コンシャアルといふ男を友人にもつてゐるといふことを、内海達郎は、今日まで忘れてゐたくらゐである。フランス滞在の四年間を通じて、なるほど、しばしば、顔を合せた異国人の一人ではあつたが、それはまつたく、日本に対する興味だけで向うから近づいて来たといふ以外に、こつちから求めたつき合ひではなかつた。なるほど、ソルボンヌに籍をおいて、かたはら東洋語学校で学んでゐる青年だといへば、まんざら話の合はぬ間柄ではなかつたが、なにしろ、専門がまるで違ふところへもつてきて、なまじつか下手な日本語をしやべり、日本について並はづれた好奇心をもつてゐることが、彼には却つて荷やつかいな相手であつた。早くいへば、しよつちゆう利用されてばかりゐる、といふ感じで、それがまた、特別に無遠慮ときてゐるので、どうかすると、会ふのを避けるやうな態度をみせたことも、一度ならずあつたくらゐである。

ところで、さういふ男からの久々の便りを見て、この胸騒ぎはいつたいなんだらうと、内海達郎は、自問自答した。

T大学の細菌学教室が彼の勤め先であつた。講師の肩書は、さほど有がたいものではなかつたが、臨床の方面はまつたく自信がないので、生涯顕微鏡をのぞく仕事に没頭する決心でゐるのである。

あと始末を助手に委せて、研究室を出た。この十年はまつたく一瞬に過ぎたやうに思つた。そしてその回想は、いきほひ、十年前のパリ生活につながるのである。デュトオ街のアパルトマンから、近所のパストゥウル研究所に通ふ、あの朝夕の、すがすがしい、そして、また一方では、いひしれぬものうい気分にとらはれた、あのパリの生活である。

大学の門を一歩踏み出すと、焼け残つた本郷の通りが、彼を現実の埃のなかに引きもどす。込み合ふ電車、表情を失つた顔、どきつい女の衣裳、これでもかこれでもかといふ広告ビラ……。

押し流されるやうにして、中央線のA駅を降りる。そこできまつて、ほつとする習慣がいつの間にかついた。

妻の実家の疎開以来、そのあとへ納まつてゐる現在の住居は、延坪六十坪にあまる屋敷で、親子三人の暮しでは文句のいひやうもない。誰か気心の知れたものなら、半分住はせてやつてもよいといふ妻の意見もあるのだが、彼は、周囲の例から同居生活の不成功を数へあげて反対した。

食卓につくと、彼は、妻の真帆子に言つた。

「君にいつか話したことがあるかもしれないが、パリで知り合つたコンシャアルつていふ男が、近いうちに日本へやつて来るさうだ。今日手紙で知らせてきたんだ。なんの目的だか、その頃、日本語の勉強をしてた男だが、別に深いつきあひをしたわけぢやない。だが、日本へ来れば、きつとなにかと、面倒をみてやらなけれやなるまい」

妻の真帆子は、それ以上、詳しいことを聞かうともしなかつたが、それは、内海達郎にすると、すこし物足りない。もつと好奇心を起してもいいはずである。外国人の客が、一人や二人あつてもいいなどと、だしぬけに言ひだしたこともある彼女である。

さういへば、彼等が結婚したのは昭和十年の秋で、その翌年の春、急に文部省からフランス留学の沙汰が出て、彼は身重になつた妻を残して日本を離れた。二年の予定であつたが、妻の実家に相談して、あと二年滞在の費用を出してもらひ、やつと研究をまとめることができた。その時、妻から、子供を両親が預るといふから、自分も出かけて行きたいと言つて寄越したのを、彼は賛成できない一理由があつて、思ひ止まらせたのである。その理由といふのは、ほかでもない。彼は年上のあるフランス女と同棲してゐたのである。この秘密は、むろん妻には知れるはずはないのだが、二つ返事で彼女を呼び寄せなかつたことは、いまだに、妻を釈然とさせてゐないこともまた事実であつた。

娘のルナ子がひとりでおしやべりをはじめたので、内海達郎は、自然に話題を変へることができた。今年十五になるこの娘は、母に似て眼が大きく、色が白く、神経質であつた。

「すこし、黙つてらつしやい」

と、母にたしなめられて、舌を出し、父親の方へいたずらつ子のやうに首をちぢめてみせた。

「かういふ連中が五十人ゐる教室は、ちよつと想像がつかんね」

「ルナ子は特別ですよ。不思議だわ。だれに似たのかしら?」

なるほど、母親は、どちらかといへば口数の多い方ではなかつた。少女時代は、すましやさんといはれたくらゐで、彼との婚約の期間も、やつと一と月かそこいらだつたのに、第一の苦労は、彼女に口をきかせることだつた。

しかし、言葉数の少いわりに、彼女の眼は実によくものを言つた。どんな問ひにも、キッパリ答へるその瞳の表情は、天下無類のやうに思はれた。三十六の今日まで、一種つややかな風姿を保つてゐるのは、まつたくそのためである。内海達郎は、新婚の幾月かを夢中で過したといふものの、四年の別居生活を隔てて、いはば、新しい妻を発見したのである。十年の歳月は、普通のコースを踏まず、日に日に妻への思慕をつのらせるといふ不思議な朝夕であつた。

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