Chapter 1 of 10

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演劇一般講話

岸田國士

演劇の芸術的純化

演劇は最も低級な芸術であるといふ言葉には、一面の真理があります。この言葉は――といふよりも此の事実は、近代の教養ある人士を劇場から遠ざけた。「芝居には行きますか――いゝえ――さう云ふわたしも行きません」――このマラルメの言葉は、殆ど、芸術を尊ぶものより送られた演劇への絶交状であります。

演劇とは何んぞやといふやうな議論も、随分古くから繰り返され、近代に至つて色々な美学的解説や、定義が下されるやうになりましたが、それは何れも机上の空論であつて、それならば、さういふ演劇がどこにあると云はれゝば、一句も吐けない。演劇は依然、文芸や美術音楽などゝ並んではゐるものゝ、常に面はゆげにその姉妹らの余光を仰いでゐるといふ有様だつたのです。

凡そ一つの芸術品が、芸術としての存在を主張し得るためには、創造者の霊感が、直接、そして純粋に、美の表現に到達してゐなければならない。そこには、平俗なる感情との妥協や、偶然が齎らす効果の期待などがあつてはならない。演劇は其の性質上、さういふ不純な、間接的な、動機に束縛され、左右され易い。或る程度まで、それが避けられない。そこから、演劇の芸術的存在が危ぶまれ、困難となるのではないか。かういふ立場から、演劇の芸術的純化を試みた最初の人が、誰も知るアンドレ・アントワアヌであります。

アントワアヌの事業、即ち自由劇場以後の運動については、後に述べることゝし、こゝでは演劇を形づくる諸原素が、如何なる状態と関係に於て演劇の芸術的堕落を導いたか、その問題について、一と通り研究して見ようと思ひます。

脚本について

演劇に於ける脚本の位置といふ問題は、今日まで殆ど異論がありません。たゞ一つ、ゴーヅン・クレイグの演劇論が、文学として存在する戯曲の運命を予言して、これを将来の舞台から駆逐しようとしてゐます。然し、これは一つの理想論であつて、今は問題にしなくともいゝ。然しこのことについては勿論、後に述べるつもりであります。

それでは、演劇に於ける脚本の位置はどうかと云へば、それは音楽に於ける楽譜である。楽譜の演奏が音楽と呼ばれるやうに、脚本の演出が演劇と呼ばれる。従つて演劇の価値は、脚本の価値によつて根本的に左右されるものであります。此の論理は一応、註釈をつけて置く必要があります。といふのは、如何に優れた脚本でも、演出次第ではつまらない演劇になるではないかといふ反駁が出ないとも限らないからであります。然し、此の反駁は更にかういふ反駁を受けはしませんか。即ち、それならどんなに低級な脚本でも、演出さへ巧みであれば、優れた演劇になり得るか。さうは行きません。そこで、やつぱり優れた演劇とは、優れた脚本の優れた演出といふことになります。然し、優れた演出といふことは、結局脚本を完全に舞台の上に活かすといふこと以外に何もないのですから、脚本の演出は、或る程度以下のものであることは許されない。つまり、さういふ演出は、演出と称し得べからざるものであると認めなければならないのです。

これで、脚本の価値が、演劇の価値を根本的に左右するといふ理由が、判然したらうと思ひます。

脚本の価値が、演出を離れて存在し得るに反し、演出の価値は、脚本を離れて存在し得ない。これは、近代演劇運動の決定的な発見であります。

希臘劇、シェクスピイヤ時代の演劇、中世の秘蹟劇、……これら過去の演劇は、今日何によつて、その光輝と偉大さとを知るかと云へば、たゞその時代の脚本、即ち戯曲を通してこれを知るのみであります。その演出が、果して、その時代の演劇に於て、どれだけの位置を占めてゐたかは、殆ど知る術がない。従つてわれわれは、その時代の演劇が、どれだけ演劇としての芸術的な価値を有つてゐたかを云々するにしても、その演出が戯曲の生命を完全に伝へ得たものとしての想像に過ぎないのです。

それならば、将来の演劇はどうか。これは、誰も何んとも云ふことは出来ません。ゴーヅン・クレイグの理想が実現するまで待たなくてはなりません。しかし、今日、最も新しい演劇革新運動の顕著な傾向は、後に詳しく述べるつもりですが、決して上述の理論を裏切るものではありません。

繰り返して云ひます。演劇に於ける脚本の位置を正当に認めることは、右の理由によつて、演劇の芸術的覚醒を促す第一歩であります。

演出について

脚本の演出者は、云ふまでもなく俳優であります。如何なる名脚本と雖も、演出者にその人を得なければ、演劇としての価値を十分発揮することは出来ない。これは自明の理である。それならば、優れた演出者には、どういふ資格が必要であるかと云へば、先づ……俳優論をこゝでするわけには行きません。だから、これは別の機会に譲ることゝして、こゝでは、たゞ俳優が演劇に於て如何なる位置を占むべきかといふこと、更に芸術家としての俳優の職分について、はつきりした観念を作つて置きたいと思ひます。

前項で述べたやうに、優れた脚本の完全な演出以外に、優れた演出といふものを予想することは困難でありますが、然し才能ある俳優が、様々な事情で、平凡な、時によると愚劣な脚本の演出を余儀なくせられ、而も彼が才能ある俳優であることを十分認めさせるばかりでなく、屡々、平凡な脚本に一種不可思議な魅力を与へ、愚劣な脚本にさへ一味の生命を盛ることに成功して、恰も、演劇の価値は演出者たる俳優の才能によつて左右されるかの如き観を呈することがあるのであります。処で、かういふ場合に、その演劇が演劇として果して芸術的に、どれだけの価値があるかといふことを考へて見なくてはなりません。こゝで俳優の技芸の独立性が問題になるのであります。こゝからまた俳優のための脚本、俳優のための見物、俳優のための劇場、つまり、俳優のための演劇が生れるのであります。

俳優の技芸が、実際、独立性を有つてゐるものならば――勿論芸術的に――俳優のための演劇、誠に結構であります。然し、事実は、全くこれに反する。これは証明を要する問題であつて、而も、その証明は一寸困難である。なぜならば、それは勿論、程度の問題であるからであります。これは実際に見ないと結局水かけ論になりますが、例へば、仏国当代の名優リュシャン・ギイトリイは、息子サシャの書いた脚本なら何んでも演つてゐます。父子の情、誠にはたの見る眼もうるはしきことながら、サシャは何んと云つてもまだ大劇作家ではない。佳作も少くないが、未完成な作品もなかなかある。リュシャンは、相当にそれを活かしてゐる。のみならず、リュシャンの扮する役だけ見てゐれば、その人物の表現は恐らく批難の打ち処がない。が、しかし、その芝居が全体として、芸術的の感銘を与へる程度は、即ち、その演劇の芸術的価値は、何んと云つてもその脚本の価値によつて、根本的に左右されないわけに行かない。処で、彼が一度モリエールの『人間嫌ひ』に於て、主人公アルセストに扮するや、そのアルセストは、否『人間嫌ひ』といふ芝居は、「天下の見もの」となるのであります。

それはやつぱり、リュシャン・ギイトリイが偉いからに相違ないのであります。それなら此のアルセストの役を、凡庸な俳優が演つたらどうなるか。そのアルセストは面白くない。『人間嫌ひ』といふ芝居は見るに堪へないものになる。が然し、こゝで考へなければならないことは、それがために、傑作『人間嫌ひ』は、飽くまでも傑作『人間嫌ひ』であることに変りはなく、天才モリエールは飽くまでも天才モリエールであることであります。

此の事実から推しても、俳優の技芸は、それ自身に芸術たる要素を備へてゐるといふ考へは、間違つてゐるやうに思ひます。才能ある俳優が、或る役を十分に活かし、そして、その「巧さ」に於て、見物を感動させることに成功するとしても、その役の、即ち、その扮する人物の思想、性格、感情、それ以外にわれわれを惹きつける「或るもの」は、所謂「物真似師」の芸以上には出ない性質のものであつて、それを厳密な意味で、芸術と称することはできないのであります。

こゝに一つ例外ともいふべきものは、俳優が脚本の価値を実際の価値以上に高め得ることであります。かうなると、俳優はもう単なる俳優ではなくして、作者の領域に足を踏み込んでゐる。一作者の脚本を演出するといふだけでなく、一作者の脚本を改訂又は補足して、それを演じてゐることになるのであります。この事の良し悪しは別として、俳優にとつて、かういふことの出来る才能を持ち合はせてゐることは、大きな強味であると云はなければなりません。然し、これはどの程度まで許さる可きことであるか、それは頗る機微な問題であつて、一々、その結果を見て判断するより外しかたがないのであります。そしてこれは、俳優としての才能、技芸には全く関係のない、特異な場合であることを知らなければなりません。

従つて、どの俳優にも作者の才能を備へよと要求することは無理である。また、どの俳優にもさういふことをされては危険でしやうがない。而もこれと同じ危険は、他の動機から、常に、従来の演劇を脅かしてゐるのであります。それは云ふまでもなく、俳優の利己的感情の満足、言ひ換へれば、俳優某の技芸を誇らんがために、その役に不必要な粉飾を施すことであります。甲俳優に見物の注意を集中せんがために、乙丙等の俳優を或る程度まで犠牲にすることであります。要するに、俳優の、それ自身に独立性のない技芸を至上のものとして、脚本をそのプレテキストに使ふことであります。これが古今を通じて、演劇の病根であると云へるでせう。然し、このことは、あまり多く論議されました。今では、このことを知らない俳優は一人もないでせう。そして事実は……かう考へて来る時、演劇の前途は正に暗澹たるものであります。

俳優の芸術は、音楽演奏者のそれの如く、瞬間的のものである。その芸術は、その名とともに後世に伝へることができないといふ一種の悲哀がある。この悲哀から生れる焦慮は、蓋し、他の芸術家の想像し得ないものでありませう。そこから、舞台に立つ俳優の心理は、小説家が原稿紙に向ふ時と、自ら大きな距りが出来なくてはならない。俳優が、如何なる場合と雖も、芸術家の創作的心境を静かに保ち続けることは殆ど不可能であります。小説家が原稿の註文を受けてから、その批評や世論を直接間接に耳に挟んで一喜一憂する、それまでのあらゆる人間的感情――それはしばしば芸術家の心境と相容れない――さういふものを、俳優は、一時に舞台の上で感じると云つても差支へないのであります。かういふ不純な心持を制御、排除して、舞台に真の芸術的雰囲気を作り得る俳優こそ、演劇の芸術的純化に欠くべからざる俳優であります。

その上もう一つ、俳優の芸術が有つ大きな弱点は、一度舞台に立てば最早推敲を許さないといふことであります。そこにまた、或る魅力もある。――丁度、即興詩のやうな。しかし、人間の肉体は、精神は、瞬間瞬間その状態を変じつゝあるのであります。昨日出来たことが、今日は出来ないことがある。その場合に、明日まで待つて見るといふことが出来ない。従つて、俳優は常に自分の技芸に絶対的信頼をもつことが出来ない。殊に不便なのは、自分のやつてゐることに対し常に適確な批判を下し得ないことであります。自分ではちやんとさうやつてゐるつもりでゐながら、実際はさうなつてゐないことがある。これまた、俳優芸術に完全性が欠ける理由であります。勿論公演に先立つて、十分の用意はするのであるが、人にも見て貰ふのであるが、それをそのまゝ舞台の上で実行してゐるかどうかは、或る程度までしか自分にはわからない。非常に厳密な論じ方のやうであるが、高級な芸術ほどそれ自身に、そこまでの完全性を備へてゐなくてはなりません。

かういふ見方から云へば、演劇は、たとへ優れた脚本を、優れた俳優が演出するとしても、どこかに、また、ある分量の欠陥、不備、不純さを免れないものだと云へるのであります。さうなると、他の芸術が、勿論理想に於てゞはあるが、完璧であり得るに比して、演劇は理想としても、さういふことは望まれない。まして俳優以外に、色々な物質的条件が附き纏つてゐます。舞台装飾、見物席の設備、さういふものが演劇鑑賞上に、どれだけ不幸な影響を与へてゐるかは、思ひ半ばに過ぎるのであります。

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