一の一
郷田梨枝子は、叔母と並んで東京駅のプラット・フォームに立つてゐる。そして、今着いたその汽車から降りて来る筈の父親の顔をちつとも覚えてゐないのである。
「すぐ教へてね、叔母さま……。いやだわ、いろんな人が顔を突き出して……」
「ああ、お待ちなさいつてば……。あたしだつて間違ふかも知れないよ」
心細い話だが、これも十年会はないうちに、兄がどんなに変つてしまつたか、さつぱり見当がつかなかつた。
震災の翌々年、郷田廉介は妻のアメリイを喪つて、鬱々としてゐるのを、周囲のものが励ますやうにして二度目の外遊を思ひ立たせた。それが、専門の研究を名とした悠々十年の旅である。当時八歳の梨枝子は、まだアンリエットと亡き母の好みの名で呼ばれてゐた無心の少女であつたが、すぐに祖母の下枝子に懐いて、文字通りおとなしくその留守をした。
「よう、一枝ぢやないか」
果して、ぼんやりしてゐる妹の眼の前に、長身赭顔の一紳士が立ち塞がつた。
「あら、兄さま……しばらく……お元気で……」
と、あとはもう涙声になつて、
「これ、兄さま、アンリエット……こんなになりましたわ」
まだポカンとして、それでも、眼だけは笑ふ用意をして眩しさうにこつちを見据ゑてゐる娘の肩を、軽く押へた。
「ふむ……キスしてもいいかい?」
「ええ」
うなづくと一緒に、頬を差出したが、父は額にそつと唇を押しあてた。
「さ、パパにもしてくれるか」
父のナポレオン三世風の頬髯がチクリとした。やつと胸の動悸が鎮まりかけた。彼女は、この時、祖母から予て聞かされてゐた可笑しな逸話を思ひ出した。それは、彼女が小さな時分、父に頬ずりをされて、
「パパの骨、イタイ」
と云つて逃げたといふ話である。
「兄さま、でも、ちつともお変りにならないわ」
叔母がさういふと、
「おや、変だぜ、さつきは、さうでもなかつたやうだが……」
「いいえ、よく見るとよ……それや、お髭なんか前とはすつかり……」
「写真は送らなかつたかね」
「パパは、何時でも小さく写つてるんですもの……景色ばつかり大きくつて……」
梨枝子がはじめて、馴れ馴れしく口を利いた。
「パパより大きな景色か。それや、大きいさ、リエット、景色つていふもんは……」
そんな戯談口をきき合つてゐるうちに、ふと、梨枝子は、祖母の容態のことが気にかかり出した。出がけに眩暈を起して倒れたのをそつと床に就かせて、医者を呼んだのだが、少し気分が落ちつくと、もう出掛けると云つて承知しなかつた。それを医者が厳しい言葉で止めた。
「ぢや、一人で行くかい、あたしのことは心配しないで……、ああ、早くパパに会つておいで……あたしの分も頼んだよ」
そんな言葉が妙に耳に残つてゐる。で、梨枝子は、叔母の耳に、そつと囁いた。
「お祖母さまのこと、パパに云つといた方がいいわね」
うんうんと首だけで返事をして、叔母は黙つてゐろと眼で知らせた。
手荷物の始末をすますと、三人は、待たせてあるタクシイに乗り込んだ。
車が動き出すと、廉介は、梨枝子の横顔をつくづくと眺めながら、
「ええと、女学校の四年だつたね。どうも忘れつぽくなつて困るが、何を訊かうと思つてたんだつけな……。ああ、いろんなことが訊きたいよ。今日は、お祖母さんは風邪でも引いたのかい?」
「ええ」
と、一枝が引取り、
「大したことぢやないらしいんですけど、さつきお出かけになる支度最中に、なんでも、眩暈がなすつて……」
「眩暈? 危いぞ、それや……。医者は呼んだんだね!」
「加治先生がすぐ来て下すつたわ……」
「へえ、あの先生、まだ生きてるか」
「大丈夫でせう、脳貧血よ、きつと……」
さういふ一枝の声も、実際は、かすかにふるへてゐた。
梨枝子が真ん中、左に父、右に叔母が坐つてゐた。
叔母の一枝は、これも、若い頃未亡人になり、もう四十を一つ二つ越えてゐるのに、趣味のいい扮りも手伝つて、人目を惹くに足る瑞々しさがあつた。京城の帝大にはひつてゐる息子の弘とは、よく姉弟と間違へられるのも不思議はない。これに反して、まだ五十に手の届かない父の方は、梨枝子の眼にはそれほどに映らぬかも知れぬが、著しく年齢の疲れを見せてゐた。そして学者らしいとでも云ふのか、黙り込むと、深々とした瞳が何を見てゐるのかわからない。梨枝子は、この二人の間で、神妙に畏まつてゐた。が、やがて、父が突然、独言のやうに呟いた。
「東京も変つたな。しかし、震災前より、好いとは云へないね」
「早速悪口ね……。どんなところがお気に召さないの?」
と、叔母が口を夾んだ。
「いや、東京ばかりぢやない。何処も、都会といふ都会は近頃台なしだ。しかし、これは少しひどいよ。統一がなさすぎる」
「新しいものに興味がおありにならないんだから、それや駄目よ」
一枝は、混ぜ返した。なるほど、彼の専門は考古学で、新しいものに興味ないといふ洒落は成りたつかもわからない。
梨枝子は、この話を聴きながら、見はつてゐた瞼を大きくしばたたいた。東京が乱雑なことはわかつてゐるが、欧羅巴の大都市などといふのも、そんな風になりつつあるのであらうかと思つた。昔ながらの美しい静かな街が世界の何処かにありさうな気がした。母は、かすかな記憶の中でではあるが、自分の学生時代を過した巴里の街の物語や生れ故郷の丁抹の都コペンハーゲンの話などを聞かしてくれたが、自分はつひぞ行つて見ようと思つたことはない。祖母は、繰り返し、日本がどの国よりも一番いい国だといふこと、あらゆる時代、あらゆる民族の文化がここに集つて、それは何百年後のことかわからないが、とにかく、未来の理想郷を築き上げるのだといふ意見を諄々と説くのが癖であつた。孫娘が血液の混り合ひのために、故国といふものを見失つてはならぬと人知れず心を遣つてゐるせゐもあるにはあらうが、下枝子自身の平生の生活振りを細かく観察してゐると、自然に身についた和洋の習慣が、見事な調和を保つて、素朴で繊細な趣味の中に溶けこんでゐた。