Chapter 1 of 6

「もつと早く読んでいゝよ」

机の上におつかぶさるやうな姿勢で、夫は点字機を叩いてゐた。

美津子は、コタツにあたりながら、文庫版のメリメの短篇「マテオ・ファルコオネ」を、区切り区切り、調子をつけて読みあげてゐる。

結婚このかた、美津子は、かうして、夫が打ちこんでゐる仕事を助けて来た。夫の念願は、世の失明者のために点字図書館を作ることであつた。中学を終へて、高等学校の受験を前にひかへ、彼は、突然、眼をわづらひ、医療の効なく、まつたく視力を失つてしまつたのである。

一時は、絶望のあまり、自暴自棄に陥りかけたが、戦争の勃発が、彼に新しい生き方を発見させた。友人の多くは召集され、生死の巷に身を投げ出して行くのをみて、彼は、考へた。兵役免除といふ特権に甘えてはならないと。そこで、盲人が身につけ得る技術をひと通り習ひおぼえる決心をした。琴を除いて、彼は、盲学校の全課程をむさぼるやうに修めた。

六年の年月がたつた。ハリ、マッサージ、揉療治、それだけは国家試験をパスしたが、彼は、すぐにそれで生活したいとは思はなかつた。幸ひ、両親はまだぴんぴんしてゐた。革具と靴の店を出してゐる父は、不憫な息子のために、食ふ心配だけはさせないつもりでゐたから、彼は比較的のんきに、自分の好きな道を撰ぶことができた。

彼が思ひついたのは、同じ境遇にある人々のために、点字の書物をたくさん作ることであつた。ことに、彼は、面白い小説や読み物を失明者がひとりで読める幸福を想ひ描いて、誰かゞそれを与へなければならぬと思つた。

「今日はこれくらゐにしとかう。メリメがすんだら、久生十蘭をやらう。いつか読んでもらつた、そら、チベットへ行く話さ、あれを是非やらう」

「まだ、おなかおすきにならない?」

「すいた。いまなん時だらう?」

「五時半です。夕食の支度はもうできてるのよ。ちよつと温めさへしたらいゝんだから……」

「カレーはうんと辛くしてくれよ」

「あら、もうご存じなの?」

妻の美津子は、夫の嗅覚と聴覚にはいつも驚嘆するばかりである。ときどき、それを試してみたくなるくらゐである。あるとき、勝手で洗ひものをしながら、奥の座敷へは聴えまいと思ふほどの声で、わざと、相手に話しかけるやうな調子で、お喋りをしてみた。

――うちぢや、そんなもの、いらないのよ。またこのつぎにしてちやうだい。どうせ買はないもの、見たつてしやうがないわ。ほんとに、ムダな時間つぶしだわ。えゝ、せつかくだけど……はい、さよなら……戸をしつかり締めてつてちやうだい。風が強いから……。

あとで、夫のそばへ素知らぬ顔で茶を汲んでいくと、

「いま、なんだつて、あんな独り芝居をしてたんだい?」

と、鮮やかに突つこまれ、彼女は、つい、吹きだしてしまつた。

彼女は、たしかに、不幸ではなかつた。非常に幸福だと思へる瞬間さへあつた。それゆゑ、彼女は、この結婚を決して失敗とは考へてゐない。たゞ、問題は、自ら望んで、失明者を配偶に撰んだ理由が、そのまゝ、今日通用するかどうかといふことであつた。

商売上の用件で、銀行員である美津子の父と時々顔を合はせてゐた佐伯某といふのが、今の夫の父親であつた。その佐伯某から聴かされた息子の話を父が家に帰つて母に話してゐるのを、美津子はふと耳にはさんだことがある。

その頃、彼女は二十四で、結婚といふ問題が絶えず頭にあり、父や母が、折にふれて話題にする彼女の嫁入り口について、自分に委せておいてくれ、などと言ひ切つたものである。

父の知人関係の会社へ事務員として勤めるやうになつてゐたので、そんなチャンスもあらうかと高をくゝつてはゐたものゝ、彼女には、どうしても男性といふものが信じられなくなりはじめてゐた。

なるほど、彼女は、特に美貌を誇るほどの自信はなかつた。しかし、同僚の女たちに負け目を感じるほどの器量だとは思つてゐなかつた。むしろ、精神的なもので、けつかう豊かにされてゐる表情の魅力は、これで、出るところへ出れば、相当人目を惹くに足るものと、ひそかに、恃むところがあつたくらゐである。彼女の周囲を取りまく男たちは、そこへいくと、きまつて浅薄な娼婦型の女のあとを追ひまはし、小綺麗につくろつた人形のやうな女にばかりちやほやするやうにみえた。

それでも、たまには、物ほしげに彼女に近づいて来る男たちがなくはなかつた。しかし、彼等は、申し合せたやうに「アプレた男」のすがたをしてゐた。つまり、なんの取柄もなささうな、毒にも薬にもならぬたぐひの連中と相場がきまつてゐた。

彼女は、もう、異性との交際にうんざりしてしまつた。いはゞ恋愛結婚の理想は、この現実の前では、一片の他愛もない夢にすぎぬことを覚つたのである。

たまたま、そこへ、彼女の感傷をみたすに足る天来の妙案が浮んだ。

――さうだわ、眼の見えない男のひとで、心の美しさだけで、あたしを愛してくれるんだつたら、どんなに、あたしはその男のひとを幸福にしてあげられるだらう。戦争でめくらになつた兵隊さんだつて、いゝわ。さういふひとなら、あたしの顔かたちだつて、ほんたうに美しいつてことがわかつてくれるかも知れないわ。さて、さうきめるとして、どこにさういふひとがゐるだらう……?

こゝにゐる、といはぬばかりに、父の口から、佐伯某の息子の存在を聞かされたのである。

「もう二十七になるんださうだ。そろそろ嫁を貰つてやりたいのだが、これがまた、頭痛の種だつて、おやぢさん、嘆いてゐたよ」

父の言葉にかぶせて、母が引きとつた。

「いくら秀才でも、眼が不自由では、さきざきが困りますね。按摩さんなら、よく、眼のわるい同志が一緒になつてますけどねえ……」

「いや、それが、ちやんと眼の見えるお嫁さんがほしいらしいんだ。本を読んでもらふといふことが、一番大事な条件なんだから……」

その話はそれきりでぷつりと切れてしまつたが、ひと月ばかりたつて、また、父が、その話をむしかへした。

「佐伯がまた今日店へやつて来ての話に、息子の見合ひに立ち合つて、実に困つたといふんだよ。相手は看護婦をしてゐた娘ださうだが、ふた眼とは見られない器量で、口だけはなかなか達者なんだとさ。息子は、はじめのうちはおとなしかつたが、しまひに、だんだん図々しくなつて露骨にメンタルテストをやりだすんだつて……。――あんたは女学校を出てるといふ話だが、それぢや、教室で居眠りばかりしてたんでせう……なんて、やるんださうだ」

「まあ、変なお見合ひだこと……。眼のわるいひとは、癇が強いつていひますからね。気むづかしいでせうよ、きつと……。まあ、さういふひとのお世話は、あたしたち、したくないわね」

ところが、その晩、美津子は、母にそつと、その佐伯の息子と見合をさせてくれと申し出たのである。

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