Chapter 1 of 3

浜野計蔵の家の応接間。

隠退せる高級官吏の格式と、憲法発布前後笈を負つて都に上つた人物の趣味とを語る室内の調度――例へば、維新元勲の書、地球儀、コロオの複写、硝子箱入の京人形、蝶の標本を額にしたもの等。

時は、大正八年頃の初春。

場所は、東京山の手の某区某町。

正面の窓からは、午後の日を受けた庭の一部が見え、赤い椿の花が植込の間からのぞいてゐる。

長男の計一と次男の紳二とが話しながらはいつて来る。兄は三十二三、弟は二十八九である。

紳二  おやぢにはもう少し黙つてた方がいいと思ふな。計一  黙つてて、それでどうするんだ?紳二  僕たちで、始末を考へるのさ。おやぢなんて、それこそ、何をやらかすかわかりませんよ。計一  (軽く冗談めかして)それやわからん。(間)あいつに短刀をつきつけるか、自分が腹をきるか……。紳二  をかしいな。僕も、すぐそれを考へたんだ。しかし、やつたら、馬鹿だな。計一  まあ、さういふ詮議は後廻しにして、お前の意見を聴かうぢやないか。八洲子の云ふことは、なにもかもほんとだと思ふか?紳二  なにもかもつて、八洲子はてんで口を利かないぢやありませんか。お母さんひとりが呑み込んぢまつてるんです。八洲子がお母さんに、あれだけのことしか云はなかつたとすると、僕は疑問があるんだ。計一  しかし、事実は明かだね。いたづらをして子供をこしらへた。思案に余つて自殺を決心した。病気保養の名目で海岸へ行き、死に場所を選んだ。しかし、その決心を断行することができなかつた。紳二  さうです。表面にあらはれた事実はその通りでせう。多少言葉を換へて云へば云へるぐらゐのもんだ。しかし、それだけでは、なんにもわからないのと同じぢやありませんか。相手の名はどうしても云へないつて云ふんでせう。死ぬ決心をするまでに、男がどんな態度を取つたか、それも、さつきのお母さんの話では曖昧です。僕がそこを突込まうとしたら……。計一  わかつてるよ。あの場合、あんな訊き方をしちやいかんと思つて、わざと止めたんだ。お前は一緒に興奮するから駄目だ。紳二  八洲子の奴、泣いてばかりゐて、癪に障つたからです。計一  泣くより仕方があるまい。死にたくつても死ねないぐらゐ、惨めな話はないぞ。自業自得だなんて、云つてみたところで、そいつは一人の人間を救ふことに役立ちやしない。早く、生きてゐた方がいいつていふ気持にさせてやりたい。解決はそれから先だと思ふが、どうだ。紳二  むろん、さうです。もう一度、ここへ呼んで来ませうか?計一  まあ、待て。(窓ぎはに行つて、ぼんやり考へ込んでゐる)紳二  かうしちやどうですか? 本人よりも、一度、礼子さんを呼んで訊いてみたら……。計一  まだ、ゐるかい?紳二  八洲子の部屋にゐたやうですよ。いろんな事情を、知つてるだけ喋つて貰はうぢやありませんか。計一  よし。ぢや、お前、礼子さんに、あの電報をくれた前後の様子を訊いてみろ。八洲子には、おれ一人で会はう。礼子さんにあいつがなんて云つてるか、それもわかると都合がいい。紳二  ちよつと変だな、僕一人で礼子さんと話をするのか。計一  うるさいな、早くしろよ。

紳二が出て行つた後、計一は、ソフアーに倚つて煙草を喫ひはじめる。

八洲子がハンケチで洟をかみながらはいつて来る。二十二三の娘。

計一  そこへおかけ。お父さんが帰つて来るまでに、もう少し話の筋道をつけておきたいんだ。別に今日、お父さんの耳に入れる必要もないが、解決の道だけは、早くつけて置かうぢやないか。八洲子  (兄の方を向かずに腰をおろす)…………。計一  単刀直入に行かう。お前はその男を愛してるのか。八洲子  …………。計一  はつきりしてくれよ。肝腎な問題だよ。(間)愛してゐない筈はないね。(間)少くとも愛したことはあると云へるね。八洲子  (うなづく)計一  で、お前はその男を信じてゐるのか、(間)ゐないのか?八洲子  (首をかしげる)計一  信じられなくなつたんだね?八洲子  (首をふる)計一  今でも信じてゐるのか。よし。その男と結婚する意志はあるんだらう。八洲子  …………。計一  おい、ここで考へるべきことぢやないよ。お前にその意志があつて、しかも、その希望が達せられないといふのは、どういふわけだ?八洲子  …………。計一  向うにその意志がないのか?(間)それとも、双方の希望を、何かが妨げてゐるのか?(間)或はまた、今となつては、さういふ希望も持てなくなつたと云ふのか?八洲子  (うなづく)計一  さういふ希望がもてなくなつた、といふのは、過失を犯してしまつたといふ理由だね?八洲子  (うなづく)計一  そんなことはない。そんな事は絶対にないよ。誰がさういふ風に教へ込んだか知らんが、そんな考へ方は俗な考へ方だ。お前達の幸福といふことを考へれば、現実は現実として聡明に処理すればいい。お前の今の苦しみは、云はば愚かな苦しみだ。そんな苦しみ方は、しなくつてもいいんだよ。もつと広い眼で世間をみてごらん。死ぬほどの決心をしたのなら、死んだつもりで、この家を出て行けば、それでいいぢやないか。相手の男はどんな男か知らんが、まさか、お前を支へるだけの力が、ないわけぢやあるまい。八洲子  お兄さま、あたし、今迄にもう、考へられるだけのことは考へましたわ。考へ方が足りないつておつしやるでせうけど、それは、まだお兄さまが、事情をすつかりごぞんじないからだわ。どういふ点から云つても、あたしは、このまま生きてゐられないんです……。それに……それだのに……死ぬこともできないなんて……自分で自分が口惜しいばかりだわ……。計一  だからさ、その事情つていふのを、すつかり云つてみたらどうだい。実際のところそれを聴いてからでないと、兄さんにだつて好い智恵は出ないよ。むろん、お前の立場に立つて、すべてを考へよう。そこは信用してくれてもいいだらう。八洲子  (うなづいて)でも、すつかりは云へないわ。それを云つてしまへば、事がなほ、面倒になるんですもの。いいえ、面倒になるんぢやなくつて、あたしが……あたしとして、絶対に、それこそ、生きてはゐられなくなるんですもの。計一  死ぬの生きるのは、もうよさうぢやないか。それや、場合によつちや、死ぬのもいいさ。だが、かういふ結果は、お前一人で責任を負ふ必要があるのかい? お前が苦しんでゐるだけ、相手の男も苦しんでゐるのか? お前が死ぬと云へば、その男も死んでくれるかどうか、さういふところが、兄さんの腑に落ちないんだ。(間)お前のそれほど信じてゐる男だよ、なぜ、今日まで、此処へ現はれて来ないんだ。どうしてお前を、たつた一人で、あんな海岸へやつて置くんだ。(間)わからん、さつぱりわからん。八洲子  そのわけは、どうかお訊きにならないで……。計一  そのわけを聴かなけや、何をすることもできないぢやないか。お前は、その男に、なんにも知らせないでゐるんだね。八洲子  ぢや、お兄さま、あたし、お話していいことだけお話しますわ。ただ、その男の名前だけは、お訊きにならないでね。そればつかりは、誰にも云へません。計一  名前は云はなくつていいから、どういふ男だか云つてごらん。年はいくつだ?八洲子  …………。計一  職業は?八洲子  …………。計一  詳しく云はなくつてもいい。八洲子  まだ学生なの……。計一  ふむ。家は金持か、貧乏か?八洲子  中くらゐでせう。計一  東京か? 田舎か?八洲子  田舎よ、でも東京の親類にゐるの。計一  何処で知合つたの?八洲子  お友達の家で……。計一  ふむ、大体わかつた。八洲子  お兄さま御存じない筈よ。計一  事情がだよ。お前は、瞞されたんだね。不良にひつかかつたんだね。八洲子  いいえ、不良なんかぢやないわ。学校もよく出来るし、図々しいところなんかちつともないのよ。お友達の家でも、みんな尊敬して、お交際ひしてゐるんですもの。計一  そんなことはなんの証拠にもならないさ。不良つて云ふ言葉は冗談に使つたんだが、結局真面目な恋愛の相手ぢやないつて事さ。八洲子  たつた一つの欠点つて云へば、とても気が弱いぐらゐのものだわ。それも純粋すぎるからだつて云へるの、でも、あたしたち、はじめから好意をもち合つたんですもの。(間)ギタアが上手なの。計一  (顔をしかめ)まあ、いいさ、なにが上手でも……。で、何時からだい、二人きりで会ふやうになつたのは?八洲子  二人きりでつて、さあ……。(記憶を正確に辿らうとする)計一  (間。苦笑を浮べて)かういふ話をしてると、おれはなんだか、女つていふものが、まるで信用できなくなるんだ。八洲子  …………。計一  それはそれとして、もう少し訊くが、二人の間で、将来の問題を、どう考へてゐたのか、それを云つてごらん。あやふやなさういふ関係を何時までも続けて行くつもりはなかつたんだらう。正式に結婚するためには、どうすればいいつていふやうなことを話し合はなかつたのか?八洲子  あの人が学校を出るまでは駄目だと思つてたの。それに……結婚つて云へば、年のことなんかも考へなけれやならないし、さう先のことは、あんまりどつちからも云ひ出さなかつたわ。信じ合つてゐるといふことだけで、なにもかもうまく行くんだつていふ気がしてたの。計一  お前の方はそのつもりでも、向うは、ただお前を玩具にしてゐたとも云へるよ、それぢや……。だがさうかと云つて、お前に罪がなく、向うばかり悪いとは、こいつ、断定できないぞ。お前の年で、そんな夢みたいなことを考へてる女はないよ。第三者から見れば、お前たちは、不純な恋愛遊戯に耽つてゐたといふことになる。相手の芝居に釣り込まれて、お前は真剣になつてゐたとも云へるんだ。八洲子  さうなら、さうでもいいわ。あたしはどうなつてもいい、欺されたら欺されたで、その時、後悔なんか決してしないつていふ覚悟をきめてゐるんです。今度でも、自分さへ死んでしまへば、あの人に迷惑はかからないと思つたからなの。あの人のためなら、そんなことなんでもないと思ひながら幾度、岩の上から暗い海の底をのぞきこんだかわからないの……。そばに、あの人がゐてくれたら、きつと、思ひ切つて飛び込んだと思ふわ。なんだつて、あんなに足が顫へて、いざつていふと、からだがすくんでしまふのか、自分にもわからないの。薬ならと思つて、町へアダリンを買ひに行つたこともあるんだけれど、店へはいると、舌がこはばつて、どうしても薬の名が云へないんですもの。(間)毎晩々々、それこそ、どうしたら死ねるかと、そのことばかり考へて、頭がふらふらして来たわ……御飯をまる一日たべずにゐたこともあつてよ。計一  礼子さんが遊びに行つたのはその頃だね。八洲子  ええ、礼子さんは、それやいろんなやり方を知つてるの。でも、やつぱり、あたしには向かないのばかりよ。計一  (いく分面白がつて)いちいちやつてみたのか?八洲子  瓦斯はないでせう。汽車は人が見てて厄介だし、お風呂の中で、ここんとこへ、(腕の動脈を抑へ)傷をつけて、血を出す方法も聞いたけど、剃刀がないから、それはよしたの。計一  (何かを探り出さうとして)礼子さんも礼子さんだね。お前にそんなことをさせて見てゐる気だつたのかい?八洲子  戯談みたいに話してたのよ。そのうちに、だんだん感づいて来て、たうとう、白状させられちまつたの。その晩、一緒に死んでくれつて頼んだら……。計一  お前の話し方は恰で他人事みたいだ。その調子なら礼子さんが電報でお母さんを呼んでくれなくつても、大丈夫、死ぬ気づかひはないな。しかし、問題は事件の真相を早く知る必要があると云ふ事だ。そこで、最後に訊きたいことは、その相手の男つていふのは、現在のお前を、どうしようつていふんだ? 頭をかかへて困つてるだけか?八洲子  …………。計一  おれの知つたことぢやないから勝手にしろつていふのか?八洲子  そんなこと云やしないわ。計一  どつちにしろ、お前に死ぬ決心までさせたといふのは、これやどう解釈したらいいんだ? もし、お前をいやになつたんでなけりや堂々と結婚の申込をすればいいぢやないか? 今すぐに引取ることはできないにしても、結婚の手続だけは、この際取つておくべきだつて事位どうして気がつかないんだらう?八洲子  家で許さないと思つてるんだわ。計一  こつちでか?八洲子  こつちもだし、お国の方で……。計一  だからさ、その理由は?八洲子  第一にまだ学校にゐるんだし、そんなこと云ひ出したつて相手にされないと思つてるんだわ。計一  相手にするもしないもないぢやないか。結果はどうあらうと、それをやつてみるだけの勇気もないのか?八洲子  それに、さうすることが、彼のためにならないと思つてるんでせう。計一  彼のためとは?八洲子  信用がなくなるからよ……。計一  信用? どういふ信用だい? お前の想像を訊いてるんぢやないよ。その男の云つた通りを云つてごらん。八洲子  だから、さう云つてるのよ――。こんなことが国に知れると、学費を送つて来なくなる、さうすると、学校も止めなけりやならないし、すぐ働いて食べて行く自信もないつていふの。それに第一、そんなことをしてたら、学歴も中途半端で、将来、どんな方面でも、上へ上れないにきまつてる……。それが一番辛いつていふの。自分は、今、野心に燃えてゐる……成功の道を絶たれることは、生きてゐる価値の全部を失ふことだつて云ふの。それは、あたしにもわかるわ。それに……自分は今迄、真面目な青年で通つてゐる。世間に対して、これくらゐ有利な看板はない。君とこんな関係になつてることが、先輩や友人たちに知れたら、今迄の看板は嘘つていふことになる。面目丸潰れだ。自分の云つたり為たりすることを、もう今迄のやうに、信用して注目してくれなくなる。男として、人から軽く扱はれるくらゐ、惨めなことはない。偉くなつてしまつてからなら別だが、今のうちに、弱点を暴露するつていふことは、生涯、頭の上らない原因を作ることだ。自分を若しほんたうに愛してくれるなら、どうか、さういふ惨酷な目にだけは遭はしてくれるな……。計一  おい、八洲子! お前は、さういふ男の言葉を、どんな気持で聴いてゐた?八洲子  ほんとにさうだと思つて聴いてたわ。でも、さうすると、女つて、つまらないものだと思つたけど、そんなこと云はなかつたわ。計一  で、さういふわけだから、お前にどうしてくれつて云ふんだ? 別れてくれとでも云ふのか?八洲子  (首を振る)計一  時節が来るまで、待つてつていふわけだね?八洲子  …………。計一  黙つて、独りで、何処かに隠れてゐろつていふんだね? 子供はどうするんだ、子供は?八洲子  …………。計一  お前はいやかも知れんが、その男の名前を云つて貰はなけれや困るよ。なんべんも云ふやうに、兄さんは、お前のために計つてやる。お前のためといふことは、その男の為めとも云へるんだ。男の生涯も大事だが、女の生涯も同様に大事だ。殊に、子供の生涯を暗くしていいといふ権利は、これは誰にもない。八洲子  どうしても死ねないとなつたら、死んだつもりで、どんな苦労でもします。あたしに出来ることなら、それこそ何でもして子供と二人で、あの人が立派になつてくれるのを待つてゐますわ。計一  それでお前は満足するかも知れない。おれたちが、さうさせてはおかないよ。なぜつて、それより外に方法がないとは思へないからだ。お父さんはなんて云ふか、話してみなけれやわからないが、お母さんや、兄弟たちが、お前の力になれないといふ法はないぢやないか? お父さんはああいふ人だから、どんな頑固な態度を取るかも知れない。それはそれでいい。お父さんはお父さんで気の済むやうにさせてあげるさ。お前を家へ置かないと云へば、ほかへ住むところをこしらへよう。八洲子  どうせさうなるものなら、今のうちに、何処かへ行きたいわ。お父さまのお顔を見るの、あたし、いやなの。怖いとかなんとか云ふんぢやないの。なんだか、お気の毒で……。計一  お気の毒はないだらう。お前にだつて一度は裁きを受ける勇気は必要さ。八洲子  ええ、それもさうだけど、やつぱりあのお父さまがと思ふと、お気の毒つていふ気がしてしやうがないんですもの。ひと思ひに、あたしを殺して下されば、どんなに楽だらうと思ふけれど、若しかしたらお自分が……。計一  余計なことを考へるな。そんな馬鹿な真似はしやしないよ。平生から、修養々々と云つてる手前からでも、娘の過失ぐらゐで度を失ふ気遣ひはないよ。しかし、順序として、お父さんにお詫びをするといふことは、それが通れば、お前も余計な苦労をしないですむわけだ。お父さんだつて、お前の出方ひとつでは、退職知事の体面を棒にふつても、娘の幸福を守つてやらうといふ気になるだらう。あのお父さんにしてみれば、全く可哀さうには可哀さうだ。世の中で、これより大事なものはないと思つてゐる所謂「名誉なるもの」を、仮にも汚されたといふことになるんだから、余つぽど、用心してかからないと、お前が自分の娘だといふことさへ忘れてかかるかも知れないからな。おれが、うまく云つてやるよ。その男の名前を云ひなさい。八洲子  それを云ふと、どういふことになるの? 会つて話をなさるおつもり?計一  その必要があればね。しかし、お前がどうしてもいやだと云ふなら、外の方法を取つてもいい。学校は何処だ?八洲子  高等学校なの。計一  (唖然として)何年?八洲子  二年……。計一  ぢや、やつと、十九?八洲子  二十よ。計一  (不機嫌に)お前が誘惑したんだね。八洲子  あら、そんな覚えないわ。ただ、二人つきりになると、あの人、何時でも泣くの、愛し方が足りないつて泣くの。あたし、どうすることもできないわ。計一  いろんな手があるもんだな。もうわかつた。世の中に、学問をして、その学問が役に立たない男がゐるものだ、おれもその一人だ。しかし、涙で女を釣るやうな男が、学問をして立身出世をしたら、それこそ、天下に害をなすだらう。名前を云ひなさい。八洲子  お兄さまがさういふ風におつしやるなら、なほ、あたし、名前なんか云へないわ。その人の値打は見る人で違ふと思ふの。あたしには、たつた一人の(声をおとし)すべてを許した人なんですもの……。誰がなんと云つても、自分の心だけは信じてゐます。計一  さういふお前は、なるほど立派だ。いや、立派に見える。しかし、よく考へてごらん。間違つた判断の上で、どんなに大きく見栄を切つても、それは滑稽以上のものぢやないんだ。おれは今迄独身で、品行もまづ方正と云つていいんだから、女がどうの、恋愛がどうのといふ資格はなささうだが、これでも小説はちつとばかり読んでゐる。年のおかげで、人間の心つていふものが、多少は理解できるつもりだ。一途なお前の気持や、先方の子供臭い、それだけ許してもやりたいやうなエゴイズムも、おれには納得ができる。だからと云うて、それから生じるいろいろな結果までを、すべて是認するわけに行かないのだ。八洲子! この問題の解決を兄さんに委してくれないか? お前の立場も考へ、相手の顔もつぶさないやうに、おれが始末をしてやる。お前たち二人の将来が、そのために明るくなれば、それでいいぢやないか。

この時、紳二がはいつて来る。

紳二  兄さん、ちよつと……。礼子さんが此処へ来たいつて云ふんです。八洲子の前で一緒に話した方がいいらしいんだ。あとで文句を云はれると困るつて……。計一  それやいいだらう。ねえ、八洲子、あの人には別に隠しておくことはないね。八洲子  改まつて妙だけど、いいわ。心配して付いて来て下すつたんだから、なにもかも聴いといて貰ふわ。

紳二は戸口から礼子をさし招く。

礼子、幾分照れたやうにして入り来る。

礼子  御邪魔かも知れませんけど、何かみなさまのお役に立てば……。計一  どうも失礼しました。別に、あなたから秘密を嗅ぎ出さうなんていふ量見ぢやなかつたんですが、八洲子の口からは云ひにくいこともあるでせうし、却つて、あなたの御存じのことははつきり伺つておいた方がいいと思つて……。礼子  ええ、只今、紳二お兄さまから、さういふお話でしたけれど、八洲子さんを差措いて、あたくしがお喋舌りをするつてありませんから、そこはどうぞ、あしからず……。でも、あたくし、八洲子さんの味方として、お云ひつけなら、なんでもいたしますわ……。計一  ありがたう。あなたが偶然、別荘の方へ遊びにいらしつたつていふことが、八洲子を救ひ得る第一歩だつたんです。御迷惑でなかつたら、今後も、いろいろ相談相手になつてやつて下さい。今も話してゐたところですが、過失は過失として、将来の問題を考へなけれやなりません。それについて、相手の名前を云へと云ふんですが、こいつ、どうしても云はないんです。あなたは、その男を御存じですか?礼子  (ちよつと八洲子の方を見て)ええ、存じてをります。でも……。計一  かまはないから云つて下さい。こいつ何か、考へ違ひをしてゐるんです。つまらない意地を張つてゐるんです。自分の代りに、あなたが云つて下されば、それで気が済むでせう。礼子  (八洲子に)お兄さまが、ああおつしやるんだから、あたし、云ふわよ。八洲子  (うつむいてゐて、返事をしない)礼子  云つた方がいいと思ふから、云つてよ。それは、あの……高校の学生で、斎木一正つて、おつしやる方ですわ。あたくし、八洲子さんと御一緒に、ちよいちよいお友達のお宅でお目にかかつてましたけど、今度お話を伺ふまで、そんな関係、ちつとも、……御免なさい、八洲子さん……なんて云つていいんですか、気がつきませんでしたの。計一  あなたにも黙つてたつていふわけですね。わかりました。礼子  恨みましたわ。あたくし、八洲子さんを……。紳二  親友の間柄でね。それやさうでせう。あなたにまで秘密にしておかなけれやならないつていふところに、動機の不純さがあるとは思ひませんか?礼子  さうまでは思ひませんけど、なにか、危険がひそんでゐたんぢやないかとは思ひますわ。計一  さうですね。どうだい、八洲子、おればかりぢやないよ、さう思ふのは……。現にその危険が、お前を身動きのできないところへ追ひ込んでゐるんだ(礼子に)その男は……まあ、これはよしませう。それより、八洲子の話では、その相手の態度といふのが、ひどく無責任すぎると思ふんです。そして、それをこいつが是認してゐるらしい。僕にはそれが不思議でもあり、焦れつたくもあるんですが、あなたはどうお考へですか?礼子  (八洲子に)さあ、あたくしは……。八洲子  (礼子の方をちらと横目でみる)礼子  なにか、御自分ひとりで考へてらつしやることがあるんぢやないかと思ひますけど……。八洲子  あなたにだつて、兄さまにだつて、それや云へないことがあるわ……。だからよ、後生だから、そのことは、もうお訊きにならないでね……、どうかすると、あの人を誤解させるやうなもんだから……。それだけは困るわ。紳二  八洲子! 下らない警戒なんかしてちや駄目だよ。なにもかもさらけ出すんだ。お前の判断つて奴は、今の場合、なんの価値もないんだぞ。礼子  さうでもないわ。斎木さんを一番よく御存じなのは八洲子さんの筈ですもの。あたくしは、八洲子さんがある事を信じてらつしやるのはいいとして、それが、何時か裏切られることがないやうにしてあげたいんですわ。お兄さまがたは、きつと、斎木さんつていふ方を悪くお思ひになつてらつしやるでせうけれど、それは、八洲子さんを信じてあげていただきたいんですの。思慮が足りなかつたとは云へるでせうけれど、それは、八洲子さんにも責任があるとして、あたくしの見たところ、やつぱり、好意のもてる青年ですわ。決して、八洲子さんを瞞したんでも、弄んだんでもない、真面目に、純粋に……あら、いやだ、演説みたいになつちやつた……。紳二  かまひませんよ。謹んで拝聴してゐます。礼子  おひやかしになるから、よすわ。でも、ほんとに、どういふんでせうね。(八洲子に)あなたが遠慮ばつかりしてるからぢやないの? なにしろ、まだ、さう云つちやなんだけど、向うは、それやお坊つちやんなんですもの。かういふ場合、責任をどう負へばいいか、自分にもまるで見当がおつきにならないでゐるんだわ。計一  では、かうしようぢやないか、八洲子……。おれが一度、その斎木とかいふ青年に会はう。結婚する意志があるか、ないか、それさへわかれば、あとは簡単だ。紳二  僕の方がよけれや、僕でもいいよ。若いもの同志で、話がし易いかも知れない。計一  若いと来たね。お前はまだ、さういふ人事関係に喙を容れるのは早い。紳二  社会の空気は、僕の方が余計吸つてるつもりだがなあ。兄さんは理窟が多すぎて、話の要点を外しちまひますよ。計一  礼子さん、どつちが適任だと思ひます?礼子  さあ、紳二お兄さまの方がよくはありません?計一  おや、贔屓があるもんだね、やつぱり。紳二  礼子さんと僕と、一緒に行かうか?礼子  いやだわ、そんなお伴……。そんなくらゐなら、あたくし、一人で行つてぶつかつてみるわ。八洲子さんさへ承知して下されば……。計一  ほう勇敢だなあ。さうして貰はうぢやないか。それが穏かでいいぞ。紳二  僕が黒幕で、うしろに控へてるからね。

玄関が開いて、やがて、「お帰り遊ばせ」といふ女中の声。

和服に袴をつけた老紳士が、長い風呂敷包みを提げて、部屋の中をのぞく。浜野計蔵である。

計蔵  大分賑やかだな。おや、八洲子も帰つてるのか(礼子の会釈に応へて)やあ……。(八洲子に)なんだつてお母さんを呼んだんだ……。なんでもなかつたのか?計一  なんです、お父さん、その包みは?計蔵  これか、なんだと思ふ? 買はんかといふ奴がゐるから、まあ預つとくと云つて持つて帰つて来たんだ。見せようか?紳二  なんです? 一体?計蔵  (つかつかと入つて来て、卓子の上で包みを解きはじめる)わしの部屋の方が落着いていいんだが、まあ、ひとつ……。紳二  なんだ、物騒なもんだぞ。計蔵  (徐ろに、白鞘の太刀を取り出す)お前どもにやわかるまいが、この通り、業物ぢや……。(鞘を払ふ)計一  (紳二と目を見合はせ)なんですか、物は……?計蔵  備前さ。無銘だが、れつきとした兼光だ。(巫山戯て)さあ、どいつでも来い。不届者は真つ二つだ!紳二  真つ二つは有難いが、そのメリヤスは似合ひませんね。計蔵  ハヽヽヽヽ、まあ、武勇伝はこのくらゐで……。(鞘に納める。それから更めて、八洲子の顔をのぞき込み)お前、いやに神妙ぢやないか。からだの具合はどうだ?八洲子  …………。計一  病気だなんて嘘らしいですよ。礼子さんと諜し合せて、どうも浜で勝手な真似をしてたらしい。計蔵  それこそ不届者だ。(笑ひながら反対側の入口から去る)

入れ代りに、浜野駒江(五十ぐらゐ)が、玄関の方から顔を出す。

駒江  お父さんは?紳二  奥……。駒江  まあ、いやだ……(さう云つて、引つ返さうとするのを、計一がその後を追つて、何か立話をする)紳二  さて、ちよつと会社へ顔を出してみるか。礼子  あら、今日はお休みぢやないの?紳二  休むつて云つといて、ちよつとでも出れば、休まないより勤勉にみえるからな。礼子  さもしいわ。計一  わかりました。ぢや、さうしませう。駒江  あたしや、どうも、作り事を云ふのが下手でね。計一  八洲子、心配しないでいいから、お前は、礼子さんと……さうだな……。礼子  あたくし、もう失礼させていただくわ。計一  いや……別に、どうつていふことはないが……。紳二  どうつていふことはないさ。ただ……。駒江  (八洲子を見て)この人は、その場にゐない方がいいね。計一  (腕組みをして考へ込みながら)ゐない……方……が、……いい……と……思ふが……(ソフアーに腰をおろし)ゐても……さ……し……つ……かへ……。

一同の不安な視線が計一に注がれてゐる。計一の言葉は、あとが続かない。そのうちに静かに、

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