Chapter 1 of 7

日本は何処へ行つても日本だといふことを私は近頃ますます強く感じる。が、それと同時に、同じ日本でありながら、処によつてかうも違ふものかといふ印象を受ける場合がまた極めて多い。

お互日本人は誰でもさうだと思ふが、この二つのことを少しも矛盾として受けとらない。おそろしく違ふもののなかに、根本的に共通したものを自然に嗅ぎ分けることができる。

すべてがたゞ一つの目的に向はねばならぬ時代、小異を捨てて大同につけと云はれる時代に、ことさら地方々々の特殊性を云々するのも、さういふ自信のうへに立つてでなければなるまい。

さて、問題は文学に関してである。

本誌は私に「地方文学」について書けと命じるのだが、「何々文学」といふ名称を、私は概して好まぬから、少しばかり躊躇した。しかし、編輯者の意のあるところを汲めば、これは徒らな掛け声に終るべきものではなく、また、何ものかが為にするところあつて作つた名称でもないらしい。殊に、日本の現代文学が、この苦難の時代に雄々しく立ち向ふすがたの一つであるといふこともわかつた。

厳密な意味では「地方文学」と「地方主義文学」とを区別した方がいゝとは思ふが、さういふ詮議をするのはこの文章の目的ではないから、一応こゝでは、いはゆる「地方主義」の旗印を掲げても掲げなくても、たゞ、日本全国のそれぞれの地域に根をおろし、主調として「地方的」とみられる独自の性格を帯びた文学活動をすべて「地方文学」と呼ぶことにする。

それでは、「地方的」とはいつたい何を指すかといふと、これは、例の「地方文化」などといふ場合にも屡々疑義を生じたことでも明らかなやうに、元来、「地方」といふ言葉には二重の意味があり、「中央」或は「首都」に対して云ふ場合と、単に、ある限られた土地を指す場合とが、おのづから概念としての両端をなすので、この両者が時によると混乱したまゝ用ひられてゐるのである。つまり、「地方色」といふやうな意味の「地方」と、「地方分権」といふやうな意味の「地方」とが、不用意に口にされ、軽率に受けとられるからである。

しかしながら、この両者は常に判然と区別して用ひなければならぬかといふと、必ずしもさうではなく、甲の意味のうちに乙の意味を含めるといふやうな用ひ方が許されないわけではない。さういふ繁雑な用法をひと通り呑み込んだ話のしかたが、お互に必要だといふことを、私は嘗ての乏しい経験から痛切に感じてゐる。

そこで、この「地方文学」であるが、これも、ごく普通の意味で、一国一時代の文学活動がその中心を首都におくといふやうな実状からみて、かゝる中央集権的な現象をよそに、首都を含む地区をも一地方として、全国をそれぞれの地方の歴史と生活とが、それ自身として既に確乎たる文学の伝統を築いてゐる場合、この種の文学に若しも固有の名称が冠せられるとすれば、これを「地方文学」と名づけるのは極めて自然であつて、これはもうそれだけで、「地方」の二重の意味を完全に一つのものとして現はしてゐることになる。

たゞ、「地方的」といふ言葉にあまりこだはりすぎると、なにか必要以上に、「反中央的」乃至「非都会的」なものを強調することになり、一方は政治的に、一方は趣味的に、観念の偏向を文学活動の分野で露呈するにすぎぬ結果となる。仮にそれが一定の主義主張に基き、「運動」の形で繰りひろげられるにもせよ、たゞそれだけでは、あらゆる「運動」の脆弱な一面がさうであるやうに、およそ文学の本質とはかゝはりないものとして、生命ある発展は期し得ないのみならず、戦時下の文学としても、その反動性の故に好ましからぬものとなるであらう。

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