Chapter 1 of 2

第一場

東京近郊の住宅地――かの三間か四間ぐらゐの、棟の低い瓦家――「貸家」と肉太に書いた紙札が、形ばかりの門柱を隔てて、玄関の戸に麗々しく貼つてある。四月上旬の午後。

その門の前で、立ち止つた夫婦連れ、結婚一二年、今に今にと思ひながら、知らず識らず生活にひしがれて行く無産知識階級の男女である。

毛谷  この家だらうね。京子  さうでせう。毛谷  番地が書いてないね。京子  これですよ。大家さんは何処か聞いてみませう。毛谷  同番地としてあつたんだから、その隣がさうかも知れないね。表札を見て来てごらん。宍戸だよ。京子  (帰つて来て)ちがひますわ。そいぢや、向うかしら……。京子  さうぢやなくつて? 若しかしたら、裏かも知れないわ。(裏へ廻らうとする)毛谷  待て、待て。一寸、外側だけでも見てからにしようぢやないか。庭は、これで沢山だね。京子  さうね。市中のことを思へばね。毛谷  これが、八畳と六畳かな。便所がそこと……。日当りは好ささうだね。京子  それやもう……。あたし、お台所さへ気に入つたら、すぐにでも借りますわ。毛谷  さうまあ急ぐなよ。しかし、今日は草臥れた。京子  でも、散歩だと思へば、なんでもないぢやありませんか。あなたは、すぐに草臥れておしまひになるから駄目よ。お天気だつて、四月にしちや上出来ですわ。毛谷  僕は何時でも草臥れてるやうなもんだ。近頃は……。さうすると、玄関と、もう一間あるわけだね。三畳か四畳半だらうね。なるほど……これならいゝや。京子  停車場だつて、さう遠くはないでせう。今日はずゐぶん廻り路をしたからですけれど……。毛谷  三十五円ていふところだらうな。少し辛いね。京子  さあ、話次第では三十円にするでせう。毛谷  間部のうちが、あれで、四十円だからね。尤も、先生は煙草も喫はない。円本も買はない……。元来、店に建てた家だからね。京子  奥さんも、おめかしをしないでせう。兎に角、大家さんに話してみませうよ。毛谷  なんて話すんだい。京子  その前に、中を見せて貰はなくちや、あなた……。毛谷  あ、さうか。隣で訊けばわかるだらう。

(この時、裏から宍戸第三、薪を割る鉈を持つてあらはれる)

宍戸  あなた方、何か御用ですか。毛谷  はあ、実は、この家を見たいんですが……。宍戸  あなた方がお住ひになるんですか。(二人を見上げ見下しする)毛谷  さうです。僕達夫婦です。宍戸  お二人きりですか。京子  二人きりですわ。女中をそのうち置かうと思つてますけど……。宍戸  その外にあとから、どなたか外においでになるやうなことはありますまいな。毛谷  今の処、ありません。宍戸  お子さんは……?毛谷  子供は、まだありません。だから、二人きりですよ。宍戸  近々お出来になるやうなことはありませんか。毛谷  さあ、それは保証出来ませんな。子供が出来ちやいけないんですか。宍戸  お出来にならない方が結構ですな。毛谷  僕達もその方が結構なんですが、あなたは、お子さんは……。宍戸  わたしには子供なんかありません。五年前に、女房と別れてから、ずつと独り暮しですが、子供がなくつて仕合せです。御商売は?……毛谷  会社へ勤めてゐます。(名刺を出す)かういふ者です。宍戸  なるほど……失礼ですが、月給は幾らお取りですか。毛谷  さういふことまでお話しなくちやならないんですか。京子  あの、宅では、月給だけをあてにして暮してるんぢやございませんの。ですからお家賃の方も……。宍戸  いや、さういふつもりで伺つたのぢやありません。わたしも、この家を人様にお貸ししてはゐるやうなものの、その上りだけで暮してゐる男ぢやないのです。高が三十円や四十円、と云つたところで、そのうちの幾分は、暮しのたしにすることはしますが、三十円が二十五円になつても、それやかまはないのです。毛谷  (京子に)申分ないぢやないか。宍戸  それがですな。わたくしの方は、お貸しする方の収入に応じて、頂けるだけ頂く方針なんで、つまり、原則として、収入の四分の一だけ……。京子  四分の一つて申しますと……。毛谷  百円の収入なら二十五円と云ふわけですな。宍戸  さやう。処で、今、奥さんのお話では、月給の外に収入がおありのやうですから、さういふお方は、やはりその全収入の四分の一。毛谷  いや、実は、僕達としましても……。宍戸  二百円なら五十円、五百円なら百二十五円……。京子  まあ……。宍戸  それでいゝわけぢやありませんか。ねえ。それで高いとお思ひになるなら、ほかの家をお借りになればいゝわけでせう。(奥へ行きかける)毛谷  それやまあ、さうです。宍戸  (帰つて来て)その代り一旦お貸しした上は、わたしも、うちの者同様に思つて頂きたい。お役に立つことなら何でもします。今もこの通り薪割りをしてゐたくらゐで、まだ力仕事なら若いものに負けません。それに、晩なんかは、なんにもすることがなくつて、ぶらぶらしてゐますから、芝居や活動にいらつしやる時は、お留守番を仰せつかります。此の辺はわりに物騒ですから、家を空けておいでになることはよくない。毛谷  (念を押すやうに)こゝは、百三十二番地ですね。宍戸  さうです。新聞で御覧になりましたか。今日はこれで三組、あなた方のやうな若い御夫婦が、家を見に来られました。この家を建ててから七年になりますが、最初の二年、自分で住んだきりです。あとの五年間は、ずつと人に貸してありました。それが、みんな、若い御夫婦ばかりです。一番はじめが軍人さんで、今台湾に行つておいでになる鬼頭さん。その次が、これは、わたしの眼鏡違ひで、飛んだ奴に借りられて了つたのですが、なんでも、小説を書いてるとか書いてないとかいふ青瓢箪、その嬶といふのが、また髪をかう、お河童さんにしやがつて、風呂敷のやうな洋服を着てゐるんですから、なんとも、はや、お話にならん。これは半年で逐ひ出しました。その次が、先達までおいでになつた大学の先生で、それ、何と云ひましたつけな……。毛谷  さあ。宍戸  いえ、つまり、その英語みたいな本をね、ビール箱に三つも持つておいででした。若い、可愛らしい奥さんと一緒でね。仲がいゝにもなんにも、朝起きると、二人で、もう歌を唱ふんです。わたしも、たうとう、その歌を覚えちまひましたよ。「恋はやさし、野辺の花よ……」京子  ほんとに、まあ、お上手ですわ。毛谷  しかし、ちつと流行遅れですね。宍戸  チエツ、素晴しい夫婦もあればあるもんですよ。それがどうでせう。わたしは、一日に一度、その御夫婦のお顔を見ないと、夜、眠られなくなつて了つたんです。弱りましたな。別に、毎日、用があるわけぢやなし、なに、用さへ作れば、一とまたぎの処にゐるんですが、大家なんていふものは、これで、肩身の狭いもので、うつかり顔を出せば、煩さい、何しに来た、といふやうな目で見られる。それでも、どうかして、二人のお顔が見たい。話声が聞えるとぢつとしてゐられない。家の中が静かだと胸がドキドキすると云つたやうな風に、もうかうなると、見栄も外聞もなくなる。「御免下さい。つまらんものですが、お一つ」と、煎餅を一袋、干柿を一串、毎晩のやうに持つて行つたものです。毛谷  お話中ですが、家の中を一寸見せて頂けますまいか。宍戸  はい、只今。わたしは、もと、鉄道院に出てゐましたのですが、少しばかり金を蓄めて、役をまあ退いたやうなわけですが、その金で、第一にこの家を建て、細々ながら恩給で暮して行くつもりでゐたのです、処が、不意に、女房に死なれて、なんの楽しみもなくなつたものですから、自分は、裏の空地に、バラツクのやうなものを作つて、其処に住み、この家は、まあ、気持のいゝ方にお貸しして、何とか面倒を見てもあげ、早く云へば、(二人を見較べ)鶏でも飼ふやうなつもりで、余生を送れば、いくらか気も紛れるだらうと思ひましてね。京子  あたくしたち、少し急ぐんですけれど……。宍戸  (帯の間から鍵を出し、玄関の戸の錠を外し)さあ、どうぞ……。掃除はちやんとしてあります。畳替も、この春にしたばかりですから……。

一同、家の中にはひる。

毛谷  この家は、何時から空いてゐるんですか。宍戸  つい、先達、空いたばかりです。毛谷  先達といひますと……。宍戸  つい、この間です。毛谷  しますと……。宍戸  十日ばかりにもなりますか……。毛谷  それにしちや、なんだか、埃つぽいですね。宍戸  この辺は、埃がなかなかひどいですからな……。なに、すぐに掃除はできますよ。(縁側の雨戸を繰る)毛谷  (天井を見ながら)十日ぐらゐぢやありますまい。宍戸  さあ、それとも一月にもなりますかな。なにしろ、今年になつてからですから……。毛谷  大分住み荒してありますね。宍戸  それと云ふのが、お二人とも、暢気な方で、わたしが、たまに、お留守中、掃除をするくらゐなものですから……。毛谷  襖なんか、ひどく破れてますね。宍戸  それがですよ。お二人で、鬼ごつこをなさるんですからね。この六畳を茶の間にして、八畳を、客間兼書斎といふ風に使つておいででした。おやすみになるのも、やはり八畳で……。わたし共は、北枕といふことは決してしませんが、お二人とも、こつち枕でしてね、こつちが北です。京子  夏は涼しいでせうかね。宍戸  えゝ、それや、もう……。こつちの窓を明けておやすみになれば……。そこが、わたしの住居ですが、ですから、用心は大丈夫です。京子  以前のかたは、夏、窓を明けておやすみになつたんですか。宍戸  蒸し暑い晩なんかは、さうしないと、眠られないなんておつしやつてね。なに、用心は大丈夫ですよ。さういふわけで、折角お馴染になつてゐましたのに、なんでも、お国からお母さんやなにかをお呼びになるんで、こゝでは狭すぎるつておつしやつてね、目黒の方へお越しになつたものですから、どうかして、この次にお貸しする方も、前のやうな方をと思ひましてね。今まで、沢山、見に来た方も、こつちから、お断りしたのが多いやうなわけで……。毛谷  ぢや、僕達は及第したわけですか。宍戸  まあ、かう云つちやなんですが、お二人とも、お人柄のやうだし……。京子  なかなか、お口がうまくつていらつしやるわ。宍戸  なにしろ、こればかりは運でしてね。こつちがいくらいゝと思つても……。毛谷  向うで気に入らなければね。宍戸  さやう。向うでいゝと思つても、こちらで真平といふのがあつたりして……。毛谷  この家は、これで、建坪はいくらです。宍戸  二十坪半です。便所が寝られるくらゐ広いんです。京子  この三畳は何に使はうかしら……。女中はまだ見つからないし……。宍戸  箪笥なんかお置きになつちや如何です。前の方は、さうなすつておいででしたよ。なんでも、奥さんのお里が大分いゝらしい様子で、箪笥なんか立派なものでしたな。ここの処に衣桁があつて、始終、目の覚めるやうな着物が、取替へ引替へ掛かつてゐましたつけ……。それから、ここに鏡台が置いてありましたな。奥さんが、朝晩、丹念にお化粧をなさる。それを、あつちから、旦那さんが見てをられるんです。時々、紙を丸めて、奥さんの肩にぶつつけたりなんかなさるんですよ。はゝゝゝゝ。京子  いやですわねえ。毛谷  どうしよう。京子  さあ。宍戸  どうか、わたしには御遠慮なく、いろいろ、御相談をなすつて下さい。御都合で、お家賃の方はどうにでもなにしますから……。どうせ、かうして空いてるもんですし……。なに、十円や十五円、どつちになつたつてかまやしません。京子  でも……。宍戸  わたしはね、同じことなら、あなた方のやうな、若い御夫婦にはひつて頂きたいんです。第一、陽気でさね。毛谷  駄目ですよ。もう、僕たちぢや……。宍戸  そんなことはありません。失礼ですが、おいくつです。毛谷  (笑つてゐて答へない)宍戸  奥さんは……?京子  そんなことをお聞きになつて、どうなさるんですの。宍戸  いや、兎に角、あなた方の時代は花ですよ。わたしもね、これで、鉄道院に勤めてゐます頃は、それ、よく、旅行をしませう。旅先では、どうしたつて、やあ、なんのかんのと云つて……。毛谷  それでは、よく考へてお返事をすることにしませう。宍戸  はあ。毛谷  どうもお邪魔しました。宍戸  ぢや、どうか一つ、よくお考へになつて……。京子  御免下さい。

両人、外に出で、門のところから、それぞれ家を振りかへる。宍戸は、戸締りをし始める。

毛谷  うるさい大家もあつたもんだなあ。京子  寂しいのね。毛谷  前にゐた奴つていふのは、よつぽど、だらしがない奴と見えるね。京子  何もかも、あけすけなのね。だけど、よく見といたものね、いろんなことを……。いやな、お爺さん。でも、家は、気に入つたわ。あなたは、どう。毛谷  家賃をいくらにするのか知らないけれど、あの調子ぢや、二十五円ぐらゐにしさうぢやないか。京子  さうよ、さうなら、随分、安いわ。毛谷  安いさ。惜しいやうな気もするな。京子  ね、さうでせう。いくらか、聞いてみるだけ聞いてみといたら?毛谷  うん、しかし、来て見て、あゝ煩さく附き纏はれちや、やりきれないね。京子  こつちが相手にしなければいゝんだわ。留守番なんか頼むからいけないのよ。あたしたちは、外へだつて、そんなに出ないんだし、世話になることなんか、ありやしないわ。もう、きめたつと……。毛谷  それもさうだね。兎に角、聞くだけ聞いといてみよう。(引返す。玄関に出て来る宍戸に)あのう……若し、拝借するとして、家賃の方はいくらぐらゐにして頂けるんですか。それを伺つとかないと……。宍戸  さやうですな。まあ、一つ、その辺は、適当に御相談しようぢやありませんか。今までのお宅は、どういふ風で……。毛谷  今までは、これより少し狭くつて、二十五円出してゐたんですが……。宍戸  どちらですか。毛谷  市内です。宍戸  市内は、どちら……?毛谷  あの……本郷です。宍戸  本郷……? ぢや、まあ、この辺と同じやうなもんですな。それぢや、三十円といふことにしようぢやありませんか。毛谷  ですけれど……。宍戸  いえ。それでかまひません。さつきも云ひましたやうに、十円や十五円は……。毛谷  ですから……。宍戸  まあ、まあ、さうして置いて、畳ぐらゐをそちらで持つていただけば……。毛谷  いえ、さうぢやないんです。こつちもまだ薄給の身ですし……。宍戸  いくらお取りですか。毛谷  九十円ばかりしか取つてゐません。宍戸  それに、一方の御収入が……。毛谷  いや、あれは、実は、家内の方の何でして、今月からは、当にできない事情があるもんですから……。宍戸  よろしい。それぢや、二十五円にしませう。その代り、考へた上でなんておつしやらないで、いますぐに、決めていただかうぢやありませんか。別に、お考へになる余地はないでせう。奥さんも御一緒なんだし、奥さんは、大分気に入つておいでのやうですな。毛谷  いや、さういふわけでもありませんが、家賃さへ安くしていただければ、と云ふんで……。宍戸  二十五円は安いでせう。京子  (近づき)どういふお話なんですの。宍戸  二十五円でも高いとおつしやるんです、旦那さんは……。京子  それで、敷金の方はどうしたら、よろしいんでせう。宍戸  あなたの方は、どういふ御都合ですか。京子  あの、でも、おつしやつていたゞいた方がよろしいんですの。宍戸  ぢや、敷金なしとしませう。京子  あら。毛谷  さうですか。宍戸  今晩からでもいらつしやい。わたしは、今から掃除にかゝります。京子  一寸、それぢや、もう一度、よく見せて頂きますわ。毛谷  なあんだ。宍戸  どうぞ、どうぞ……。(また鍵を外す)京子  (はひりながら)お台所がどういふ風になつてましたかしら……。宍戸  これで、家賃を取るために家を貸してゐる人は知りませんが、わたしなんかのやうに楽しみに人を置いてるものには、年寄りがゐて念仏を唱へたり、子供にギヤアギヤア泣かれたりしては、全く引き合ひませんからな。出来ることなら、あなた方のやうな、新婚の夢まどらかな若夫婦で、それも……。毛谷  僕達は、もう新婚ぢやありませんよ。宍戸  いや、それにしても、まだ世の中の苦労にはそれほど揉まれておいでにならんでせう。毛谷  どうして、どうして……。宍戸  つまり、夫婦が顔を合はせても、きつと何かしら云ひたいことのある時代、お互に、飽かず感情の火を点し合つてゐる時代、さういふ時代の御夫婦に、わたしは、この家をお貸ししたいんですよ。その御夫婦の生活が、云はば、今のわたしの、ほんたうの生活なのかも知れません。毛谷  (出て来た妻に)どうだい。兎に角、一度帰つて相談することにしよう。京子  さうね、でも……。宍戸  お決め下さるなら、早い方が結構です。手附もなにもいりませんから、お約束だけなすつて置いて下さい。京子  ぢや、折角あゝおつしやつて下さるんですから、さうしたら、どう?毛谷  さうだね。そんなら、明日は日曜だから、早速なにするとして……。(小声で妻に話しかけ、紙入から紙幣を取り出し)ぢや、兎に角、これだけお渡ししときます。宍戸  いや、そんなことはなさらんでよろしい。男同志がお約束をしたんですから、明日来て下さりさへすれば、そんなものは頂かなくつても同じことです。毛谷  そんなら……。(紙幣を蔵ひ)明日、間違ひなく……。宍戸  (きつきの名刺を更めて見たる後)毛谷啓さんですな。よろしうございます。(戸の鍵をかけかける)毛谷  どうも、御邪魔しました。京子  御免下さい。宍戸  あ、では、お待ちしてゐます。これから、早速、畳を拭きませう。(家のなかにはひる)毛谷  どうも少し、変だね、あの大家は……。京子  今時珍しいわ。でも、敷金なしだとすると、百五十円浮いて来るわね。毛谷  あれは無いものとしとかなくちや駄目だよ。京子  無いものと思つて、洋服をお作りになつたら……、今度こそ。毛谷  それはさうと、鶏を飼はう、鶏を……。京子  鶏だけれど、あたし、このシヨールぢや、もう暑いわ。

両人の姿が消える。

Chapter 1 of 2