Chapter 1 of 22

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神秘昆虫館

国枝史郎

「お侍様というものは……」女役者の阪東小篠は、微妙に笑って云ったものである。「お強くなければなりません」

「俺は随分強いつもりだ」こう答えたのは一式小一郎で、年は二十三で、鐘巻流の名手であり、父は田安家の家臣として、重望のある清左衛門であった。しかし小一郎は仕官していない。束縛されるのが厭だからで、放浪性の持ち主なのである。秀でた眉、ムッと高い鼻、眼尻がピンと切れ上がり、一脈剣気が漂っているが、物騒というところまでは行っていない。中肉中丈、白色である。そうして性質は明るくて皮肉。

「どんなにあなたがお強くても、人を切ったことはございますまい」阪東小篠は云い出した。

「泰平の御世だ、人など切れるか」

「では解らないではございませんか。……はたしてお強いかお弱いか?」

「鐘巻流では皆伝だよ。年二十三で皆伝になる、まあまあよほど強い方さ」一式小一郎は唇を刎ね、ニヤニヤ笑ったものである。

「お侍様というものは、お強くなければいけません」

「だからさ、強いと云っているではないか」

「ねえ、あなた」と阪東小篠は、そそのかすように云い出した。

「一度でも人をお切りになった方は、度胸が決まると申しますねえ」

「どうやらそんな話だな」

「お侍様というものは、度胸がなければいけませんねえ」

「云うまでもないよ」と小一郎は笑止らしく横を向いた。

「あなたに度胸がありますかしら?」

「あるともあるとも大ありだ」

「人を切ったこともない癖に」

「小篠!」と云うと小一郎は、ちょっと睨むように相手を見た。「何か目算がありそうだな」

「何んの何んのどう致しまして」小篠は例によって笑ったが、微妙な笑いであると共に、吸血鬼的の笑いでもあった。「ねえ、あなた、ただ妾はこう云いたいのでございますよ。――すべて女というものは、男が度胸を見せた時、すぐ飛びかかって行くものだとねえ」

「うむ、惚れるということか?」

「はいはいさようでございます」

「なるほど」と云ったが小一郎は、いくらか物憂そうに考え込んだ。と、話題をヒョイと変えた。

「それはそうとオイ小篠、南部集五郎はやって来るのかな?」

「よくお呼びしてくださいます」

「あいつも根気がいい方だなあ」

「ホッホッホッホッ、あなたのように」

「そうさ、俺だって根気はいいよ。……ところで小篠、どっちが好きだな?」

「南部様もそんなことをおっしゃいました。――一式氏とこの拙者と、どっちにお前は惚れているかなどと」

「で、どっちに惚れているのだ?」

「どっちがお強うございましょう?」

「ふふん、それでは強い方へ、お前はなびくというのだな?」

「そんな見当でございます」小篠は妖艶にニッコリとした。

「そうか」

と云うと一式小一郎は、ズイとばかりに立ち上がった。「小篠、それではまた会おう」

「もうお帰りでございますか」

「うん」

と云うと部屋を出た。

ここは深川の、桔梗茶屋の、その奥まった一室である。一人になった阪東小篠は、心の中で呟いた。

「南部さんにも云ったものさ。人一人お切りなさいましと。……妾のためにお侍さんが、罪もない人間を叩っ切る! ああどんなにいいだろう! そこまで妾に惚れてくれなければ妾の方だって惚れてはやらない。お二人の中でサアどっちが、希望を叶えてくれるかしら? いい見物だよ、待っていよう」

桔梗茶屋を出た小一郎は、考えながら歩いて行く。

「小篠という女、俺は好きだ。美しい上に惨酷性がある。完全な女というものさ。惨酷性のない女なんか、女ではなくて雌だからなあ。……それにしても随分手強い女だ。俺は半年も呼びつづけたかしら? それで未だにうんと云わない。……その上とうとう本性を現わし、人を切れなどと云い出してしまった。……いかにあいつのためとは云え、罪もない人間は切れないなあ。……そう云っても人を切らなければ、手に入れることは出来ないだろう。……そうしてまごまごしている中に、あの恋仇の南部奴に、かっ攫われまいものでもない。こいつだけはいかにも残念だなあ。……それはそうとここはどこだ?」

四辺を見廻わすと小梅田圃で、極月十日の星月夜の中に、藪や林が立っている。

「これは驚いた」と小一郎は、思わず足をピタリと止めた。

「いかに考えて歩いたとはいえ、小梅田圃へ出ようとは! こいつ狐につままれたかな?」

いやそうでもなさそうである。

「寒い寒い、急いで帰ろう」歩き出したがまた考えた。「だが全く竹刀の先で、ポンポン打ち合った剣術は、実戦の用には立ちそうもないなあ。……人間一人サ――ッと切る! 手答えあって血の匂い! ヒーッという悲鳴、のた打つ音! ……悪くないなあ悪くないなあ。……一度辻切りをして見たいものだ」

ふと小一郎は誘惑を感じた。

「切るにしても女や町人はいけない。うんと屈竟な武士に限る!」

考えながら歩いて行く。と、行手に藪があり、ザワザワと風に戦いでいる。その、裾辺まで来た時である、

「む、こいつは可笑しいぞ」小一郎はスッと後へ退き、ジ――ッと藪を隙かして見た。

何んにも変ったことはない。が、小一郎には感ぜられるらしい。小首を傾げたものである。

「どいつかいるな! 刀を按じて!」

迫身ノ刀気ハ盤石ヲ貫ク、心眼察スル者則チ豪――鐘巻流の奥品にある。その刀気を感じたらしい。で、寂然と動かなかった。

不意に小一郎は左手を上げ、鞘ぐるみ大刀を差し出したが、柄へ手をやると二寸ほど抜き、パチンと鍔鳴りの音をさせた。

と、黒々と藪を巡り、一個の人影が現われた。

「さすがは一式小一郎氏、拙者のいるのを察しられたと見える」

「や、貴殿南部氏か!」

「さよう」というと南部集五郎は、二歩ほど前へ進み出たが、「尾行けて参った、深川からな」

「ははあさようか、何んのご用で?」小一郎は油断をしなかった。

「率直に申す! お立ち合いなされ……」

「ほほう」と云ったが小一郎は、一つの考えを胸へ浮かべた。

「さては貴殿におかれても、阪東小篠にけしかけられましたな?」

「では貴殿にも?」と南部集五郎は、いささか興醒めたというように、

「それでは益恰好というもの、遁がしはせぬ、お立ち合いなされ!」

「さようさ、こいつは遁がれられまい」――だがにわかにクックッと笑った。「それにしても武士道は廃れましたな」

「何故な?」と集五郎はトホンとした。

「元亀天正の昔なら、女を賭けては切り合いませんよ」

「これはいかにも」と南部集五郎も、胸に落ちたか笑い出した。

「アッハハハ御世の有難さで」

「ええと今年は天保十年、文化からかけて文政と、武士ども柔弱になりましたな」悠々とこんなことを云い出した。

「これこれ一式氏一式氏、何を云われる、つまらないことを! 命の取りやり、さあ参るぞ!」次第に急くのは集五郎である。

「心得ておる!」と小一郎は、尚悠々と云いつづけた。「拙者剣侠を志してな、上にも仕えず二十三の部屋住み、そこで長剣を横たえて、千里に旅しようと思っていました。ところがとうとうおっこちましたよ、あの小篠という河原者にな」

「抜け!」と集五郎は威猛高である。「ごまかす気だな、卑怯千万!」

「剣侠も女にはまっては」と小一郎はかまわず云いつづける。

「いやはや一向値打ちござらぬ」

「チェッ」と集五郎は舌打ちをした。「これ臆したな! 一式小一郎!」

「剣より女の方が魅力がある」

「何を馬鹿な! それがどうした」

「そこで俺は徹底する」

「え?」と集五郎は一歩退いた。

「人を切れという小篠の言葉、それに手頼って徹底する! 人を切る! 貴様を切る! 女を取る! 悪事をする! 拙者悪剣に徹底する! これ、集五郎!」とヌッと進んだ。「飛び込んで来たな、よいところへ! 俺はな、俺はな!」とまた進んだ。「待っていたのだ! 辻切りの相手を! ……参るゾーッ」と声を掛けた。

はじめての大音、野面を渡り、まるで巨大な棒のように、夜の暗さを貫いた。

同時に飛び退いた小一郎は、引き抜いた下緒をピューッと振り、一つ扱くと早襷! 袖が捲くれて二本の腕が生白くニュッと食み出したが、つづいて聞こえたは鞘走る音だ。と、にわかに小一郎の体がシーンと下へ沈んだが、見れば右足を前へ踏み出し、膝から曲げて左足を敷き、腰を落したは蟠った竜! 曲げた膝頭の上二寸、そこへ刀の柄をあて、斜めに枝を張ったように、開いて太刀をつけたのは、鐘巻流での下段八双! 真っ向からかかれば払って退け、突いて来れば搦み落とす、翩翻自在の構えである。星を刻むような鋒止先、チカチカチカチカと青光る。居付かぬように動かすのである。ブ――ッと剣気そこから湧き、暗中に虹でも吹きそうである。

だが南部集五郎、こいつも決して只者ではなかった。東軍流ではかなりの手利き、同じく飛び退くとヌッと延し、抜き持った太刀柄気海へ引き付け、両肘を縮めて構え込んだが、すなわち尋常の中段である。

「なるほど」と呟いたは小一郎で、「かなり立派な腕前だな。だがこの俺の敵ではない。よし」と云うと揶揄し出した。「さあ南部氏、かかってござれ! 立っているばかりが能ではない。お揮いなされ、そのだんびらを! ちょうど星空だ光りましょうぞ! 廻わり込みなされ、右の方へ! すると拙者は左へ廻わる。と、ご両人ぶつかり合う。そこでチャリ――ンと一合の太刀! ナーニ二合とは合わせませんよ、一合でちゃアんと片が付く。もちろん貴殿が負けるのさ。それ石卵は敵しがたし! 唐人も時にはうまいことを云う。石と卵とぶつかれば、間違いなく石の方が勝ってしまう。拙者が石で貴殿が卵、さあ卵氏、卵氏はずんで、飛び込んでおいでなされ」喋舌りながらも考えた。「俺は案外大胆だな、今夜が最初の実戦だが、大して怖くも恐ろしくもない。うむ、これなら人間が切れる。……よしよしこっちから迫り詰めてやれ」

足の爪先蝮をつくり、土を刻んでジリジリと、廻わりも込まずに前へ出た。

次第に後退さる集五郎、いわゆる気勢に圧せられ、ともすると太刀先が上がろうとする。上がったが最後、「突き」が来る。そこで押し静め、押し静め、盛り返して一歩出た。と、小一郎は一歩引いた。と、集五郎また一歩! と、小一郎一歩退がった。「しめた」と考えた集五郎、相手が「釣手」で退くとも知らず、ムッと気息、腹一杯、籠めると同時に躍り込んだ。両肘を延ばし、太刀を上げ目差すは小一郎の右の肩、そいつをサッと左袈裟!

「駄目だよ」と小一郎は一喝した。瞬間に鏘然たる太刀の音! つづいて大きく星空に、一つの楕円が描かれた。すなわち一式小一郎が敵の刀を払い落とし、身を翻えすと片手切り、大刀宙へ刎ねたのである。こいつが落ちれば集五郎の首は、斜に耳から切られただろう。

その際どい一髪の間だ、女の声が聞こえて来た。

「蝶々をご存知ではございますまいか」

美しい清浄な声であった。ス――ッと小一郎の心から、殺伐な邪気が抜けてしまった。

と、また女の声がした。

「永生の蝶でございます。……蝶々をご存知ではございますまいか」

どこにいるのだろう、声の主は? 木立があって、藪があって、後は吹きさらしの、小梅田圃。女の姿などどこにも見えない。それにもかかわらず女の声は、すぐ手近から聞こえるのであった。

「もしご存知でございましたら、昆虫館までお届けください」

するとどうだろう、それに続いて、老人の声が聞こえて来た。「娘よ、駄目だよ、永生の蝶、何んのこういう人達に、探し出すことが出来るものか」

非常に威厳のある声であった。手近の所から聞こえて来る。だがやっぱり姿は見えない。

「人殺しをしようという人間に、永久に生きる神秘の蝶が、何んの何んの探し出せるものか」老人の声がまた聞こえた。「さあ娘よ、そろそろ行こう」

「はい、お父様」と女の声がした。「それでは他へ参りましょう」それから優しくもう一度云った。「お止めなさりませ……お侍様……殺生のことはね……さようなら」

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