Chapter 1 of 4

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日本で古くから祝われてきた魅力的な祭りはいろいろあるが、なかでも最もロマンチックなのはタナバタサマのお祭りである。けれど、今では大きな都会ではほとんど見かけなくなっている。げんに東京ではもうほとんど忘れ去られた有様である。それでも、地方や首都近郊の村に行けば今でも小規模ながら行われている。もし(旧暦)の七月の七日に、地方の古そうな町や村を訪ずれる機会があったら、読者諸氏はたぶん新しく切った青竹が屋根の上に取り付けられたり、あるいは家々の傍の地面に立てられたりしているのを見かけられるだろうし、それらの青竹には細長い色紙がたくさん結びつけられているのをご覧になるだろう。とても貧しそうな村ではこれらの短冊が白色であったり、一色だけであると気づかれよう。しかし、これらの細長い紙は普通は五色か七色である。青、緑、赤、黄色それに白色はよく飾り付けられている色である。これらの色紙にはなべてタナバタとその夫であるヒコボシを讃える短い詩句が書き付けられている。お祭りが済めば、竹は取り払われ、結び付けられた詩句の短冊も一緒に近所の川に流されてしまうのである。

この古い祭の縁起となっている恋物語を理解するには、七月七日には宮中においてこれら星の神々にお供えをする行事が行われてきており、その故事を知る必要がある。伝説そのものは中国から由来したものであるが、日本で一般的に知られているのはつぎの物語である――

天界の大神には、タナバタツメ(棚機津女)という可愛らしい娘があったが、父なる王のために一日中織物を織って暮らしていた。姫は自分のこの仕事を気に入り、喜んで機織をしている。ところが、ある日、王宮の戸口の織機の前に座っていると、若い農夫が牛を牽いて通りかかるのを見かけた。すると、この若者をすっかり気に入ってしまった。父なる天帝は、娘の密かな願いを察して、若者をその夫とした。けれど、結婚した若い二人は互いを好きで堪らず、天界の神への務めを怠った。やがて機織機の杼の音も聞かれなくなった。また、牛も放ったらかしにされて天界の草地をさ迷っている。このため天帝は快く思われず、ついには二人を別れさせになった。二人は以後、天体の川を挟んで別々に暮らすようにと申し渡された。ただし、一年に一度だけ、七番目の月の七番目の夜にだけ、互いに逢うことが許された。その夜には――夜空が澄んでいれば――天界の鳥たちがその体と広げた翼とで川に架ける橋を作るのであった。この橋を渡ることで恋する二人は逢うことができる。ところが、その夜が雨だったならば、天の川は水かさが増して川幅が広くなり、橋を作ることがもうできないほどになる。そういう風で、七番目の月の七番目の夜だったとしても、夫と妻が必ず逢えるとは限らない。天気が悪ければ、二人は三年も四年も会えなくなってしまうことがある。けれども、二人の愛はいつまでも若々しく、また一途であったので、それぞれの務めを毎日勤勉に――つぎの七月七日の夜には会えることを願って――励んでいる。

古代中国人の想像するところでは、天の川とは光り輝く川――「天の川」――つまり「銀河」であった。西洋の作家たちによれば、タナバタつまり織姫はこと座の星の一つであり、彼女の夫である牛飼はこの銀河の反対側に位置するわし座の星の一つである。しかし、極東の人たちの想像の世界では、これら二つの星は他の多くの星の集まりを代表していると言った方が正しいであろう。日本のある古い書物では、この点についてはっきりとつぎのように言っている。「牽牛(牛飼)は天の川の西側に位置して一列に並んだ三つの星で示され、あたかも牛を牽く男の形を示している。織女(織姫)は天の川の東側にあって、並んだ三星は機織機の前に座っている女性の姿のように見える……。牽牛は農事を司り、織姫は婦人の仕事を司る。」

『雑和集』という古い書物によると、これらの神々はもとは地上の人たちだったという。かつて、この世では二人は夫婦で中国に住んでいた。夫は遊子といい、妻は伯陽といった(a)。二人はとても熱心に月を崇めていた。太陽が沈み、澄み渡った夕暮れにはいつも月が昇るのを心待ちにしている。夕日が沈みかけると、二人は家の近くの丘の上に登って、できるだけ長くお月さまを仰ぎ眺めていた。そしてついに月が消えかかると嘆くのである。妻の方は九九の歳に亡くなった。彼女の魂はカササギに乗って天上へと昇った。夫は、その時一〇三歳だったが、月を眺めては亡き妻を偲んだ。そして、月が昇るのを喜んだが、またそれが沈んで隠れるのを悔やんだ。それはあたかも妻がなお自分のそばにいるかのように思われたからである。

ある夏の夜、伯陽は――いまでは永遠に美しくまた若いままに――カササギに乗って天上から地上の夫の元を訪ねた。遊子は訪ねて来てくれたことをとても喜んだが、その時から彼は自分も星となることしか考えられなくなり、また天の川を超えて伯陽と一緒になることばかり夢見ていた。ついに遊子はカラスに乗って天上に昇った。そしてそこで星となって神様になった。けれども、望んだようには伯陽と一緒になることはできなかった――というのは彼が割り当てられた場所と妻のいる場所との間には天の川があったからである。天帝が毎日川で浴あみをなされるから、どの星も川を渡ることが許されなかったのである。ましてや橋などはないのである。しかし、毎年一日だけ――七月の七日――、二人は互いに会うことが許された。その日には、天界の大帝(天帝)は決まってブッダの説法を聴かれるために、善法堂に行かれるのだった。カササギとカラスが、それぞれ翼を広げて空中で飛びながら静止して天の川に架かける橋を作ってくれるので、伯陽はこの橋を渡って夫の遊子に会うのである。

日本でタナバタという祭りが元々は中国の織姫、チニュウ(織女)の祭と同じであることは明らかである。日本の祭は、そのはじめからとくに婦人の祭日であったようだ。タナバタという語にまつわる人物といえば織女を意味している。ところで、二つの星の神様が七月七日に敬われるようになると、ある日本の学者たちはそのありふれた説明には納得せず、それは元々は種(種もしくは穀物)と機(織機)という二つの言葉から成っていると言い始めた。この語源の説明に賛同する者たちは、単数ではなく複数形にしたタナバタサマという名称を用いて「穀物と機の神々」とするのである――つまり農業と機織を司る神々なのであるという。古い日本の絵画には星の神様はこれらのそれぞれの属性を持つ概念に基づいて描かれている――彦星は天の川に牛を牽いて連れていく農夫の若者として、また、もう一方の遠くの側では織姫が織り機の前に座って機織りしている姿が描かれている。両人の衣装は中国風である。最初にこれらの神様たちを描いた日本の画というのはおそらく中国の原画を模写したものであったろう。

現存する日本の最古の詩歌集である――西暦七六〇年頃の「万葉集」――では、男性の神はたいてい彦星と呼ばれ、女性の神はタナバタツメ(棚機津女)とされている。しかし、その後になると、両者はタナバタと呼ばれている。出雲では、男性の神は男タナバタサマ、女性のそれは女タナバタサマと呼ばれている。両者とも多くの名前で知られている。男子はカイボシや彦星とも牽牛とも呼ばれている。女性神はアサガオヒメ(朝顔姫)(1)やイトオリヒメ(糸織姫)とか、モモコヒメ(桃子姫)やタキモノヒメ(薫物姫)、あるいはササガニヒメ(蜘蛛姫)とか呼ばれている。これらの名のうちのいくつかはとても説明するのが難しいが――とくに最後のものに至っては、ギリシア神話のアラクネーを連想させるものである(b)。おそらくギリシア神話と中国の古い昔話にはなにも共通するものはないが、古い中国の書物には関連を示唆するような面白い事実も記されている。中国皇帝の明皇(日本では玄宗皇帝)の治世の時に、占朴のために七月七日になると宮廷の女官たちが蜘蛛を捕まえて、香料の箱の中に入れておくのが習慣だった。八日の朝になるとその香箱が開けられて、もし蜘蛛が一夜にして蜘蛛の巣を立派に張っていれば吉であり、何もなければ凶であった。

こんな話もある。昔、出雲の山の中にある農家をある美しい女性が訪れて、この家のひとり娘に今まで誰もまったく知らない織り方を教えた。とある夕刻、この美しい来訪者はいなくなってしまった。それで家の者や村人たちはあれは天の織姫だったのだと気がついたのだった。農家の娘はその織り方で知られて有名となったけれども結婚はしなかった――というのは彼女はタナバタサマにお仕えしたからである。

それから、中国のちょっと雲をつかむような話もある。それは、何も知らないまま天の国に行った男の話である。男は、毎年八月になると高価な銘木が自分の住む海岸にたくさん流れ着くことに気づいた。そこで、男は舟に二年分の食料を積むと、たくさんの木が流れてくる方角へ向けて船旅をした。来る月来る月、いつも凪いでいる海の上を航海していると、ついに素晴らしい樹木が生えている美しい海岸にたどり着いた。舟を停泊させて、ただ一人見知らぬ土地に入り込んでいくと水面が銀のように輝いている川の岸辺に着いた。川向こうには東屋があって、そこでは、きれいな女性が座って機織りをしている。女性は月光のように白く、光り輝いている。やがて、見目のよい若い農夫が水を飲ませるために牛を牽いてやって来た。男は若者にここが何という国でどんな所かと訊ねた。この若者はこの問いかけに気を悪くしたようで、ぶっきらぼうに答える。「ここがどんな所か知りたければ、国へ戻って厳君平に尋ねてみろ」(2)。そこで、旅の男は怖くなったので急いで舟のところへ引き返して中国まで戻った。そして、厳君平なる賢人を探し出して、自分のこの冒険譚を話した。厳君平は、不思議な話だったので、はたと手を叩いて言う。「なんだ、お前さんだったのか!……七月七日に、空を仰ぎ眺めていると、牽牛と織女がまさに出会おうとしていたときに――二人の間に新しい星が現れたので、てっきり私は客星だと思ったのじゃよ。幸運な人だね! お前さんは。天の川まで行って織姫様の顔まで見たんだからな!……」

牽牛と織女との出会は目がいい人なら誰でも見ることができると言い伝えられている。その出会いのときは五色の光に輝くからである。七夕の神々に五色の供物を供えたり、神々を讃える詩句を五色の短冊に書くのもこの故である。

しかし、先に述べたように、二つの星はよく晴れた日だけに出会うことができるのである。七日に少しでも雨が降れば、天の川は水かさが増して、恋人たちはまるまる一年も待たなければならないことになる。このために、七夕の夜に降る雨はなみだの雨、「涙雨」と呼ばれている。

七日の夜、空が晴れていたなら、恋人たちにとっては幸運である。二つの星は喜びで光り輝いているのが見えるだろう。牽牛星がとても光り輝いているならば、その年の秋には豊作が見込めるのである。他方、もし織女星がいつもより輝いていれば、機織やあらゆる女性の仕事に繁栄をもたらすと言い伝えられている。

昔の日本では、一般に、二人の出会いは人々にとって幸運を意味するものと考えられてきた。今日でさえ、この国の多くの地方では、子どもたちが七夕祭の宵には可愛い歌を歌う――天気になあれ!(「良い天気でありますように!」)伊賀地方では若者たちはまた、恋人たちが出会うと思われる時刻にからかいの唄を歌う――

たなばたや!

あまり急がば

転ぶべし!(3)

ところが、雨のとても多い出雲地方では、反対のことが言い伝えられている。七月七日の日に晴れているならば災いが起こるであろうと信じられている。つまり、二つの星が出会って契を交わすと、そこから悪い神も多く生まれ、干ばつやその他の災いをこの地方にもたらすことになるからである。

日本で七夕祭が最初に祝われたのは、天平勝宝七年七月七日(西暦七五五年)であった。七夕神が中国に起源を持っていたために、おそらくそれまで七夕神の祀りを祭事としては多数の神社では行わなかったということであろう。

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