自序
努力は一である。しかしこれを考察すると、自然と二種あるのが分かる。一ツは直接の努力で、他の一ツは間接の努力である。間接の努力は準備の努力で、基礎となり源泉となるものである。直接の努力は当面の努力で、事に当たって奮励努力する時のそれである。人はともすると努力が無効に終わることを訴えて嘆く。しかし、努力は効果の有り無しによって、すべきであるとかすべきでないとかを判断すべきではない。努力ということが人の進んで止むことを知らない人間の本性であるから努力すべきなのである。そして、若干の努力が若干の好結果を生じる事実は、間違いなく存在しているのである。ただ時には努力の結果が良くないこともある。それは努力の方向が悪いからか、それとも間接の努力が欠けていて、直接の努力だけが用いられたためである。無理な願望に努力するのは努力の方向が悪いので、無理ではない願望に努力して、そして好結果が得られないのは、間接の努力が欠けているからであろう。瓜の蔓に茄子を求めるようなことは、努力の方向が誤っているので、詩歌の美妙なものを得ようとして、いたずらに篇を連ね、句を累ねるようなことは、間接の努力が欠けているのである。誤った方向の努力は少ないが、間接の努力を欠くことは多い。詩歌のようなものは当面の努力だけで良いものは得られない。朝から暮に至るまで、紙に臨み筆を執ったからといって、字や句の百千万を連ねることは出来ても、それだけで詩歌の逸品は出来ない。この意味に於いて勉強努力は甚だ価値が低い。それで、努力を悦ばず勉強を排斥する人もある。特に芸術の上に於いては自然の生成を貴んで、努力を排斥する者が多い。それも理屈である。努力万能とは断定できない。インドの古伝の技芸天即ち芸術の神のように、芸術は天上世界に遊ぶ者の美睡の頭脳中から自然に生ずるものかも知れない。当面の努力だけで、必ず努力の好結果が得られるならば、下手の横好きという諺は世に存在しないことだろう。しかし、それにしてもそれは努力を排斥する根拠とはならないで、却って間接の努力を要求する根拠となっている。努力無効果の事実は、芸術の源泉となり基礎となる準備の努力、即ち自性の醇化、世相の真解、感興の旺溢、製作の自在、それ等のことに努力することが重要であるということを、いたずらに紙に臨み筆を執るだけの直接努力を敢えてしている者に明示しているのである。努力は仮令その効果が無いにしても、人の本性が、人の命ある間は自然にするものである。好き嫌いすることの出来ないものである。
しかし努力を悦ばない傾向が、人に存在することは否定出来ない。今まさに眠ろうとする人や次第に死に向かっている人は、直接の努力も間接の努力も悦ばない。それは燃やすべき石炭が無くなって、火が炎を挙げることを辞退しているのである。
努力は好い。しかし、人が努力するということは、人としては尚不純である。自分の何処かに納得できないものが存在するのを感じていて、そして、それを自分に鞭打ち之を威圧しながら事に従っている有様である。
努力している、若しくは努力しようとしている、ということを忘れていて、自分の為していることが自然な努力であって欲しい。そうで有ったならそれは努力の真髄であり、醍醐味である。
この冊子の中、運命と人力と、自己革新論、幸福三説、修学の四目標、凡庸の資質と卓絶の事功と、接物宜従厚、四季と一身と、疾病説、以上数篇は明治四十三年より四十四年に於いて成功雜誌の上に、着手の処、努力の堆積二篇は同じ頃の他の雑誌に、静光動光は四十一年成功雜誌に、進潮退潮、説気山下語はこの書の刊に際して起草したものである。努力に関することが多いから、この書を努力論と名付けた。
努力して努力する、それは真の良いものではない。努力を忘れて努力する、それが真の良いものである。しかしその境地に至るには愛か捨かを体得しなければならない、そうでなければ三阿僧祗劫(生きている時間)の間なりとも努力しなければならない。愛の道、捨の道をこの冊子には説いていない、よって努力論と題している。
壬子(大正元年)の夏著者識