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鴎外の思い出
小金井喜美子
序にかえて
あやしくも重ねけるかなわがよはひ
八十四歳一瞬にして
これは今年の正月の私の誕生日に、子供たちが集った時に口ずさんだのです。
いつか思いの外に長命して、両親、兄弟、主人にも後れ、あたりに誰もいなくなったのは寂しいことですが、幸いに子供だけは四人とも無事でいますのを何よりと思っています。近親中で長生したのは主人の八十七、祖母の八十八でした。祖母は晩年には老耄して、私と母とを間違えるようでした。主人は確かで、至って安らかに終りました。この頃亡兄は結核であったといわれるようになりましたが、主人も歿後解剖の結果、結核だとせられました。解剖家は死後解剖するという契約なのです。医者でいる子供たちも、父は健康で長命して、老衰で終ったとばかり思っていましたら、執刀せられた博士たちは、人間は老衰だけで終るものではない、昔結核を患った痕跡もあるし、それが再発したのだといわれます。解剖して見た上でいわれるのですから、ほんとでしょう。つくづく人体というものを不思議に思います。
それにつけても、割合に早く終った兄は気の毒でした。何も長命が幸福ともいわれませんけれど、その一生に長命の人以上の仕事をせられたのですから。元来強健という体質ではなく、学生時代に肋膜炎を患ったこともありましたし、その作の「仮面」に拠れば、結核もせられたらしく、それから長年の間、戦闘員でこそなけれ、軍人として戦地に行き、蕃地にも渡り、停年までその職に堪えた上、文学上にもあれだけの仕事をされたのですから、確かに過労に違いありません。よくもなされたと驚くばかりですが、それにつけても、晩年にはもっと静養させたかったと、ただそれだけが残念です。晩年の頃に、たまたま尋ねますと、いろいろ心遣いをなさるので、それがお気の毒に思われてなるべく伺わず、伺っても長坐せぬようにと心懸けたのですから、その頃の動静はよく存じません。尋ねて帰宅してから、いつも主人と古い時代の頃の噂をしたことでした。
主人は兄より二歳の年長です。昔からの名代の病人で、留学中に入院したこともあり、多くの先生方にも診ていただきましたが、はかばかしくありません。その病症も不明なのです。帰朝後もその職に堪えられるかどうか案じられたほどで、誰もがいつ死ぬかとばかり思っていました。同僚中で結核の重症といわれた山極氏と、どっちが先だろうと較べられ、知人の葬式に顔を合わす度に、今度は君の番だろう、といわれるのは入沢氏でした。
それがいつともなく快方に向い、知人の誰より長命したのですが、ただ一切あたりに心を使わず、体の動く間は研究室に通って、自分の思うことだけを心任せにしていたのがよかったのでしょう。家族の者も、主人に心配させるようなことは一切しませんでした。晩年は、世にある方たちには思いも寄らぬ少額の恩給だけでの生活でしたが、家内中の誰も、それを不足だとは思いもしませんかった。いわば主人は心が平かだったので、それが保健上何よりの条件と思います。あの何事にも忍耐強かった兄が、身体の衰弱のためもありましょうが、晩年には時々甲高い声も出されたと聞いた時には、身も縮むように思いました。
けれども今になって、詰まらぬことは申しますまい。割合に短命だった一生に、兄はあれだけの仕事をせられたので、それが永久に残るのだと思えば、この上の満足はありますまい。本人も地下で微笑していられるでしょう。謹んで兄の冥福を祈りましょう。
ながらへてまたかゝるもの書けるよと
笑みます兄のおもかげ浮ぶ
命ありて思ひいだすは父と母
わが背わが兄ことさらに兄
ゆきまして三十とせあまりいつもいつも
忘るゝ間なく君をこそおもへ
昭和三十年盛夏
小金井喜美子
くずもち
私が八つ位の時です。夏の事で、千住の家の奥庭の柿の花の頻りに降る下で、土いじりをして遊んでいました。お父さんは植木が好きで、かなり鉢数を持っていられました。買ったものはなく、何か由緒のあるものばかりで、往診に行った時、遠い山中で掘って来たとか、不治と思った患者が全快したお礼に持って来たとかいうようなので、目ぼしいのは、お邸の殿様からいただいた松の鉢植でした。あまり大きくないのですが、かなりの古木らしく、その幹はうねうねと曲っていました。殿様も初めは大切になさったのが、虫がついたか葉の色もわるくなったので、「これは不用だから持って行ったらどうか、医者の手腕でなおしたらよかろう」と、笑いながら下すったというのです。父は殿様の侍医をしていました。
尤も向島に住んでお出なのが、お年寄で食養生をなさるのに御不自由だというので、市中へお移りになるという噂がちらちらある頃でしたから、弱った植木などは、どうでもよかったのでしょう。
お父さんは大喜びで車で持って帰り、人にも聞いたり、自分でも種々工夫したり、その手入にかかっておりました。千住で郡医となって、向島へは折々御機嫌伺いに出るのでした。開業していましたが、病人が来ても植木にかかっている時は、なかなか手離そうとなさいません。書生に、「先生、もうよほど待たせてありますから」と催促せられて、やっと立上るのでした。お母さんなどは、「ほんとにお父さんにも困るね。いつも土いじりばかりなすって、堅い手をしていらっしゃる。きれいな柔い手を、人はお医者のようだという位なのに」といっておられました。
それでも松の鉢植はどうやら持ち直して、新芽を吹いた時の喜びは大したものでした。鉢も立派でしたから、それを客間の床の台に据えて、その幹を手で撫でながら、「おれは植木の医者の方が上手かも知れない。蟠竜というのはこんなのだろう。これを見ると深山の断崖から、千仞の谷に蜿蜒としている老松を思い出すよ」と仰しゃるので、皆その大げさなのをおかしいとは思いながら、ただ「ほんとですね」とだけ申しました。相槌を打たぬのがお気に召さないのでした。
その外に石榴の鉢植がありました。石榴は直水を嫌うからと、鉢が大きな水盤に入れてありました。それに実がいくつか附いた時などはお喜びにもなりますが、誰にでも褒めてもらいたいのでした。どこからか古い雛段を出して来て順序よく並べ、暫くするとまた並べ替えるのでした。大釜を古道具屋から買って来て、書生に水を一ぱい張らせます。夕方植木に水をやるのは私の役でした。そんなですから私も自然見真似をして、小さな鉢に松や南天などの芽生を植え、庭に出る事が多いのでした。
或曇り日の午後、ふと出ていらしたお兄様は、杖を手に庭の飛石を横ぎるとて、私の木蔭にいるのを見て、「おい、行かないか」と声をおかけになりました。「はい」と御返事をして、そのまま手の土を払って附いて出ました。古びた裏門を出ると、邸の廻りに一間幅位の溝があって、そこに吊橋が懸っています。それを下して、ずんずん右の方にいらっしゃいます。左はそこらの大地主の広い庭で、やはり溝が廻って、ぽつぽつ家つづきなのです。縦の小路を曲ると宿場の街に出ます。右の方は崩れかかった藁葺の農家が二、三軒あるだけで、あとは遠くまで畠や田圃が続き、処々の畦には下枝をさすられた榛の木が、ひょろひょろと立っています。
なかなか足がお早いので、兵児帯が腰の辺で絶えず動きます。私は長いおかっぱをゆらゆらさせて、離れまいと附いて行きます。木の狭い橋を渡って、土手へお上りになりました。その堤は毎日通う小学校の続きになるので、名高い大橋に対して小橋という、学校の傍の石橋の下になって、細い流が土手下を通っています。私は近くを散歩なさるのかとばかり思って、傍へ寄って、「お兄さん、遠くまでいらっしゃるの」と聞きました。大好きなお兄様ですけれど、何だか遠慮で、あまり話などはしないのでした。それまで何も仰しゃらなかったのが、「いや」と一言だけで、左へむけてお歩きになります。この辺はちょっと家がありますが、また両側に何もない長い長い土手が続くのです。あまり通る人もありません。私は心細くなりました。お母さんにお断りもしないで、不断著のままで外へ出たのを、叱られはすまいかという心配と、穿いているぽっくりという下駄、赤塗の畳付で綺麗な鼻緒がたって、初めは他所ゆきだったのが、古くなってすっかり減ってしまい、庭下駄になっていましたが、昔ですから塗が堅く、赤色もそれほど剥げてはいませんかった。その前鼻緒が弛んで来てその歩きにくいこと。それをお話するにはお兄様の様子が、どうもいつもと違ってつぎほがないので、我慢して指でまむしをこしらえて、とぼとぼ附いて行きました。
田圃の中には幾坪か紅や白の蓮が咲いて美しいのも見えますが、立止りもしませんかった。半道ほども行った頃に、大橋際の野菜市場の辺から、別れた土手と一緒になって、綾瀬の方へ曲ります。その岐路に掛茶屋がありました。「くずもちあり」とした、小さな旗が出ています。土手からすぐに這入られるようになっていても、土手下から普請の時の足場のようにして、高く高く掛出しになっていました。客は誰もおりません。
「休もう。」
お兄様がお上りになったので、私も上りました。煙草を吸っていたお婆さんは立上って、
「いらっしゃいまし。」
私の脱いだ下駄を見て、「お嬢さん、さぞ歩きにくかったでしょう。ちょっと直して上げましょう。」
私は嬉しくて、「どうぞ」とたのんで安心しました。丸太を組んで縄で結えた手摺に寄って眺めますと、曇っていてもかなり遠くまで見えます。田圃は青々と濃い絵の具で塗ったように見え、農夫たちが幾人か、起ったり蹲んだりするのは田草取りなのでしょう。処々に水が光っています。隅田川も見えはすまいかと、昔住んだ土地がなつかしくて見廻しました。綾瀬を越して行くと向島の土手になって、梅若や白髭の辺に出るのです。お兄様はと見返ると、板張に薄縁を敷いたのに、座蒲団を肩にあて、そこらにあった煙草盆から火入れを出し、横にしたのを枕にして、目を閉じて寝ていらっしゃいます。私は目の下に吹井戸のあるのに気がついて、行って見たくてなりません。そっとお兄様の傍へ行って、
「きれいな吹井戸が下にありますが、見て来てもようございますか。」
聞きましたら、目を閉じたまま、「ああ行ってお出」と仰しゃるので、喜びはしましたが、お婆さんが鼻緒を直していますので、履物がありません。
「吹井戸を見たいのだけれど」といいましたら、お婆さんはそこに脱ぎ捨ててある草履をさして、「それを穿いていらっしゃい。滑りますよ」といいます。
足の倍もあるのをはいて、丸太を段にした狭い坂をそろそろ下りて行きます。古い井戸側は半分朽ちて、まっ青な苔が厚くついていて、その水のきれいなこと、溢れる水はちょろちょろ流れて傍の田圃へ這入ります。釣瓶はなくて、木の杓がついていました。胡瓜が二本ほど浮いて動いています。流には目高でしょう。小さな魚がついついと泳いでいます。水すましも浮いています。天気つづきで田にはよく稲が育って、あちこちで蛙がころころ鳴いて、前に長く住んだ向島小梅村の家を思い出しました。いつまでも飽きずにじっとしていましたら、上から「おい、おい」とお呼びになります。「はい」と答えて、急いで上りましたら、
「葛餅が来たよ。お食べ。」
お婆さんの傍にある手桶の水で手を洗い、さて坐って見ますと、竹箸が剥げて気味がわるいので、紙で拭いて戴こうとして、「お兄さんは」と聞きますと、
「おれはいい。それもお食べ」と、お茶を飲んでいらっしゃいます。「まさか」と思わず笑いました。家を出てから初めて笑ったのです。葛餅はそれほどおいしくもありませんでした。
暫くしてから、「そろそろ帰ろうか」と仰しゃるので、「それをお土産にしたらどうでしょう。」
「そんなら、もう少し足して」と、買い足して、経木に包んでくれたのを、ハンケチに包んで持ちました。
下駄は穿きよくなりますし、お兄様は物を仰しゃるし、何だか足も軽くてよい気持でした。帰りは土手の左手遥かに火葬場の煙突が立っていますが、夜でなければ煙は見えません。お兄様の機嫌もよいようなので、