Chapter 1 of 4

Chapter 1

私が始めて秩父の山々から受けた最も強い印象は、其色彩の美しいこと及び其連嶺の長大なることであった。水蒸気の代りに絹針でも包んだような上州名物の涸風が、木の葉色づく十月の半過ぎから雪の白い越後界の山脈を超えて、収穫に忙しい人々の肌を刺すように吹きすさむ日が続くと、冬枯の色は早くも樹々の梢に上って、日蔭には霜柱が白く、咽ぶような幽韻な音を間遠に送る大和スズの声を名残として、大地は漸く静寂の眠に就こうとする。此頃からして秩父の群山は其翠緑の衣を脱ぎ捨てて、最も目覚ましい絢爛の粧を凝らすのである。「秩父山が見えて来た」里人の口から出る此の無造作の一言の中に、どれだけの深い意味が含まれているかは、斯ういう人達の日常の言葉を注意して味わっている人には、容易に洞察することが出来ようと思う。

実に秩父の山々は、私の生れ故郷東上州から眺めては、初冬から一月下旬にかけて素晴らしく豊富な色彩を現わす。そして其色には深い深い神秘が包まれている。美しいと共に崇高である。然しそれは北アルプスの雪の山が、山それ自身が高大である為の崇高ではない。或は杉並木の奥からほの見ゆる丹塗りの御社の「神」を予想した為の崇高でもない。全く山の色の深さのみから生ずる崇高である。山に雪が深くなるに連れて此の豊富な色彩は次第に其量を減じて来る。二月から三月にかけて白雪山谷を埋めた頃が、最も色彩の乏しい時であるのは云う迄もない。

十月は麦蒔の畑打ちに忙しい。男も女も皆仕事に出る。頬冠りの男の中に交って赤い襷の女も一緒に礫を打っている。振り上げる鍬の刃先がキラリキラリと光る向うには、秩父の山々が美しく聳えている。昼に弁当とお茶を持って其処に行くと、皆が畔に腰を掛けて食事を始める。立てて置いた鍬の柄に赤蜻蛉が止って、その尻っぽの先が高い山の巓とすれすれになっている。何か羽虫を見付るとすういと飛んで行く、そしてスミスの飛行よりももっと巧妙に一つくるりと宙返りを打って復たすういと戻って来る。秩父山は依然としてこの小さな活動の舞台に美しい背景を与えて、夫が日毎に繰り返される間に、山の色の深い秘密というようなものが、子供心の何処かの隅に朧げながらも印象の痕を残し止めて、何かの機会を捉えては急激に鮮明の度を増して行くらしい。

十二月に入ると薪取りや木の葉掻きが始まる。寒い赤城颪に吹かれ冷い朝霜を踏んで凍えた体を、焚火に暖めてからゆっくり仕事に取懸る。私は家の男達に連れられて林に行くのが楽しみであった。人並に研ぎすました大鎌を腰にさして兎や雉子を追い出しては遊んでいる。小松林の上や楢林の木の間に濃い鮮な秩父山の姿が浮き出したり織り込まれたりするのを見ると、大きな木の上に登って邪魔な枝を叩き切りなどして訳もなく喜んでいる。私の目と高い山とを維ぐ糸の上を渡り鳥の群れが往ったり来たりする。時には一羽の鷹が不図私の魂をのせて紫紺色の透明な肌を持った山の方へ矢のように飛んで行くことなどもあった。昼餉の時には茜さしたさるとりいばらの滑かな茎で箸を造る慣わしであるが、何処か山の色に似た懐しい色合を持っているのが気に入った。七つ下りになると人より先に帰って来る。此頃の晴れた日の夕暮に途々望まれる秩父山の色ほど美しい色は、どの山にも見られない。鬼が棲んでいるという浅間山、天狗が出るという赤城山、袈裟丸、奥白根、男体山、さては岩菅から上越国境の山々、皆鮮かに望まれるが一として秩父山に似た色彩を持っている山は無かった。殊に日が落ちてから三十分間許の間が最も美しい。入日の名残の光が山々からふっつり消えると、秩父山は輪廓のはっきりした透明な紫紺色の雲のようになる。そして奥の方からは後からも後からも異った色の雲が湧き出して、それが一つに溶け合って、深みのある美しい崇高な姿を、冴えた華やかな夕暮の空に静に横たえている。

この眺めは門の前に立っていても二階に座っていても見られた。然し草鞋をはいて遠い林に行き、焚火で煮たお茶で昼飯をすまし、一日遊び暮して家に帰る途すがら眺めるのに比べて、どちらが感興が深く印象が強いかは云うに及ばないことである。

此時頃私の脳底に烙き付けられた秩父山の美しい色彩の印象は、年と共に鮮かさを加えて、其後冬休みに帰省する毎に鎌を腰にさして林の中を一日ほづき歩いては帰りに山を見るのが楽しみの一となった。其当時名も知らなかった山の大部分は既に踏破し、その山々に包まれた渓谷の秘密も少しは窺い得た今日となっても、そのかみ謎の山から受けた強い色彩の印象は少しも衰えないのみか、今尚お昨の如く懐しさに変りはない。

夏になるとこれも上州名物の一つである大夕立が、七日も続いて迅雷豪雨を飛ばすのは珍らしくもない。特に私の地方では俗に「御荷鉾の三束雨」と唱えて、恐ろしく雨足の早い大夕立の起ることが年に四、五回はある。雲が起って雷鳴を聞いてから、刈り取った麦を三把束ねないうちに雨が落ちて来るというので、古くから斯う言いなされていた。この夕立が北に向わずして、まっしぐらに東の方へ驀進して行く光景を眺めていると秩父山脈の長大なることが今更のように強く印象されるのである。

霧の深い朝は午後に夕立の起ることが多い。其霧が西北の風に吹かれて、日光が洩れて来るようになると時として白い虹の立つことがある。そんな時には屹度大夕立の起る前兆だといわれている。日が高くなるに連れて空は名残なく晴れ渡るが、積雲の塊は早くも山の端に屯している。午後になると夫がそろそろ動き出す。遠雷の響に昼寝の夢から覚めて、門の前に立って四方を見渡すと、日光、赤城、榛名、御荷鉾の各方面に夕立が始まっている。中にも御荷鉾山のあたりのものは殊に勢が激しいと見えて、銅色をした雲の峰がむくむく湧き上る後ろでは、電光が頻りに閃いて、遠雷の音が空気よりも大地を伝って響いて来る。さては来るなと思って見ている中に、長大なる巻層雲の先駆は真綿を繰り出すようにどんどん東の方へ延びて行く。嵐を孕み霹靂を載せた真黒な撥墨の雲が蓬勃として自ら止まるにも止まれないといった勢で、噴泉の如く下から湧き上っては横に崩れる。それが次第に白味を帯びて来ると、初めて電光の火柱が地上に向って頻りに突立つ。ドス黒い色をした低い雲が四方から何時ともなく湧き出して其方へ駆けて行く。忽ち水晶簾を捲き下ろしたような雨脚が、此時まで頭の上で騒乱している雲の運動を余所に湛然と控えていた秩父山の濃藍色の肌に白く立ったと見る間に、谷を埋め峰を越えて、連嶺の半にさし懸った頃には、後の方は早くも碧空を顕わして、奇峭な両神山の姿がちぎれちぎれの断雲の間から望まれる様になる。この大夕立が秩父山を通り過ぎて、東の地平線上に銀の縁りを着けたような一塊の雲となって、東京の空あたりに余勢を逞しうするのは、三時間も経った後である。私は夕立が秩父山を通り過ぎるのを見る毎に、其山の長大なることを嘆賞せずにはいられなかった。

東上州は東京湾の中等潮位から僅に五十米の高さを有するに過ぎない平野ではあるが、試に路傍に立って南方武蔵野の平原に眼を放つと、低い地平線上には遥として展望を遮ぎる何物もない。其視界の尽くる所に軽い一抹の雲烟のようなものがふわりと浮んでいる。此の夢のような夫とも分らない薄い藍色の山は、恐らく秩父入間の郡境に亘る飯盛峠の附近であろうと思う。遠い夢の国から浮き上った微妙な線は淡い幻の国に引き返して、少しの間現に顕れて来ないが、やがて水面に浮ぶ大魚の背の如くに再びゆらりと姿を顕わすと、根に籠る若草の力が茎となり葉となって伸びて行くように、若しくは又苔の下に咽んでいた清水の滴りが岩間に走り出て、忽ち潺湲の響を立てながら一道の迅流となって駆け下りて行くように、後から後からと次第に力が加わって大空の一点を指して或る高さまで達すると、茲に始めて長短曲直各種の線が離合集散の妙を尽して、一連の大山脈即ち東は雲取山から西は三宝山に至る長大なる連嶺を天半に聳立せしむるのである。そして終には彼の両神山の奇峭を掉尾に振い起して、この大山脈を竜頭蛇尾に終らしめない所に、自然の用意の周到なることが窺われる。秩父山は実に上州方面より望む可く造られたものであって、其色彩の美、其連嶺の長大は、他の如何なる地点より眺めても、到底此方面に於けるが如き充分なる印象を享受することは不可能であろう。

私は早くから日夕其姿に接して、強く脳底に焼き付けられた此等の印象を齎らして、秩父の山や谷に分け入ったのである。そして実地を蹈んで見て、此等の印象を裏切りされなかった許りでなく、長大に加うるに更に深奥という、遠く望んだだけでは得られなかった新らしい一つの印象を脳底に焼き付けたことを喜んでいる。

曾て「秩父の奥山」なる記事を書いた時、私は今日の秩父山が、渓流の澄と、森林の蓊鬱と景趣の幽邃とに於て、其権威の絶頂にあるものであると曰うた。連脈の長大と深奥とは、自然の結果として此三者となりて現れ、此三者は相俟って色彩の美を煥発する要素であることは、別に多言するまでもない。

更に地質の上からいうと、秩父の奥山の主脈は大略之を四つに分つことが出来よう。第一は西の小川山から甲武信岳の附近に至る金峰、奥仙丈山塊を含むもの。第二は甲武信岳附近から雁坂峠に至る甲武信山塊、破風、雁坂山を含むもの。第三は雁坂峠から将監峠に至る古礼山、唐松尾の連脈を含むもの。第四は将監峠以東白岩山附近に至る竜バミ、大洞、雲取の諸山を含むものである。第一は全部花崗岩、第二は花崗岩と古生層と相半し、第三は山腹以下花崗岩(石英閃緑岩)にして其以上に古生層を戴けるもの、第四は全部古生層から成っている。此等を源頭とせる各渓谷の特長、相互の比較等、挙げ来れば面白い幾多の問題が存しているが、今一々之を論じている訳にゆかぬ。若し秩父山を旅行したいと思われる人達が、私が分けたように四つに区切りして、一つ宛山や谷を探られたならば、必ず面白い結果が得られるに相違ないと信ずる。

二、三年このかた、新聞などにも折々秩父の紀行文が見られるようになった。そして見出しには必ず奥秩父なる文字を用いているが、其文を読むと、大抵三峰あたりより奥へは行っていない。栃本や中津川迄蹈み込んだ人さえ甚だ稀であるようだ。尤も山登りが主眼でない所為もあろうが、雁坂越え、十文字越え、或は中津川を遡って三国越えを試むるか、又は少くとも奥秩父と云うからには、三峰から雲取山さもなくば将監峠を経て、多摩川の上流に達する位の旅行をして貰いたいと思うのである。

然しこれは只奥秩父を旅行せんとする人に対しての希望であるに止っていることは言う迄もない。奥秩父の登山を目的とする人は、武甲山や三峰に登った位では、決して秩父の山を大観したとはいえない。是非とも西は小川山、金峰山から東は雲取、白岩の附近に至る間の、甲信武甲の国境山脈に聳立している山々に登られんことを希望する。都を離るること三十里に足らず、四、五日の手軽な旅行で、可なり深い山の旅らしい感興を齎し帰ることの出来る誂向きの所というては、先ず秩父を第一に推すことは、誰も異存の無い所であろうと思う。晩近登山の気風の勃興と共に、都の若い人達が奥秩父の山々に登られるようになったのは、大に意を強うするに足るものがある。南北アルプスの諸山を縦走する場合のような大袈裟な登山では、人夫の雇用其他の準備で多くの費用を要するが、秩父では殆んど人夫などの必要は無いというても好い位である。其上四月下旬から十二月迄の間なら、何時何処へでも自由に登山することが出来る。そして山の高さから言えば、二千米から二千六百米に及んでいる。雪の多い時が望みなら、四月中旬以後五月上旬迄に甲武信、金峰の連脈に登れば、十町や二十町の間四、五尺の雪を蹈むのは普通である。唐松や白樺の若葉が見たいと思えば、五月の梓山、川端下の戦場ヶ原がよい。紅葉は十月の梓山、川端下、黒平、金山。石楠花は殊に秩父奥山の名物である。瀑布は入川谷の支流荒川の権太瀑、真ノ沢に木賊瀑が懸っている。花崗岩の侵蝕谷には笛吹川の上流東沢、西沢の奇峡がある。花崗岩と古生層との侵蝕谷には入川谷、滝川谷がある。入川谷の幽邃と険怪、東沢、西沢の壮大と瑰美、共に秩父の沢の中では第一に位するものである。どう考えても奥秩父の山や谷は、都の山岳宗徒にとりては、殆ど天与とも言う可き巡礼の聖壇であり、活躍の舞台である。之に詣で之に上ることをせずして、空しく遠方から眺めているだけでは誠に勿体ない。私の此文が若し幸にして何等かの参考ともなれば本懐の至りである。

〔註〕茲に附記して置きたいことは、私等は初めて甲武信岳に登る時案内者を同伴しただけで、其他は単独若しくは二、三人で案内も人夫も雇わずに遂行して、幸に無事に済んでいるが、最近秩父の山や谷を探る度数が重なるに連れて、益其奥深いのに驚嘆している。好晴の日は言わずもがな、若し運悪く途中で霧か雲にでも捲かれると、思いの外の大困難に遭遇しないとも限らない。若し案内無しで登られるような場合には、天候は勿論、其辺の用意は尤も肝要である。

●梓山の戦場ヶ原と蟻ヶ峠

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