1
本稿は昭和十一年十一月十五日霧の旅会で催した集会の席上に於て述べたもので、謂わば私の物ずきな地名穿鑿の際にふと思い付いた考に過ぎないのであるが、山名や地名などを考証する場合、時としてはこうした方面も考慮に入れて然る可きではあるまいかと思うので、本誌に掲載して読者の一粲を博することにした、何かの御参考ともなれば幸である。
『甲斐国志』の提要の部を見ると、郡名の条に
都留郡(和名抄云二豆留一。残簡風土記云或連葛。云々。)連葛トハ富士ノ山足北ヘ長ク延テ綿連如二蔓葛一然リ、方言ニ山の尾づる尾さきト云、後人代ルニ以二鶴字一為二嘉名一(本郡ニ有二桂川一。方言桂葛ノ訓相混ジ遂ニ転二文字一他ニモ此例多シ。)
とある。この「残簡風土記」というのは、和銅六年の制によりて編纂された「古風土記」の残簡ではなく、「日本総国風土記」なるものの残簡であると称せられるもので、全く後人の仮託に成り、多く信を措き難いものであることは、識者の既に論証しているところであるが、『甲斐国志』の編者は、この蔓葛を長く北へ延びた富士の山脚を指して云うたものと解釈して、これを都留なる郡名の起りであるとし、後になって嘉名の鶴の字が代用されたことは、恰も桂川の桂の字が蔓に縁のある葛であったのに、同訓相混じてこれも嘉名の桂の字が転用されるに至ったのと同様であるというのである。
然し甲斐の国に残されたる「古風土記」の唯一の逸文(後に出す)に拠れば、明に鶴郡となっているのであるから、後人が嘉名の鶴の字に代えたのではなく、和銅以前から既に鶴の字が用いられていたのである、それが「風土記」を編纂する際に
畿内七道諸国郡郷名着二好字一。
又は
凡諸国部内(式の民部をいう)郡里等名並用二二字一、必取二嘉名一。
とある令に従って二字を用いる必要上、都留を好字として之を採用することになったのであろう。さすれば「古風土記」の編纂者は、当然都留の二字を用いなければならない筈であるのに、依然として鶴郡とあるのは、恐らく朝命によるものであるとはいえ、「風土記」は性質上後世の書上げに似たものであるから、従来の慣習のままに鶴の字を使用したものらしい。それで詠歌の場合などには、後世迄常に鶴の意に用いられていたので、嘉名の鶴の字が蔓葛に代用されたもののように『甲斐国志』の編者は信じたものと想われる。其等の歌は『夫木集』や『甲斐国志』に載っている。其中の一首で『夫木集』にある権大納言長家の
中宮御歌合翫レ菊といふことを
雲の上にきくほり植てかひのくに
つるのこほりを移してそみる
という歌には
此歌註云、風土記に甲斐国鶴郡有二菊花山一、流水洗レ菊、飲二其水一人寿如レ鶴云々。
とあって、これこそまさしく鶴郡の由来を説明したらしい「古風土記」の逸文であるから、鶴の字が古くから用いられていたことが察知されるのである。其他の
かひのくににまかり申に忠岑君かためいのちかひにそ我はゆく
つるてふこほり千代をうるなり
題不レ知八条院六条よろつ代を君にゆつらむためにこそ
つるのこほりの早苗とるらめ
甲斐へまかりける人に遣はしける伊勢君か代はつるのこほりにあえてきね
さためなき世のうたかひもなく
の如き、皆これに依拠して鶴の意に用いられている。
『甲斐国志』はまた
里人云、古ヘヨリ本郡ニ白鶴二羽アリ、富士ノ麓吉田、明見、忍草等、水辺ノ地ヲ求メ常ニ遊ベリ、本ハ三羽ナリ、元禄十一戊寅三月一鶴死ス、里人公庁ニ訴ヘ、令シテ下吉田ノ北原ニ埋メ、塚ヲ築キ号二鶴塚一ト、今尚存セリ、蓋郡名ノ起ル所ナリト云。
といえる俗伝を古蹟の都留郡の部に掲げているが、尚お「残簡風土記」の細註に郡留或は連葛とあるに拘泥して、
連葛ハ藤蔓ノ如シ、富士山ノ尾サキ長ク連リタルヲ云、皆つるト訓スヘシ。宗祗ノ旅日記ニ、日坂ニテ富士ヲ望メハ、南ハ険シク北ヘ長ク足ヲ引テ伏屋ノ形ニ似タリ、足柄嶺ニテ見ルモ同レ之キヨシ記セリ、山ハ伏覆ノ義ナレバ、不尽不時等ノ仮名ヲ用フルモ皆伏ス意ニテ、其訓藤蔓ニ通ヒ、ふしトモつるトモ云ヘリ、云々。
と繰り返して蔓葛説を支持している。蜀山人の『一話一言』にある「鶴郡鶴羽記」と題する文は
鶴郡属二峡中一 乃在二富岳之北一、当初人王第七世、孝霊帝七十二年、秦始皇遣二徐福一、発二童男女数十人一、入レ海求レ仙、其処レ謂蓬莱者蓋吾富士岳是也。徐福既至、而知二秦之将乱一也 留而不レ帰、遂死二于此一矣。後有二三鶴一 蓋福等魂之所レ化云、其鶴常在二於郡一、故名焉。
とし、三羽の鶴のうち一羽は、元禄十一年三月二十九日に死んだので、吏員の検視を経て肉と翼とは東都に献じ、骨は下吉田村の福源寺に葬ったといい、『甲斐国志』の所伝と稍異っている。残る二羽に就ては『国志』に何の記載もない。「鶴羽記」には、寛政六年三月に二羽とも吉田村に下りて、嘴で羽を抜き、翩々として白蓮の墜落するに似ているのを見て、犬が吠え人が集ったので、翼を聯ねて天に沖し去り、遂に其所在を失った、そして翌年正月に等々力村の万福寺の住僧がその羽の一を得て之を珍とし、竜鱗菴義端に依頼して之が記を作らしめたと述べてある。特筆に値する記事ではないが次手だから紹介したに過ぎない。唯生類憐愍のやかましい元禄時代に、死鶴の骨を埋葬したことは首肯される。
菊花山については『甲斐国志』は
一、菊花山 大月駒橋両村ノ南ニアリ、或ハ駒橋村光照寺後ノ山腹ヨリ麗水湧出、末ハ寺ノ境内ニ注ギ、朝夕是ヲ汲、其山ヲ菊花山ト云トゾ。或云、大月ノ分界ニ山上ニ登ルコト六町許ニシテ、危岩峨々トシテ峙立セル所アリ、之ヲ砕ケバ菊紋アリ、此処菊花山ナリトモ云、何レガ正説ナルヤ分明ナラズ、大月、駒橋元一村ナレバ、山モ連峰ニテ分界ナシ、然レバ都テ此南山ヲ菊花山ト云シナルベシ。
と曰い、前掲の長家の歌と其註とを載せて、
今残簡風土記ニ無二此文一、残篇ノ脱落ナルベシ、光照寺ノ後山麗水湧出ノ地能ク相適ヘリ、唯無二菊花一耳。
と説き、光照寺の後山を之に擬している、真偽もとより知るに由もないが、古伝の失われた後世に於て、強いて其所在を求めようとすると附会に陥る弊を免がれ得ぬであろう。ただし『延喜式』を見ると、典薬寮の諸国進年料雑薬の条に、甲斐国十二種黄菊花十両と載せてある。尤も下野、若狭、近江、阿波、讃岐の諸国からも黄菊花を貢進しているが、ともあれ甲斐と菊花とは縁がある。この黄菊花なるものは何であるか訓がないので不明である。同書附録の「和名考異」に拠れば
黄菊花 諸本不レ注二和名一。案二輔仁和名一、加波良於波伎(医心方同。)順抄、加波良与毛木。医心方、又伎久。字鏡、辛与毛支。康頼和名和名无。
とあり、即ち『本草和名』及び『医心方』に従えばカハラオハギ、『和名抄』はカハラヨモギ、『新撰字鏡』はカラヨモギである。狩谷斎は『箋注和名抄』にオハギはヨメナであると注しているが、是等は原書を見れば孰れも菊の和名であって、特に黄菊花に就ていえるものではないから、野生の菊花植物であることは確でも、実物は何であるかを知り難いので、専門家の研究に待つことにする。勿論菊花山の伝説には、南陽県の菊水の故事が多分に取り入れてあることは疑いない。
余談はさて措き、都留郡は果して蔓葛から来たものであるか、或は鶴からであるか、それは読者の判断に任せるとして、私の考える所を述べるならば、これは韓語の野を意味するツルから来たものと思うのである。それには順序として都留郡の百済人に就て一言する必要があるので、暫く煩を忍びて以下記する所を読んで頂きたい。
『日本書紀』を見ると、天智天皇の五年冬に百済の男女二千余人を東国に居らしむとある、唯東国とあるのみで国名は挙げてないから、甲斐が其中に含まれていたか否かは明かでない。その明かに甲斐国とあるものは、「持統天皇紀」に
二年五月戊午ノ朔乙丑、百済ノ敬須徳那利ヲ以テ甲斐ノ国ニ移ス。
とあるものが最初で、次は『続日本紀』の桓武天皇の延暦十八年十二月五日に
甲斐国人止弥若、久信耳鷹長等壱百九十人言フ、己等ノ先祖ハ元ト是百済人也、云々。
とあるものであって、是等に拠りて百済人が甲斐に居住していたことを知るには充分であろう。
然らば甲斐の何処に居を占めていたのであろうか、高麗人が居た為に地名となった巨摩郡はあるが、百済人が居た為に地名となった百済郡というのがない。『甲斐国志』は巨摩は駒に通じ、古く牧があり良駒を産した為の名としてあるが、高麗人が甲斐に居たことは国史に明文があるから、これは河内国に百済郷や巨摩郷があるのと同様に、高麗人に基づく称呼であると見る方が適切であるように思われる。
百済人の居住地であることを示す百済郡の例は、和泉国にはあるが甲斐にはそれがないので、別に他の方面から調べなければならない、ところが幸に淳仁天皇の天平宝字五年三月十五日に
百済人伊志麻呂、姓ヲ福地造ト賜フ、
という記事がある、これは四年前の孝謙天皇の天平勝宝九年(即ち宝字元年)四月四日に、
其高麗、百済、新羅人等、久シク聖化ヲ慕ヒ、我俗ニ来リ附ス、志姓ヲ給ハランコトヲ願ハバ、悉ク之ヲ聴許セヨ、其戸籍ノ記、姓及ビ族字无キハ、理ニ於テ穏ナラズ、宜シク改正ヲ為セ。
との勅があったので、上申して姓を賜ったのであろう。上代に於ける三韓其他の帰化人は、一般に文化が進んでいたから、我国が彼地と関係の深かった頃は大いに尊敬され、その或者は朝廷にも重用されていたが、天智天皇の御代に任那の日本府を引払って以来、次第に交渉もうすれ、遂には帰化人として賤しめられるようになり、改姓を希望する者が多くなったので、この詔勅が下されたのである。伊志麻呂と同日に高麗人後部王安成等二人も高里連を賜わり、十八年後の宝亀十年三月十七日には、高麗朝臣福信が高倉の姓を賜わった。福信は武州高麗郡の人で、従三位に叙せられている。更に二十年後の延暦十八年十二月五日には、甲斐の百済人止弥若が石川、久信耳鷹長等が広石野の姓を賜わるなど、此等の時代には帰化人の改姓が盛に行われた。
伊志麻呂が賜わった福地造は、福地の統治者又は支配者をさしていう姓であって、また職名とも見られ、実際に於ては其土地人民を領有し、且つ之を世襲することさえ稀ではない、造は御臣の意である。
さてその福地の所在であるが、『和名抄』を調べて見るとフクチと云う地名は全国に二ヶ所あるのみで、一は信濃国伊那郡の福智郷、他は甲斐国都留郡の福地郷であって、百済人の多かった畿内地方には見当らないのである。そして其当時信濃国に百済人が居たか否かは明でないが、甲斐には前述の如く百済人が多かったのであるから、伊志麻呂に関係ある福地の所在は即ち都留郡であって、甲州の百済人はすべて此郡内に居住していたものと断定しても誤りはあるまいと信ずるのである。
都留郡の福地郷は、諸書皆今の鳥沢を中心とした土地であることに一致している。『甲斐国志』には
福地郷 按ルニ鳥沢辺左右ノ村落是福地郷ナリ、上鳥沢駅ノ南ニ一孤丘アリ、下ニ小祠ヲ置キ福地権現ト称ス、蓋シ郷中鎮守ノ神祠ナルベシ、里人今七福神ノ祠トシ福寿権現ト唱フ。寛文検地帳ニハ、此社ノ跡辺皆仮名ニテフクチト記タルハ誤ナルコト知ヌベシ。又隣村縄ノ上小松明神文永癸酉(十年)年十二月十五日ノ棟札ニ、都留郡福地郷之上村トアリ、又鳥沢ノ南桂川ヲ隔テ藤崎村アリ、古検地帳ニ伏地埼、伏崎トモ記セリ、是又福地崎ナルベシ。駿河風土記ニ富士山ノ異字ヲ記シテ福智、不詩トモ見ユ、共ニフヂト訓スベシ。云云。
とありて、寛文の頃まで存続していたことは確かであろう。『国志』は検地帳にフクチと記したるは誤なること知ぬべしと書けるも、其理由は挙げてない。『駿河風土記』は所謂「総国風土記」と称するものの一で、信を措き難いものなることは前に記した通りである。唯『常陸風土記』に駿河国福慈岳とあるものは、福慈と書いてフジと読ませたらしい唯一の例であるが(これに就ては「二、三の山名について」の富士山の項参照のこと)、之を以て都留郡福地郷の『和名抄』(高山寺本訓布久知。)以来の古訓を誤りとすることは出来ぬのみならず、藤崎は明に伏地崎の転訛であることは言う迄もないことであろう。『東鑑』建暦三年(十二月六日建保と改元)五月七日の条にも、勲功の賞として鎌田兵衛尉に甲斐国福地を給うことが載せてある。其名がいつ頃から廃れたかは知ることを得ない。明治七年十二月に全国に於ける町村の合併が行われた際、富士北麓の松山、新屋、上吉田の三村を合せて福地村と改称したことは、甚だしく見当違いの場所へ持って行ったものであるが、福地と富士とを同一視した『国志』の編者の顰に倣ったものででもあろうか、しかも尚お古訓を存してフクチと読ませてある。