誘拐
今年の夏は近年にない暑さが続きましたが、九月半ばになると、さすがに秋風が立ちはじめて、朝夕はうすら寒いくらいの気候となりました。わが少年科学探偵塚原俊夫君は、八月に胃腸を壊してからとかく健康がすぐれませんでしたが、秋になってからはすっかり回復して元気すこぶる旺盛、時々、私に向かって、
「兄さん、何かこうハラハラするような冒険はないかなあ。僕は近頃腕が鳴って仕様がない」
と、皮肉の嘆をもらすのでした。
「さあ、こればかりはどうも仕様がないねえ。人殺しや強盗など、めったにない方が世の中は安全だからねえ」
「それはそうだけれど、僕にとっては、安全な世の中なんて、平凡でつまらない。何か面白い事件でも起こってくれなければ、それこそまた、病気に罹りそうだ」
およそ一ヶ月あまり、これという大事件の依頼もなかったので、俊夫君の失望するのも無理はありません。
「だが事件がないからといって、こちらでこしらえるわけにはいかん。まあじっと辛抱して待つより他はないねえ」
私はこう言って慰めるより他はありませんでした。
ある日の午前、私たちが、いつものような会話を繰り返していると、おもてに自動車の止まる音がして、次いで私たちの事務室の扉をはげしく叩く人がありました。いつも来客の時は私が迎えに出るのでしたが、その日は俊夫君が飛びだしてゆきました。
来訪者は四十格好の、洋服を着て口髭を生やした立派な紳士でした。何か心配事があると見え、顔色が青ざめて見えました。俊夫君は丁寧に招じ入れて椅子を差しだし、私を紹介してから、しずかに来意を尋ねました。
「私は本郷東片町に住む富田重雄というものでして、××銀行の重役を致しております」
と言いながら名刺を出して俊夫君に与え、
「昨日、家内に心配事ができましたについて、そのご相談に来ました」
と、品のある言葉づかいで紳士は語りました。
「心配事とはどんなことですか」
と、俊夫君は紳士の顔をじっと見つめながら尋ねました。
「今年七歳になる長男が、何者にか誘拐されたのです」
「誘拐」と聞くなり、俊夫君は、チラと私の顔を眺めました。その眼には、
「兄さん、待ちこがれていた事件がいよいよやってきたよ。嬉しいじゃないか」
という意味が明らかにあらわれておりました。
しかし、俊夫君は、少しも顔色を変えないで、
「どうか、その顛末をお話しください」
と、いたって平静な言葉で申しました。
紳士は語りました。
「この事件をお話しする前に、一応、私の家庭の事情を簡単に申しあげます。昨日誘拐されました長男の豊は、先妻との間にできた子でございまして、豊の母は、昨年の四月に病死しました。それ以後私はずっと独り身で暮らしてきましたが、ゆえあって、先月後妻を迎えたのです。
常子というのが後妻の名でして、卑しい身分のものですけれど、――ちょっとここではその身分を申しかねますが、――とにかく複雑な事情があって、常子に面倒を見てもらうことになったのです。
しかし、常子は私や豊を非常に親切にしてくれますので、私はたいへん喜んでおりました。ところが、豊はどういうものか常子を嫌って、あまり彼女のそばへは近寄りませんでした。それですから、豊は、私の家に古くから仕えている、女中のお崎という老婆がいっさい世話をしておりました。
昨日、お崎は豊を連れて、近所のM神社の境内へ遊びにゆきました。豊は沢山の子供にまじって秋の日を浴びながら、嬉しそうに遊びまわっておりましたので、お崎は別に気にも留めず、拝殿に腰をかけて、毛糸の編み物をしておりました。
ところが、だんだん日が西に傾いたので、家へ帰ろうと思って、豊を捜したところ、豊の姿が見えません。びっくりして、子供たちに様子を尋ねると、三十分ばかり前に、見知らぬおじさんが来て、豊を連れていったというので、転ぶように家に駆けつけてみましたが、もとより豊のいるはずはありません。すなわち豊は誘拐されてしまったのです」
ここで紳士は一息ついて悲しそうな顔をしました。俊夫君は、化石したように、その話に聞き入りました。
「そこで家内じゅう大騒ぎになり、妻はあわてて私の行き先を電話で捜したのですが、あいにく私は用事があって他家を訪問しておりましたので、六時半頃に家に着いて、はじめて事情を知ったのでした。
で、私は妻に向かって、警察へ電話をかけたのかと聞きますと、妻は、事件が事件ですから、私の帰るのを待っていたと申しました。そこで私は一刻も猶予ならぬと思い、自ら電話室へ入ろうとしますと、そのとき女中の一人が駆けてきて、たったいま妙な男がこの手紙を投げいれてゆきましたと申しました。ハッと思って、その手紙を開いて見ると、果たしてそれは脅迫状でした」
こう言って紳士はポケットから、皺になった封書を取りだしました。それは褐色の事務用の封筒でして、表面には何とも書いてありませんでした。紳士は中からレター・ペーパーを取りだして、開いて読みました。
「豊君は一時預からせてもらう。明晩十時に本郷区A町S橋の袂にある石垣の下から五ツ目の石の右隣にある穴へ金三万円を紙に包んで入れておけ、その代わりに豊君を返してやる。もし警察へ告げたならば、直ちに豊君の生命を貰うから、そう思え。拳骨団」
富田氏はさらに言葉を続けました。
「この脅迫状を読んでも、私はかまわずに警察へ電話をかけようとしますと、そばにいた妻があわてて遮りました。そうして、豊ちゃんと三万円の金とかえるのなら、安いものだ。警察へ告げてもしものことがあったらどうなさる、あなたは豊ちゃんが可愛くはありませんかとしきりに申しますので、とにかく、妻の言葉に従って、警察へ告げることは見合わせました。そうして、私は不安の一夜を過ごしました。がどうも心が落ちつかぬので、こうして今、こちらへご相談に来たのです」
「こちらへおいでになることは、奥さんもご承知ですか」
と、俊夫君は尋ねました。
「いいえ、妻がまた止めるといけないと思って内緒で来ました」
「昨日、坊ちゃんを誘拐していったのはどんな男でしたか」
「子供たちの言うことですから、よく分かりませんが、何でも鳥打ち帽をかぶって洋服を着た相当の年輩の男だったそうです」
「この手紙を放り込んでいった男の人相はどんなでしたか」
「女中の言うところによりますと、暗かったからよく分からぬが、まだ若い男だったということです」
「すると坊ちゃんを誘拐した男と、手紙を放り込んでいった男は別人かもしれませんね」
「たぶん別人でしょう」
「お崎というお婆さんは信用のできる人ですか」
「むろん正直な女で、長年使っていますからよく分かっております。かわいそうに、お崎はゆうべ寝ずに心配しておりました」
俊夫君は脅迫状を取りあげて、そこに書かれている文句を見つめました。
「この筆跡はわざと擬筆が使ってありますが、これに見覚えはありませんか」
「ありません」
「今まで、こうした脅迫状を受け取られたことはありますか」
「ありません」
俊夫君はしばらく黙って考えておりましたが、やがて重々しく言いました。
「あなたは坊ちゃんの生命が助かるなら三万円出してもよろしいですか」
「無論です。けれど、三万円出しても果たして豊は帰ってくるでしょうか」
「金さえ渡せば返してくれると思います。ですから、今晩までに三万円を現金でこしらえておいてください。今晩九時にお宅へ伺ってその金を受けとり、僕が指定の穴のところまで持ってゆきます。そうして坊ちゃんを連れ戻してきます」
富田氏は俊夫君のこの自信のある言葉を聞いて、安心したような顔をして再会を期しつつ出てゆきました。
「俊夫君、本当に君、豊さんを取り戻せると思うかい?」
と、紳士が去ってから私は不安げに尋ねました。
「分からぬよ」
「え? だって君、今、いかにも取り戻せるように言ったじゃないか」
「そりゃ君、お父さんを安心させるためさ」
「で、君は三万円を持って悪漢に相手になりにゆくつもりか」
「そうよ、兄さんと一緒なら何でもないさ」
「すると、君はその悪漢を見のがしてやるつもりか」
「いいや、捕まえてやる」
「どうやって?」
「三万円渡しておいて、安心させてから捕まえるんだ」
「もうその計画は立っているかい?」
「いやまだ、これから晩までに考えるんだ」
それから俊夫君は夕方まで実験室へ入って何事をか考えておりました。
夕食を済ますと間もなく、意外にも富田家の自動車が私たちを迎えにきました。
「拳骨団から、時間を変更してきましたから、これからすぐ来てくださるようにと主人から命令がありました」
と運転手は語りました。
私たちはさっそく用意をしました。街へ出るなり、気の早い俊夫君は、自動車に飛び乗りました。私は五六歩あとから従いました。
すると、意外にも自動車は、俊夫君が乗るなり、すぐ駆けだそうとしましたので、私は大声をあげて、「まだまだ」と叫んで追いかけようとしました。と、そのとき遅く私は後頭部にはげしい一撃を受けて、そのまま気絶してしまいました。