Chapter 1 of 8

木曜會

漱石先生の面會日は毎週木曜日だときまつてゐた。木曜の晩には、きまつて大勢の弟子が集まつた。我我はこれを木曜會と名づけて、その常連をもつて任じてゐた。その木曜會の歴史のやうなものを、ここに書いて見ようと思ふ。

鈴木三重吉によると、先生に面會日をきめさせたのは、三重吉だつたのださうである。先生が訪問客が多くて困ると言つてゐたので、それなら面會日をおきめなさい、就いては土曜・日曜は自分の爲にとつて置いた方がいい、ウィーク・デーで先生の割にひまな日はいつだと訊いたら、木曜日だといふことだつたので、面會日は木曜日の午後三時からといふことにきめたのだといふ。さう言へば明治三十九年(一九〇六年)十月七日(日)附のハガキで、先生は方方に今後面會日を木曜の午後三時からといふことにきめた旨の、通知を出してゐる。この通知を受けた者は、高濱虚子・寺田寅彦・野間眞綱・野村傳四などである。虚子宛のハガキには、「小生來客に食傷して木曜の午後三時からを面會日と定め候。妙な連中が落ち合ふ事と存候。ちと景氣を見に御出被下度候」とある。

かうして先生の所の木曜會は、明治三十九年十月十一日をもつて始められた。その翌日、即ち十月十二日の夜、先生は高濱虚子に宛てて「拜啓昨日は失敬……今度の木曜にも入らつしやいな。四方太も來るかも知れない。小生元來のん氣屋にて大勢寄つて勝手な熱を吹いてるのを聞くのが大好物です。/……今日も三人來ました。然し玄關の張札を見て草々歸ります。甚だ結構です」と書いてゐる。「張札」とあるのは、赤唐紙の詩箋に、面會日は木曜の午後三時以後といふ意味のことが書かれて、玄關の格子の右上に貼りつけられてゐたからである。

私は第一囘の木曜會には出席しなかつたやうに思ふ。と言つて私が木曜會に初めて出席したのは、いつのことだつたか、はつきり覺えてゐない。或は三重吉が『山彦』を朗讀した晩が、初めてではなかつたかといふ氣もするが、然しこれは少少曖昧である。ただその時の客が、當の三重吉は無論のこと、介添役としての中川芳太郎、それから高濱虚子・坂本四方太・野間眞綱・皆川正禧・松根東洋城だつたことは、たしかである。野村傳四も寺田寅彦も來てゐたのではなかつたかと思ふ。但これはあまりはつきりしない。森田草平はたしかに來てゐたやうである。

正岡子規の生前『ホトトギス』では、山會と名づける文章會があつて、同人が文章を持ち寄つて朗讀した擧句、みんなで批評し合ふ習慣があつた。子規が死んでもその會は績いてゐたらしく、現に先生の『猫』の第一は、虚子が山會へ持つて行つて朗讀したものである。もつとも子規の生前もしくは歿後、それに先生が出席したことがあつたかどうかは分からない。然し木曜會ができあがる前に、先生の所には文章會があつて、何か文章ができると、その會で朗讀して、參會者の批評を求めるといふやうなことをしてゐたのだから、さうしてその參會者には高濱虚子、坂本四方太などといふ、山會のメムバーがゐたのだから、この文章會は山會の繼續、もしくは山會の出店だつたと考へていいのである。

もつともこの文章會は、明治三十八年(一九〇五)中に二三度催されただけで、中絶された模樣である。然しそこではいろいろな注目すべき作品が朗讀された形跡がある。例へば寅彦の『團栗』なども、或はこの文章會で朗讀されたものでなかつたかと思ふ。もつとも明治三十八年三月十三日野間眞綱宛の先生のハガキには、「寅彦は今日も來て文章を朗讀してゆきました」とある所から想像すると、これは先生にだけ讀んで聞かせたもので、大勢に聞かせたものではなかつたのかも知れないとも思はれる。寅彦の性格から言へば、先生一人を相手に朗讀する方が、寧ろ自然である。然し寅彦の『龍舌蘭』は、別の機會に、文章會で朗讀されたものらしく見えるふしがある。先生の『幻影の盾』は、朗讀してもちよつと通じない所がありさうで、まさか朗讀したものではあるまいとも思はれるが、然し野間眞綱が『盾のうた』を作り、それが『ホトトギス』に出た『幻影の盾』の終りに印刷されてゐる所から見ても、また明治三十八年二月二十三日野村傳四宛のハガキに、「明後二十五日土曜日食牛會を催ふす、鍋一つ、食ふもの曰く傳四曰く奇瓢曰く眞折曰く寅彦曰く四方太曰く虚子曰く漱石。午後五時半迄に御來會を乞ふ牛の外に何の食ふものなし」とあり、三月三日附の野間眞綱宛のハガキには、「盾のうた面白く出來候最後の二句は不賛成に候。何とか改め度候」とあるのから見ても、どうも先生がこの「食牛會」で『幻影の盾』を讀むか、虚子に代讀してもらふかし、それに刺激されて野間眞綱が『盾のうた』を作り、それを先生が推敲させた上で、『ホトトギス』に同時に掲載されるやうに取り計らつたとしか、私には想像できないのである。二月二十三日のハガキの中の「曰く奇瓢」とあるのは、無論野間眞綱の雅號である。『盾のうた』が『ホトトギス』に出た時にも、たしか「奇瓢」の名前が使はれてゐたと記憶する。

明治三十九年(一九〇六)十月二十一日森田草平宛の手紙の中に、「木曜日にはサボテン黨の首領は鼓の稽古日だとか云つて來なかつた。呑氣なものである。其代り中川のヨ太公。鈴木の三重吉。坂本四方太、寺田の寒月諸先生の上に東洋城といふ法學士が來た。此東洋城といふのは昔し僕が松山で教へた生徒で僕のうちへくると先生の俳句はカラ駄目だ、時代後れだと攻撃をする俳諧師である。先達て來て玄關に赤い紙で面會日抔を張り出すのは甚だ不快な感がある。「僕の爲めに遊びにくる日を別にこしらへて下さい」と駄々つ子見た樣な事を云ふから、そんな事を云はないで木曜日に來て御覽といつたから、とうとう我を折つて來たのである。又松茸飯を食はせてやつた」とある。初めの「サボテン黨の首領」といふのは、高濱虚子のことである。當時は『草枕』が發表された直後で、虚子はその『草枕』の中の覇王樹の描寫を口を極めて褒めたのに對して、森田がそれに反對を唱へ、先生がその間に立つて雙方に傳へつつ、調停を試みたことがある。その要領は先生の森田宛の同じ手紙の前文に出てゐる。それだから此所に「サボテン黨の首領」といふ言葉が出て來たのである。

同じ年の同じ月の二十六日、鈴木三重吉宛の手紙には、「君の夜中に書いた手紙は今朝十一時頃よんだ。寺田も四方太もまあ御推察の通の人物でせう。松根はアレデ可愛らしい男ですよ。さうして貴族種だから上品な所がある。然しアタマは餘りよくない。さうして直むきになる。そこで四方太と逢はない。僕は何とも思はない。あれがハイカラならとくにエラクなつて居る。伯爵の伯父や叔母や、三井が親類でさうして三十圓の月給でキユキユしてゐるから妙だ。さうしてあの男は鷹揚である。人のうちへ來て座り込んで飯時が來て飯を食ふに、恰も正當の事であるかの如き顏をして食ふ。「今日も時刻をハヅシテ御馳走ニナル」とか「どうも有難う御座います」とか云つた事がない。自分のうちで飯をくつた樣にしてゐるからいい。/君は森田の事丈は評して來ない。恐らく君に氣に入らんのだらう。あの男は松根と正反對である。一擧一動人の批判を恐れている。僕は可成あの男を反對にしやう/\と努めてゐる。近頃は漸くの事あれ丈にした。それでもまだあんなである。然るにあゝなる迄には深い原因がある。それで始めて逢つた人からは妙だが、僕からはあれが極めて自然であつて、而も大いに可愛さうである。僕が森田をあんなにした責任は勿論ない。然しあれを少しでももつと鷹揚に無邪氣にして幸福にしてやりたいとのみ考へてゐる」とある。

木曜會の初めの時分は、お互に顏見知りのない手合が多かつたので、先生はかういふ手紙のやり取りを割に頻繁にしなければならなかつた。それは一面已むを得ないことではあつたが、然し一面先生に、弟子に對する深い愛がなければ、なかなかこれだけの手數はかけられない。オーケストラが一つのシムホニーを纏め上げうる爲には、指揮者があらゆる心遣ひをしなければならないと同じやうに、先生は暢氣なことを言つてゐる一方では、隨分いろいろな心遣ひをしているのである。

私もその點で先生に厄介をかけた一人だつた。私が先生の所に行きだしたのは、明治三十八年(一九〇五)の九月、私が大學に入學した年のことだつたが、生れつき内氣で、大勢の前へ出ると妙に拘泥して自由に口が利けなくなる所があり、先生の所へ行つて、先生と相對で口を利く場合には別に窮屈な思ひもしないで話はできても、木曜會のやうな席へ出ることは、何がなし私には苦痛だつた。面會日が木曜ときまつて、これから木曜に來るやうにと言はれても、私にはどうも思ひ切つて木曜會に出席して、その常連となる氣にはなれなかつた。然し一旦面會日がきまつた以上、その日以外に先生の邪魔をすることは、私として十分愼まなければならないことである。それで私は十一月初めの木曜日か何かに千駄木の先生の所へ出かけたが、然しやはり人前で口を利く勇氣は出ず、かと言つて隅つこに小さくなつて一晩中默つてゐるのは、とてもつまらないので、甄は到頭先生に宛てて、特に自分の爲に別に面會日を作つてもらへないかといふ、嘆願状を書いた。つまり形は違ふが、東洋城と同じやうなことを、先生に要求したのである。

明治三十九年十一月九日附の私宛の手紙は、それに對する先生の返事だつた。――「昨日は客に接する事十三四人一寸驚ろいた。然し知つた人がああ云ふ風に寄つてみんなが遠慮なく話しをするのを聞いてゐる程な愉快はない。僕は木曜日を面會日と定めたのをいい事と思ふ。/君は一人でだまつてゐる。だまつてゐても、しやべつても同じ事だが、心に窮屈な所があつてはつまらない。平氣にならなければいけない。うちへ來る人は皆恐ろしい人ぢやない。君の方からだまつてゐるから口を利かないのだ。二三度顏を合せればすぐ話が出來る。實は君の樣なのが昨日の客中にもあるのだが夫が構はずに話しをしてゐたから面白い。君も話せば面白くなるのである。中川といふ人はやさしい人であるが三重吉君は御仰の通中々猛烈な所がある。あの兩人は親友である。色の白い顏は東洋城といふ俳句家である。あれもあれぎりの好人物である。セビロ連は尤も大人しい連中でちつとも氣兼抔をする男ぢやない。君かりに俳句の會へでも出ると假定し玉へ知らない人は幾人でも居る。僕も昔は内氣で大に恥づかしがつたものだ。今でもある人はさう思つてゐる。所が大違ひ外部こそ同じだが内心はどんな人の前でも何とも思はない。學校抔で氣に喰はない教師抔が居ればフンと云つて鼻であしらつてゐる。夫で澤山なのだよ。丗の中にエライ人が無暗に多いと思ふから恥づかしくなつたり。極りがわるくなるので。自分の心が高雅であると下等なことをする物などは自然と眼下に見えるから些つとも憶する必要が起らないものさ。/こんな氣焔を吐くのも木曜日に君を話させ樣と思ふからさ。又來る時は大いに辯じ玉へ忙しいから是で御免を蒙る 以上」

「セビロ連」とあるのは、多分野間眞綱・皆川正禧の兩君だつたと思ふ。知つて見れば兩君とも實に善良な人達だつたが、兩君とも體躯長大だつたので、初めて會つた時には、私はただそれだけで兩君から壓迫を惑じたやうなのである。――それはともかくこれで見ると、私が木曜會に初めて出席したのは十一月初めでなく、この十一月九日の前日、即ち十一月八日の木曜で、私はその晩早くかへるか何かして、その晩先生に手紙を書いたものらしい。先生を外の人達から奪はれて淋しいといふやうな氣持になつて歸つて來て、その晩先生に手紙を書き、先生から手紙をもらひたいと思つたものかも知れないのである。すると三重吉が『山彦』を朗讀した晩に、私が木曜會に初めて出席したといふのは、私の記憶違ひで、三重吉が『山彦』を朗讀したのは、もつと後だつた。

『書簡集』で調べて見ると、十二月四日高濱虚子宛のハガキに、「拜啓明後日は千鳥の作者が新作をもつてくる由どうか御出席の上朗讀を願ひたいのですが如何でせう」とある。三重吉が『山彦』を朗讀したのは、十二月六日の木曜で、私が木曜會に出席し出してから、一ヶ月後のことである。さう言へば私は『山彦』朗讀當時には、既に三重吉と知り合ひになつてゐて、『山彦』の相談にいくらか與つてゐたやうな氣もする。菊富士館とかいふ高等下宿に陣取り、先生から來た長い卷紙の手紙を、掛物代りに床の間にかけ、鐵劑のヘモグロビンをかじつて小説を書いたり消したりしてゐたのも、どうもこの時のやうである。ただ私が木曜會に出席し出したのが、十月だつたにしても十一月だつたにしても、三重吉が『山彦』を朗讀した(三重吉は興奮して自身では朗讀ができず、到頭虚子が代つて朗讀した)日までは、私はまだみんなの前で碌碌口が利けなかつた。

私が木曜會で自由に口が利けるやうになつたのは、その年の十二月に先生が千駄木から西片町へ引越して行つた、その引越の手傳に行つて、いろんな外のお弟子達と共同の目的の爲に働いた、それから後のことだつたと思ふ。西片町へ越して行つた翌年、即ち明治四十年(一九〇七)の三月には先生は、大學と高等學校とをやめて『朝日新聞』に入社した。さうして置いて先生は京都へ遊びに行き、三重吉と私とは留守番を頼まれた。先生が京都から歸つて來て暫くすると、花が咲き出した。東洋城と三重吉とはお花見をするのだと言つて、臺所を指圖して酒肴の用意をし、木曜會の全員を先生の書齋に招待した。

三重吉は何所で買つて來たのか、人數だけのお花見手拭を配布して、みんなにそれを頭にかぶらせたり、襟元に結ばせたりした。先生も無論、一二杯飮まされて眞赤な顏をしながら、お花見手拭を頭の上に載せた。さういふことも木曜會のメムバー同士を親しくしたので、私は誰ともうちとけて話ができるやうになつた。もつとも當時一番親しくしてゐたのは三重吉である。

三重吉は私より二つ年上だつたが、當時の私は子供だつたので、人生に關しても藝術に關しても、知識もなければ見識もなく、從つて三重吉は兄分として私を引き廻した。のみならず三重吉は當時『千鳥』の作者・『山彦』の作者として一世を聳動してゐた。三重吉の言ふこともすることも、當時の私の地平線を超えてオリヂナルに見えたので、私は三重吉を「英雄」として崇拜し、甘んじてその弟分になつてゐた。木曜會の席上でも、三重吉は傍若無人と言つては語弊があるかも知れないが、ともかく言ひたいことを言つて少しも憚る所がなく、またその趣味は三重吉趣味として、外の人達から尊重されてゐた。私は寧ろ三重吉の袖に隱れて、もしくは三重吉を自分の代辯者として、木曜會に出席してゐると言つていい恰好だつた。

その年の九月の末には、先生は又引越をしなければならなかつた。西片町は千駄木とは同じ區内である上に、割に距離がなかつたが、今度は早稻田南町へ引越して行くのである。この引越にも弟子は大勢手傳つた。この手傳がまた弟子達の間を一層親しくしたやうに思ふ。少くとも三重吉と私とは、更に親しくなつて行つた。

木曜會は、先生が早稻田へ引越して行つても、無論續行された。その上早稻田では、元日に木曜會のメムバーが集まることが、恒例のやうになつた。年始の客は無論千駄木時代でも、西片町時代でも、元日に先生の所へ押しかけて來てゐたに違ひないが、然し早稻田時代ほど一日に大勢集まることはなかつたのではないかと思はれる。これは一つには、今度の早稻田のうちの客間が十疊で、書齋がまた十疊で、それが終始ドアをあけてぶつ通しになつてゐたので、みんなゆつたりした氣持になれたに違ひない。

元日に先生の所へ年賀に行くと、晝でも夜でも、必ずお膳が出てお酒が出た。お膳には野間眞綱君が持つて來たり送つてよこしたりする、鹿兒島の猪のお雜煮のつくのが吉例だつた。

先生は酒は殆んど飮まなかつたし、猪口で一二杯飮んでもすぐ眞赤になる方だつたが、然し人が酒を飮むことを別に嫌ふ風ではなかつた。勿論先生は、酒を飮むのはいいが、飮んで醉つ拂つて人間が變る奴は嫌ひだとは言つてゐた。然し弟子が來て酒を飮んだり雜煮を喰つたりしながら、勝手な熱を吹くのを、先生はきちんと坐つてにこにこしながら聽いてゐて、少しもあきることがなかつた。それが朝のうちからやつて來て、晝の膳につくのみならず、一旦外へ出て餘所の廻禮をすませてから夕方また歸つて來て夕方の膳につき、それからまた勝手な熱を吹き出して夜の十二時ごろまでも續くのを、先生は不相變じつと坐つて相手になつてゐるのだから、驚くべき根のよさだつた。

この眞似は到底我我にはできない。先生は、口にこそ出さなかつたが、淋しがりやで、賑やかなことが好きだつたのには違ひないが、然しいくら賑やかなことが好きだと言つて、これには根氣が必要である。さうしてこの根氣は、心から人間を愛する氣持があつて、初めて出て來る根氣である。事實またその氣持が先生に十分あつたればこそ、木曜會が始まつた時分に、多忙を極めた中から、弟子達にああいふ手紙をかくこともできたのである。我我は木曜會に行つただけではまだ足りず、合間合間に先生に手紙をかいた。先生はその手紙に一一返事をくれた。返事をくれなければ、返事を請求したりさへもした。

その元日の光景の一端を描いたものに、明治四十二年(一九〇九)の『永日小品』の一番初めに出てゐる『元日』といふのがある。又大正四年(一九一五)の『硝子戸の中』の第二十七がある。その時分は世の中がよかつたから、どの小品にものんびりした雰圍氣が漂つてゐる。

然しこの雰圍氣は單に世の中がよかつたせゐであるとのみは言へない。それはなんと言つても、先生の愛の力である。先生によつて指揮され、先生によつて反省させられ、先生によつて包み込まれるから、全體の雰圍氣がのんびりもするし、暖かにもなるし、潤滑にもなるし、眞實ででもあれば藝術的なものにもなるのである。さうしてよくあるサロンの雰圍氣のやうな、輕佻で浮薄で、上部だけは愛想よく滑らかに進行してゐるくせに、氣持は少しも暖まることがないといふやうな、さういふ氣配は少しも動き出すことがなかつた。

今思ひ出しても、先生によつて纒められてゐた木曜會の世界は、五色の雲に包まれた、極樂淨土の世界だつたやうな氣がする。

話はなんでも剥き出しでよかつた。その結果『硝子戸の中』の私と三重吉とのやうに、激論を鬪はせたあとで絶交するとまで話が尖鋭化することもないではなかつたが、それでも先生から「絶交するなら外で遣つてくれ、此處では迷惑だから」といふやうな、ユーモアを含んだ注意を受けると、急に全體の空氣にゆとりができて、要もない議論を重ねて角目だてることが、馬鹿馬鹿しく見えて來るのである。

然しこれは何も元日に限つたことではなかつた。木曜會でも同樣だつた。木曜會で議論がはづんで、よく一時になり二時になることさへあつたが、先生はいやな顏一つせず、適當な時に適當な注意を與へて、我我を反省させたり、萎縮させたり、調停したり、いつまでも我我若い者の相手になつて、厭きることがなかつた。勿論先生の眠い時には、眠くなつたから歸れと、先生から言はれる。我我はさつさと引き上げて歸つてくる。その點は淡泊なものだつた。然しさういふ場合は、殆んど數へるほどしかなかつた。

勿論先生はいつの木曜でも必ず機嫌がいいとは限らなかつた。のみならず先生はどうかすると、人の顏を見るのも厭な氣分になることもあつて、今度の木曜には來てはいけないなどと、ハガキで言つて來ることもあつた。然しさういふことはやはり稀な例外で、先生は別ににこにこしてゐるわけではなく、また先生が先に立つて自分の意見を述べるといふわけではなく、ただどつしりと坐つてゐる場合の方が多かつたが、こつちは安心して言ひたいことが言へた。

第一先生はこつちが純粹な氣持で先生に接觸して行きさへすれば、必ず純粹な氣持でそれに應じてくれる人だつた。これは口で言へばなんでもないことのやうであるが、然し實はこれは決して生やさしい仕事ではないのである。人はどうかするとさういふ場合、うるさくなつたり、腹が立つたりすることもあつて、とかく不純になり勝ちなものである。然し先生には決してそんなことはなかつた。先生はどんな場合にも純粹なものを尊重し、純粹なものを愛することをやめなかつた。それだけに人は先生の前に出れば、安心して素つ裸になつてしまふ。先生は人から眞實を引き出すのに妙を得てゐた。

前に先生は先に立つて自分の意見を述べるといふよりも、寧ろ弟子達から引き出されて自分の説を述べる傾きがあつたと言つたが、それでも先生は、ともかく我我に眞面目に相手になつて、議論を上下してくれた。それが我我には嬉しかつた。我我は先生の話を聞いて、始終高められた。ある意味でインスピレーションを得て歸るのを常とした。

先生は然し、修善寺で大病をしてから、變つた。

先生の變つたのは、修善寺で大病をした結果、先生の人生觀が變つたからだつた。先生は修善寺で大病をしてから、死の問題を眞面目に考へなければならないやうになつた。同時に先生はその眼で自分の過去の生活を眺めて、自分の生活が、味ふ生活から離れて鬪ふ生活に始終して、齷齪ばかりしてゐることを認めなければならなかつた。先生は風流の生活を、東洋流の文人の生活を庶幾するやうになつた。その間の消息は『思ひ出す事など』に精しく出てゐる。その『思ひ出す事など』に出てゐる「人よりは空 語よりも默 肩に來て人なつかしや赤蜻蛉」といふ句は、先生のその心の傾向をはつきり示してゐるものである。

さういふ立場に立つて我我若い弟子達の言ふことすることを視聽きするとすれば、假令それが思ひ昂りや己惚を伴つてゐなかつた場合でも、何か先生には厭はしい言動として、顏をそむけたい氣になつたに違ひないのである。況んやその我我が、いい氣になつて増長し、人生だの藝術だの、實はなんにも分かつてゐもしないくせに、さもさもその道の奧儀を心得てでもゐるやうな顏をして、先生に議論を吹つかけるのみならず、自分達は新しいが先生は古いなどときめつけて、先生を舐めてかかるやうな態度をさへ示すことがあつたのだから、先生は寧ろ我我に愛想をつかし、なるべく我我の相手になりたくなかつたのに違ひないと思ふ。事實明治四十三年(一九一〇)十月三十一日の先生の日記には、「○風流の友の逢ひたし。人生だの藝術だの何のかのといふものには逢ひたくなし」・「○今の余は人の聲よりも禽の聲を好む。女の顏よりも空の色を好む。客よりも花を好む。談笑よりも默想を好む。遊戯よりも讀書を好む。願ふ所は閑適にあり。厭ふものは塵事なり」と書いてある。

我我にそんなことは分からなかつた。それで我我は、先生は病氣の結果すつかり老い込んでしまつたから、これからは先生のことを「老」と言ひ「翁」と呼ぶことにしよう。それにしても昔は先生の面會日に行けば、必ず高められて歸つて來るのを常としたのに、このごろはさういふ氣分を全然味はふことができなくなつたのは淋しいなどと、頻に話合つたものである。

そのくせ我我は、外部の人達に對しては、先生の一の子分か何かをもつて任じてゐたらしく、先生が修善寺から歸つて來て、なほ四五ヶ月胃腸病院に入院して病後を養つてゐた時に、木下杢太郎が見舞に來て、漱石の所に行くのもいいが、森田・鈴木・小宮なんていふのが五人囃子のやうに列んでゐるのでいやになるといふ意味のことを、『明星』か何かの六號活字に書いたことがある。それを讀んで我我は黨派的な意味での惡口と解釋して、ともに杢太郎を憎んだ。然し後になつて考へて見ると、杢太郎は事實を事實として言つたのだが、こつちに黨派的な根性があつて、無闇な者は親分のそばには寄せつけないといふやうな、ケチな氣持が動いてゐることを、正直に反省することができなかつたのである。杢太郎はほんとに先生に近づきたかつたんだが、我我がずらりと列んでゐるので、近づく氣になれなかつたのだと、あとで聽いて、私は恥づかしい思ひをしなければならなかつた。

先生の日記を繰つて見ると、明治四十三年(一九一〇)十月十六日の條に、「鈴木、森田、小宮、次の室に來り語る外にも人ある樣なり」とある。胃腸病院で鈴木と森田と私とが一緒に落ち合つたことはあまりない。或は杢太郎はこの日に見舞に來て、私達が何か言つたので、そのまま先生に會はずに歸つたのではないかと思ふ。十月十六日と言へば、先生が修善寺から歸つて五六日しかたつてゐない時である。先生はまだ疲れも十分なほつてゐない際なので、あまり人にも會はせないやうにしてゐた爲に、或はさういふ取扱をしたものかとも思はれる。假にさうだつたとしても、敏感な杢太郎に不愉快なものを感じさせる態度が、我我のどつかに出てゐたのに違ひないのである。

先生を古いと言つたり、先生を「老」と言ひ「翁」と呼んだりする氣持に私がなつたのは、一つは森田草平の感化だつた。

私は木曜會のお弟子達には、隨分いろんな感化を受けてゐる。三重吉から影響を受けたことは、既に前に書いた。三重吉の次に私に影響した者は森田草平である。

もつとも私は初め森田とはちつとも親しくならなかつた。森田から言へば、當時私はほんの子供だつたので、取るに足りないと思つてゐたのだらう。私の方でも森田たちが出版した短篇小説集をもらつて讀んだけれども、その爲め私は別に森田を尊敬する氣にはなれなかつた。それが森田の鹽原事件があり、森田は歸つて來て暫く先生の所に厄介になつてゐた上で、横寺町か何かのお寺に下宿して小説を書く――小説を書いて生きるより外に社會に生きる道はない、特別な境遇に追ひ込まれるに及んで、私は急に森田に同情し、進んで森田に近づき出した。森田の『煤烟』は明治四十二年(一九〇九)の元日から、先生の推薦で『朝日新聞』に連載されることになつたものである。これは當時の文壇に一大センセイションを捲き起し、ある人人はこれを漱石以上と激賞しさへもした。それほどではないまでも、私は『煤烟』に現はれた森田のパッションや、『煤烟』の世界そのもののパテーティッシュなものに打たれて、いつのまにか森田を仰ぎ見るやうになつてしまつた。三重吉を「英雄」としてゐた私は、今度は改めて森田を「英雄」とするやうになつた。このことは三重吉をひどく淋しがらせた。然しそれに就いて詳しく述べることは、別の機會に讓りたい。

同じ年の十一月から『朝日新聞』に文藝欄が設けられることになつた。これは同じく先生の肝煎で、森田を社員として入社させ、森田に文藝欄の仕事をさせようといふ計畫だつたのが、當時の社長村山龍平の反對で森田の入社は不可能になつたので、文藝欄の仕事は名目上は先生がやるといふことにして、森田と私とがその下働をする。但編輯料として六十圓出すが、それは森田にみんなやるといふことで、發足することになつたものである。勿論これは、私のことはともかく、森田のことは、村山社長の諒解を得た上でのことだつた。私は當時別に金に困る身ではなかつたし、森田は私の「英雄」だつたので、私は喜んで無報酬で、先生の下で森田とともに働いた。勢ひ私と森田との交際は頻繁になつた。

翌年は明治四十三年(一九一〇)である。先生はこの春から初夏へかけて『門』を書いた。書いてゐるうちに胃の具合がわるくなり、書き了るとすぐ内幸町の長與胃腸病院に診察を受けに行き、引き續き胃腸病院に入院することになつた。八月の末は修善寺の大吐血である。先生はおちおち文藝欄の編輯を監督する餘裕がなく、自然それは森田と私とに一任される形になつた。若い者に一任して置けば、何をするか分らない。先生は氣になつてゐたのだらうが、然し小説を書いたり入院したりしてゐるのでは、さうさう注意を行き屆かせてゐるわけにも行かない。それでも森田はハガキだの、呼びつけられたりしながら、よく小言を言はれた。森田はそれが不平だつた。森田には妙に叛逆する精神があつたので、この時分にも亦さういふ精神が動いてゐたのかも知れない。

無論私は森田から語らはれたり唆かされたりしたわけではない。森田にもまさかさういふ氣はなかつたに違ひないが、然し私は私流に病後の先生に不滿があり、それがたまたま森田によつて觸發された形になつて、私はいろんな點で森田とともに、先生に盾つくやうな結果になつた。今から考へると實に恥づかしいことである。私には先生の心境の變化が理解できず、ただ表面に現はれたものだけに就いて、こつちに都合のいいやうな解釋ばかりして、結局は先生の頭の上に足を上げるやうなことをしたのである。

先生は恐らく淋しかつたに違ひない。然し先生は私達の態度に對して、別に小言らしい小言は言はなかつた。先生はいつものやうに泰然として、私達の生意氣を受けとめてゐた。これは先生が、今に氣がつくだらうと思つてゐてくれたからかも知れないし、或はこれではいけないと當人が氣がつきかけるころになつてから言ふのでないと、すべての小言は決して効能のあるものではないと、考へてゐたからかも知れない。事實先生は、いつのころだか精確な年月は忘れたが、私にぢかにさういふ意味のことを言つたことさへあるのである。ともかく先生は、森田のことはともかく、私には當分させたいままをさせて置いて、默つて見てゐようとしてゐたものらしいのである。當時の私には、これが反つていけなかつたのかも知れない。その場その場でびしびし言つてもらつた方がよかつたのかも知れない。

私の態度に就いて、先生から何か言つて來たのは、明治四十四年(一九一一)の十月末に、先生が『朝日新聞』の文藝欄をやめることに話合をつけたに就いての報告の序に、「夫からもう一つは文藝欄は君等の氣焔の吐き場所になつてゐたが、君等もあんなものを斷片的に書いて大いに得意になつて、朝日新聞は自分の御蔭で出來てゐる抔と思ひ上る樣な事が出來たら夫こそ若い人を毒する惡い欄である。君抔にそんな了見はあるまいが、近來君の行爲やら述作に徴して見ると僕は何だか心細くなる樣な點もある。あれで好いつもりで發展したらどうなるだらうと云ふ氣が始終つけまつはつてゐる。要するに朝日文藝欄抔があつて、其連中が寄り合つて互に警醒する事はせずに互に挑發し會ふのも少しは毒になつてゐるだらうと考へる。それで文藝欄なんて少しでも君等に文藝上の得意場らしい所をぶつつぶしてしまつた方が或は一時的君や森田の藥になるかも知れない」と言つて來たものだけである。朝日文藝欄ができたお蔭で私達は、特に阿部次郎・阿倍能成などと親しくなることができたが、然し此所に出て來る「君等」といふのは、假にその周邊に阿部だの安倍だのが含まれてゐたとしても、中心となつてゐるものは森田と私とだつたのに外ならないのである。この手紙は私には徹へた。然し慢心してゐた當時の私は、徹へれば徹へるだけ、反省して悔い改めることの代りに、何か先生に反抗しようとしでもするやうに、いろんなものにいろんなことを書き散らした。

今から考へると、先生のこの手紙は、私に對する愛と親切とに充ちた手紙である。この時私が、先生のこの愛と親切とを素直に受け入れて、もつと高い大きい立場に立つて一所懸命勉強する氣になつてゐたら、恐らく先生も安心し、私も今日のやうに寢覺の惡い思ひをしなくて濟んだに違ひない。然し私は先生の手紙を受け取つても、先生の氣に入るやうな振舞はしなかつたのみならず、先生の嫌ひな芝居を見て廻り、先生の嫌ひな花柳界に出入し、あまつさへそれを先生の前で得意氣に吹聽した。これは無論いくらかの露惡趣味からも來てゐる。然しこれは、一方から言へば、先生の前にはどんなことでも包み隱しはしない、徙らに包み隱しをするよりも、なんでもあけすけに言つてしまつた方が、假令そのことは先生の氣に入らなくつても、先生は許してくれるに違ひないといふ、一種妙な信念のやうなものからも來てゐる。先生はあんまり好い心持はしなかつたに違ひないことは、當時先生が坂元雪鳥だの松根東洋城だの、その他の人に私に就いて書いた手紙ででも知れるが、それでも私は先生から頭ごなしにこき下ろされはしたが、何か絶えず先生からいたはられてゐる、許してもらへてゐるといふ感じはあつた。

さう言へば、いつか私は先生から、阿部次郎の腹の中は透いて見えないが、おれには君の腹の中はすつかり透いて見える。三重吉の腹の中は汚ないが、然しおれは三重吉の腹の中の汚ないものをぎゆつと握つてゐるからいいのだと、言はれたことがある。これは私の先生に對する純粹な愛情が、現在は濁つてゐても、然しこれは一時の迷ひのやうなもので、底にはやはり純粹なものが流れてゐるのだといふことを、先生が認めてくれてゐたせゐではないかと思ふ。

内田百間君が先生に初めて會つたのは、明治四十四年(一九一一)のことで、場所は胃腸病院だつたといふ。私は内田君とは初めから割に自然に話ができたやうに思ふが、内田君に訊くと、さうでもなかつたといふことだから、杢太郎が胃腸病院で感じたと同じやうなものが、やつぱり我我の態度に現はれてゐたものと見える。然し内田君はずつと續けて木曜會の常連になつたのだから、我我は或は杢太郎に示したほどの惡意は示さなかつたのかも知れない。もつとも内田君の先生に對する敬愛の情はまつたく絶對のものだつた。

それまでのうち外に木曜會の常連が殖えたものかどうか、私はよく覺えてゐない。然し林原耕三君は一高に入學する前後から來だしたのだから、或は内田君よりも早かつたのだらう。松浦嘉一君は恐らく内田君よりも少しあとになつて來だしたもののやうに思ふ。津田青楓が私と一緒に先生の所へ行つたのは、たしか明治四十五年(一九一二)のことである。その外いろんな人が木曜會には出入したが、然し常連となつたのは林原・内田・松浦・津田の諸君で、あとは來るかと思へば消える人達が多かつたのではないかと思ふ。

その中で今でも記憶に殘つてゐるのは、高須賀淳平である。

淳平は千駄木時代から先生の所に出入してゐて、ずつと早稻田南町のうちまで來てゐたのだから、常連の一人と言つていいのかも知れない。初めは『新潮』の記者をして居り、後には『やまと』の社員になつてゐたが、『やまと』のあとはどうしたか、私は知らない。淳平は一種の快男兒だつた。

淳平は早稻田のうちに、よく俥に乘つて來ては、先生から金を借りて行つて、一向返さなかつた。木曜日に來るには來るが、先生から話を聽かうといふのでなく、寧ろ金を借りに來るのである。

なんでも近所の俥屋の俥を乘り廻してゐたのだらうが、自分で法被をつくつて著せるか何かして、福松・福松と俥屋を呼び捨てにして、恰もそれが自分の抱え俥か何かのやうな顏をしたがる男だつた。口のうまい男で、先生の所へ來ては何かうまく話を持ちかけ、先生から金を借り出すことに妙を得てゐた。淳平は憎い奴だから、もう決して金は貸さないぞと思つてゐるんだが、どういふものかあいつが來ると、いつでもつい金を借りられてしまふと、先生は言つてゐたが、然し淳平にはひどくすれつからした所と、一方ではまたひどく純情な所とがあつた。その純情な所が或は先生の氣に入つてゐて、金を返さないのは憎いが、然し先生の純粹な所と淳平の純粹な所とが何かのはづみに齒車のやうにうまく噛み合つて、憎い憎いとは思ひながら、つい又貸してしまふことになるのではなかつたかと思ふ。先生は金のことにはやかましい人だつたが、然し長くなると貸した金のことは忘れてしまふ人だつた。淳平はそれを知つて利用するといふやうな男ではなかつたが、然し淳平が借りたままになつてゐる金は、相當あつた筈である。

私は先生から頼まれて、よく淳平の爲に銀行から金を引き出しに行つたり、又淳平のうちへ借金の催促に行つたりしたことがある。今から考へると、淳平も亦なつかしい。

芥川龍之介君だの久米正雄君だのが常連になつたのは、大正四年(一九一五)の秋ごろからのことではないかと思ふ。その前後に赤木桁平が、鈴木三重吉の紹介で木曜會の常連になつた。岩波茂雄が安倍能成に連れられて行つたのは或は、もう一年前の大正三年(一九一四)だつたかも知れない。瀧田樗蔭が玉版箋を持ち込んだり唐墨を持ち込んだりして、先生に畫だの書だのを書かせ出したのも、およそ芥川と同時くらゐだつたらう。もつとも瀧田は書畫をかいてもらふ目的の爲に、木曜の午後、即ち晝間行くことにきまつてゐたので、常連ではあつても、夜集ることになつてゐた木曜會の常連とは言へないのかも知れない。

瀧田はやつぱり始終俥に乘つて來てゐたやうである。然し瀧田は福松・福松などと車夫を呼び捨てにはしなかつた。瀧田は當時『中央公論』の大編輯長といふことになつてゐたので、淳平ほど虚勢を張る必要はなかつたのだらう。

これも先生に書畫をかかせることはうまく、先週かいてもらつたものは、必ずその週の木曜にはちやんと表裝させて持つて來て、先生の客間にかけて見せて、いいのわるいのと言ふものだから、先生は乘り氣になつてその日も瀧田の注文するままに、大字小字、淡彩水墨、いろんなものをかくのである。大正五年(一九一六)の夏、先生の亡くなる年の夏などは、いつもよりはひどく暑かつたが、先生が汗水たらしてうんうん言ひながら全紙に大字などをかいてゐるところを見て、なんだか瀧田が憎くなつたことさへあつた。それでも瀧田はいつでも紙だの筆だの墨だのをうんと持つて來るので、序に書いてもらふには都合がよかつた。私が現在愛藏してゐる先生の書幅・畫幅・額などの大部分は、恐らく瀧田の持つて來た紙なのだらうと思ふ。

瀧田はずるい奴で、紙だの筆だの墨だの、結局自分の得になるものは、必ずいろいろ持つて來るが、自分の得にならない硯などは一向持つて來ないと、先生は言つてゐたが、その硯を瀧田は先生の亡くなる前に、果して持つて來たかどうか、つい聞き洩した。然し瀧田にも隨分純粹な所があつた。傾倒し出すと、打算を忘れて傾倒する所があつた。

木曜會の最後はいつだつたか。生憎私はその時分木曜會に御無沙汰をしてゐたから、はつきりしたことは分からない。然し大正五年(一九一六)十一月二十三日の木曜には、先生は既に胃の具合が惡く、午後の一時と四時とに二回の嘔吐があり、來客を謝絶したといふから、その前週、即ち十一月十六日の木曜が最後の木曜會だつたことには疑ひがない。

ただ先生が、自分のモットオとしてゐた「則天去私」を説明して、例へば自分の娘が不意にめつかちになつて自分の眼の前に現はれて來るといふやうなことがあつても、それを「ああ、さうか」と言つて見てゐられる心境を獲得するのが「則天去私」の世界なのだと言つたその日が、十一月十六日の最後の木曜日のことなのか、それともその前週の十一月九日のことなのかに就いては、少しはつきりしない所があつて、なんともきめられない。

松岡讓の『漱石先生』によると、それは十一月九日のことだといふことになつてゐる。さうしてその日は「芥川と久米と大學生が一人と、さうして私との四人」だけだつたとあり、「次の木曜には……座敷へ入り切れない位人が集まつて」「『則天去私』の文學觀なんぞも出た」が、この間の晩ほど「しんみりしたものではなかつた」とある。それはそれでいいが、然し安倍能成もこの話をはつきりきいてゐるといふのである。もしそれが十一月九日のことだつたとすると、その晩は「芥川と久米と大學生が一人と、さうして私との四人」だけだつたといふのが辻褄が合はない。又もしそれが十一月十六日のことだつたとすると、「『則天去私』の文學觀なんぞも出た」が、この間の晩ほど「しんみりしたものではなかつた」とあるのが少しをかしい。先生が娘がめつかちになつて出て來るといふ話を二度持ち出すといふことからがをかしいし、假に二度持ち出すことがあり得たとしても、先生は安倍とその心境の獲得の方法に就いて、相當重要な話をした筈だから、この間の晩ほど「しんみりしたものではなかつた」といふのも、をかしくないことはない。もつとも安倍によると、その話の發展の途中で、先生の機嫌が少し惡くなつたといふことだから、その爲め、松岡にはこの間の晩ほど「しんみりしたものではなかつた」と感じられたのかも知れない。

それは然し、今どうともはつきりきめるわけには行かない。ただきめることのできるのは、明治三十九年(一九〇六)十月十一日に初まつた木曜會が、大正五年(一九一六)十一月十六日に終つたといふことだけである。(二五・一二・三一)

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