Chapter 1 of 3
一
もうそろそろ体に汗のにじみ出るころであつたから、五月を過ぎてゐたとおもふ。途中で買つた医学の古書をば重々と両脇にかかへて、維也納のシユテフアン寺のなかに入つて行つた。それは疲れた体を休め、汗をも収めるつもりであつたのだが、両脇に書物の包をかかへてゐるために、向うの祷卓のところまで行つて、それから帽子を脱がうとおもひ、寺の中のうすぐらい陰気な石の床上を歩いて行つた。いまだ卓までは十数歩もあらうかとおもはれたころに、ひとりの男がつかつかと来て、『帽子をおとりなさい』といふ刹那に僕の帽子をば床上におとした。
そのとき僕はどう思慮したか、殆ど思慮のいとまもなく小走に走って行つて、重い書物をば卓のうへに置いた。
それからむらむらと憤怒の心が起つて溜まらぬので、彼の男を二たび見つけて、何かの形で突かかつてやらねばならぬといふ気がした。
然るに僕はさうしなかつた。陰気な寺の中の薄明が怒の行動に抑制を加へたと見えて、しばらく額に手を当ててゐたが、僕は静かに行つて床上におとされた自分の帽子を取つて来た。それからそこの卓に小一時間も休んでゐた。心に湧いてくる事は、今してゐる教室の為事の内容などで、帽子をおとした彼の男に対する残念な心などは不思議にうすらいでゐた。
小一時間もそこに休んで、二たび書物を両脇にかかへて寺を出た。その時帽子のつばのところを口でくはへて来た。二度咎められては困ると思つたのである。そんなことがあつた。