Chapter 1 of 4

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死のふは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの――信長の好きな小唄――

立入左京亮が綸旨二通と女房奉書をたずさえて信長をたずねてきたとき、信長は鷹狩に出ていた。

朝廷からの使者は案内役の磯貝新右衛門久次と使者の立入とたった二人だけ、表向きの名目は熱田神宮参拝というのである。

信長へ綸旨と女房奉書をだしては、と立入左京亮から話を持ちかけられた万里小路大納言惟房は、おまえ大変なことを言う、さても、困った、困った、と言った。

信長という半キチガイの荒れ武者がどれほど腕ッ節が強くて、先の見込みのある大将だか知らないけれども、目下天下の権を握っている三好一党と、その又上に松永弾正という蛇とも妖怪ともつかないような冷酷無慙なジイサンの睨みが怖しい。まったく弾正久秀という奴は蛇も妖怪も及びがたいジジイだけれども、たまには米もたらふく食いたいし、冬には温いフトンも慾しいじゃないか。雲の上人とは、よく言った。雲の上へまつりあげられて、薄いフトンで寒風をしのぎ、あるなしの米をすすって細々とその日のイノチをつないでいるのである。大納言のみならんや。上皇も、天皇も、そうなのである。

これは後日の話であるが、信長が天下を握って、御所を修理したり、お金を献上したり、色々と忠勤をつくして朝廷の衰微を救ったという。このとき、信長が京都の町民に米を貸して、その利息米を朝廷の経済に当てる方法を施した。この利息米のアガリが大体一ヶ月に十三石ぐらいであった。十三石の半分を朝廷で細々とたべる。半分を副食物や調味料にかえる。信長が衰微を救ったという。救われて、ようやく、これぐらいのもので、雲の上人は、まったく悲惨な生活であった。

天皇は皇子皇女をたいがい寺へ入れる。皇女の方は尼だ。関白も大納言も、そうだ。足利将軍もそうだ。子供は坊主や尼にする。門跡寺、宮門跡などと云って、その寺格を取引にして、お寺から月々年々の扶持を受けるという仕組であった。そのほかには暮しの手だてがなかった。

万里小路大納言惟房も、松永弾正という老蝮の目玉は怖しい。然し、お米をたらふく食べてみたい。だから、こまった。大変なことになった、困った、困った、と言った。

けれども、煩悶しながらも、筆をとって、二通の綸旨をかいた。上房子が女房奉書をかいた。これを立入左京亮に渡しながら、あゝ、大変なことになった、こまったこまった、と、まだ大納言はつぶやいていた。だから、その晩は一睡もできない。立入左京亮と、道案内の磯貝まで、心痛になって、やっぱり一晩ねむれない始末であった。

翌日早朝、天皇は惟房を召して、上やおまえ方の心づくし、うれしく思う、この上は念を入れ、分別の上にも分別して、あくまで隠密専一にはからうようにと言って、信長へ手ミヤゲの品をあれこれお考えになる、あんまりクドイのはいけないでしょう、道服はいかゞ、よかろう、ときまって、使者はひそかに出発した。

清洲の城へ直接信長を訪ねるわけには行かないから、磯貝の知音の者で、信長の目附をしている道家尾張守をたずねて行った。そのとき、信長は鷹狩に出ていたのである。

鷹狩の帰りに、信長は道家の邸で休息して一風呂あびて帰城するのが習慣であった。おっつけ信長も参るでしょうから、まずお風呂でも召して旅の疲れを落して下さい、と、二名は入浴する。そのとき左京亮は綸旨と奉書の包みを道家に手渡した。道家は包みをおしいたゞいて、手を拍って、あゝ、ありがたいことだ、天下は信長公のものとなった、信長公も満足であろう、と、それから急いで女房の部屋へとんで行った。

彼の女房は安井と云って、信長が大変目をかけてくれる才女だ。女房のおかげで、亭主の方も信長の覚えがめでたいようなことでもあるから、コレコレ、すぐに髪を結い拵え衣服をとゝのえて、殿のお帰りを待ちなさい、これこれこういうことで、いよいよ天下は信長公のものとなった、この包みが、ありがたい綸旨二通と奉書なのだ、こうしては、おられん、さあ、いそいで、支度々々、めでたい、ありがたい、と云って、むやみに一人でテンテコ舞いをしている。

信長が戻ってきた。いつもの通りさッさと湯殿へ行く。道家がそれを追いながら、実はこれこれにて、朝廷の使者が見えております、アヽ、そうか、と云って、信長は風呂の中へとびこんで、湯ブネから首をだして、勅使のことを色々と質問し、新しい小袖の用意はあるか、ございますとも、それはもう用意に手ぬかりはございません、せっかく天皇様が日本国を下さると仰有るのですから、と、道家は日本国をもらった、もらった、とウワゴトみたいに言っている。それで信長もお風呂でバチャバチャ水をはねちらして、上キゲンであった。

然し、別に日本国の支配を命じるというような、たいした綸旨ではなかった。

お前も近頃武運のほまれ高く、天下の名将だとその名も隠れなく請人の崇拝をうけているそうであるから、ついては朝廷に忠義をつくし、皇太子の元服の費用を上納し、御所を修理し、御料所を恢復してくれ、こういう意味の綸旨であった。

皇室の暮しむきの窮状をなんとかしてくれ、というだけのことだ。まア、借金の依頼を一とまわり大きくしたゞけのようなものだが、これだけのことでも、朝廷から、頼みをうける、頼まれるだけの実力貫禄というものが具わったからのことで、いわば実力の判定を得たようなものだ。

信長はミヤゲにもらった道服をきて、左京亮と盃をいたゞき、二通の綸旨をいたゞいて元気百倍、これから近隣を片づけて、それから天下を平定いたしますから御安心下さい、まず、三日五日ほどユックリ泊って行って下さい。先は天下ひらける前祝い、雁の汁に鶴の刺身、長臣五名をよんで酒宴をひらく。

朝廷へも同じ縁起の品物をと、翌日からセッセと狩をして、雁と鶴をしこたま捕って、金子に添えてミヤゲにもたせて帰らせた。

そのとき信長は三十四だ。信長は野良犬の親分みたいに、野放しに育った男だ。誰のいいつけもきかず、マネもせず、勝手気ままを流儀にして、我流でデッチあげた腕白大将であった。腕白大将という奴は、みんな天下一というようなことを、いと安直に狙う。

丹波の桑田郡穴太村の長谷の城守、赤沢加賀守が関東へ旅をして鷹を二羽もとめて、帰途に清洲の信長を訪ねて、お好きの方を進上するから一羽とってくれと云うと、信長は喜んで、ヤ、こゝろざし至極満足、じゃ、貰うぜ、天下をとるまで預っておく、お礼はいずれ、その折に、と言った。田舎小僧め、大きなことを言っていやがる、と人々は大言壮語をおかしがったが、信長そのとき二十八だ。天下布武という印章をつくって愛用し、天下一の情熱を日常の友としているが、その野心は彼に限ったことではない。

天下一の野心ぐらいは、餓鬼大将は誰でも持っているものだ。けれども、自信は、それにともなうものではない。むしろ達人ほど自信がない。怖れを知っているからだ。盲蛇に怖じず、バカほど身の程を知らないものだが、達人は怖れがあるから進歩もある。

だから、自信というものは、自分でつくるものではなくて、人がつくってくれるものだ。他人が認めることによって、自分の実力を発見しうるものである。このように発見せられた実力のみが自信であり、野心児の狙いやウヌボレの如きは何物でもない。

信長は我流でデッチあげた痛快な餓鬼大将であったが、少年時代に、短槍の不利をさとって、自分の家来に三間半の長槍を用意させたほど用心ぶかい男であった。つゞいて鉄炮の利をさとり、主戦武器を鉄炮にかえた。これが彼の天下統一をもたらしたのだが、この要心と見識の裏にあるものは怖れの心だ。恐らく、怖れの最高、絶対なるものである。かかる信長に、三度や四度の戦勝が、まことの自信をもたらしてくれるものではない。信長には持って生れた野育ちの途方もないウヌボレがあった。それと同量の不安があった。このウヌボレをまことの自信に変えるためには、不安と同量の、他人による、最高、絶対の認められ方が必要であった。

信長の家来たちは、餓鬼大将が、どうやらホンモノの大将らしいところもあると思ったが、半信半疑なのである。

清洲から五十町ほどの比良の城の近所にアカマ池というのがある。蛇池という伝説があり、三十町も葭の原ッパのつゞいた物怖しいところである。

正月中旬というからまだ寒い季節であるが、安食村の又左衛門という者が暮方アカマ池の堤を歩いていると、一抱えほどの黒い胴体が堤の上にあり、首は堤をこえて池の中へもぐっている。人音に首をあげたのを見ると、鹿の顔みたいなものに目玉が星のように光り、紅の舌がこれも光りかゞやいて、ちょうど人間の掌をひらいた片腕みたいにチョロチョロ燃えでている。驚いて逃げて帰った。

十日ほどして、この話が信長の耳にきこえた。直ちに又左衛門を呼んで話をきゝ、その翌日、近隣五ヶ村の百姓を召集、数百のツルベをならべてアカマ池の四方から水をかいだしたが、四時間ほどかゝっても、ヘリメが見えない。では、よろしい、オレがもぐって見て来る、と、フンドシひとつになり、御苦労様につめたい水の中へ、口に脇差をくわえて、もぐりこんだ。まんなかへんで、一生ケンメイ、プクプクともぐってみたが、蛇にでくわさない。オレじゃア、もぐり方が足りないのかなと、オカへあがって、鵜左衛門という水泳の達人に、おまえ、もぐってみろ、やっぱり蛇にぶつからないので、ヤレヤレ、おらんじゃないか、と清洲の城へひきあげた。これが二十九の信長だ。

こういう実証精神は信長の持ち前である。ワリニャーニのつれてきたエチオピヤの黒人をハダカにして洗わせて真偽をためしたり、無辺という廻国の僧が、生国無辺と称し不思議の術を施すときいて、呼びよせて化けの皮をはいで追放した。追放後も婦女子をたぶらかしたことをきいて、国々へ追手をかけてヒッ捕えて斬りすてた。

人間の妖術の化けの皮ははぐことができたが、当時にあって怪獣、大蛇の存在は、信長とても否定のできる筈はない。否定どころか、むしろ存在を信じていたから、見たくなって飛びこんだ信長であったに相違ない。その旺盛な好奇心、実証精神は話の外で、まったくイノチガケであり、人にはやらせず、まず自分がフンドシ一つに短刀くわえてジャブジャブ冬の水中へもぐりこむとは、見方によってはキチガイ沙汰である。いわゆる日本流の大名や大将のやることじゃない。家来や百姓は、イノチガケの凄味に舌をまいて怖毛をふるったかも知れないが、信長の偉さの正体は半信半疑で、わからなかったに相違ない。二十九といえば、もう老成した大人というのが当時の風であるのに、この大将は五ヶ村の百姓に水をくませて、水のヘリメが見えなくて、それではと、自分ひとりフンドシ一つで水中へもぐるのである。

これも、二十八の年である。にわかに八十人の家来をつれて、京都へ旅行した。なんのための旅行だか、誰にも分らない。四隣はみんな敵である。よきカモよ、ござんなれ、と岐阜の斎藤が数十名の刺客に後を追わせた。たまたま、これに気付くことができたから、信長は刺客の泊っている京都の宿屋へノコノコでかけて行って、汝ら、の分際でオレを殺せるつもりとはバカな奴らめ、今、とびかゝって刺しに来てみよ、と云って睨みつけた。刺客どもは顔色を失い、ふるえあがってしまったが、京童はこれをきいて、大将のフルマイとは思われぬという者と、若大将はこれだけの血気がなくては、という者と、二派の批評があったそうだ。

信長は京都、堺を見物していたが、雨降りの払暁、にわかに出立、昼夜兼行二十七里の山径をブッとばして帰城した。この理由も、家来の誰にも分らない。ひきずり廻され、アッと驚かされてばかりいる家来どもにも、ウチの大将は偉いのか、半キチガイの乱暴者にすぎないのか、信長が三十になっても、まだ確たる見当はつかないのだ。

どうやら美濃を平げ、宿敵斎藤氏を岐阜から追っ払った。信長、ときに三十四。然し、まだ、後には信玄という大入道がいる、謙信という坊主もいる、北条もいる、いずれも斎藤などとはケタの違う名題の戦争名人である。近いところに六角、朝倉、浅井がいるし、三好一党、松永弾正という老蝮もとぐろをまいて威張っている、毛利もいる、却々もって生来のウヌボレ通りに、確たる自信が持ちうるものではない。

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