Chapter 1 of 5

消えた男

「ここの女主人は何者だろうな」

この家の前を通る時、波川巡査は習慣的にふとそう思う。板塀にかこまれた小さな家だが、若い女の一人住いで、凄い美人と評判が高い。

警察の戸口調査の名簿には「比留目奈々子二十八歳、職業ピアニスト」となっているが、ききなれない名前である。なるほど稀にピアノの音がすることもあったが、しょッちゅうシェパードらしい猛犬が吠えたてているので有名だった。

今日もシェパードが吠え立てている。するとカン高い女の声がきこえた。

「なんですって! 小包……知りませんよ……脅迫するんですか!」

波川巡査は思わず立ちどまった。とぎれとぎれにしか聞きとれないが、聞えた部分はなんとなく穏やかではない。女の語気もタダゴトではない見幕のようだ。

男の声が何かクドクドとそれに答えているようだが、これは低くて全く聞きとれない。どうやら、玄関先で応対しているらしい。また、女の声。

「知りませんたら。なんですか、言いがかりをつけて! 警察へ訴えますよ!」

この声をきいたとたんに、門の外にいた波川巡査は無意識にガラガラと門の戸をあけて、ズカズカと中へ入ってしまった。この家の一人住いの女主人がさだめし喜んでくれるだろうと思ったのである。

ところが、妙なアンバイになった。玄間の土間に二人の男がいる。

女主人の奈々子は室内から二人を見下して睨み合いの様子だったが、制服の巡査が闖入したので、同時にふりむいた三人のうち、むしろ誰よりも狼狽の色を見せたのは奈々子であった。

「なにか御用ですか」

と息をはずませて、きびしく訊く。

「通りがかりに、警察へ訴えますよという声をきいて、思わずとびこんだんですが、自分が何かお役に立つことがあるでしょうか」

「いえ、なんでもないんです。内輪の人に、親しまぎれに、冗談云ったんですのよ」

「そうですか。自分の耳には冗談のようには聞えませんでしたが……」

波川巡査は二人の男を観察した。一人は体格のガッシリした遊び人風の若い男だが、洋服は上物で、相当金のかかった服装だ。他の一人は病弱そうなインテリ風の眼鏡をかけた男で、寒そうに両手をオーバーのポケットに突ッこんでいる。土間の上に、皮製のボストンバッグが置かれていた。押売りにしては、二人の服装は悪くはない。

「なんでもないんですから、どうぞおひきとり下さいまして」

奈々子にこう云われては、それ以上居るわけにもいかないので、観察も途中で切りあげて退出せざるを得なかった。

「どうも奇妙な組合せだ。内輪の親しい同志だと云ったが、そうらしくない様子だった。あのボストンバッグの中身は何だろう? なんとなく、気にかかるな」

波川巡査は当年四十五というウダツのあがらぬ名物男。かねがね叩きこまれていた第六感という奴をヒョイと思いだして、

「そうだ。これが第六感という奴だぞ」

一町ほど先の雑貨屋の露地をまがると、波川巡査の自宅だ。帰宅したら一風呂あびて夕食をたのしみに家路をたどってきたところだが、それどころじゃない。よし、変装して追跡だ、と大急ぎでわが家へとびこんだ。

「セビロとオーバーを至急だしてくれ。夕食の仕度は後廻しだ。オイ、百合子、お前も外出の仕度をしろ。変な奴をつけるのだ」

波川の娘百合子も婦警であった。ちょうど非番で家に居たから、洋装させて、同じ事務所の社員男女が会社をひけて帰宅の途中というアベック姿。大急ぎで取って返すと、奈々子の家には幸い二人がまだ居るらしい様子。犬がウーウー唸りつづけている。どうやら二人は上りこんだらしい。

「室内へあげたんなら、怪しい来客じゃないんじゃないの?」

「そうかも知れんな。しかし、やりかけたことだから、様子を見届けよう」

物蔭にかくれて待伏せていると、やがて二人の男が門の外へ現れた。遊び人風の方が例のボストンバッグをぶらさげている。

二人は電車通りへの方向とは反対の淋しい方へ歩いて行く。

「あっちの方角へ行くんなら、歩いて行けるところに住居があるのだな。突きとめてやろう」

「ええ、そうしましょう」

二人は三十間ほどの間をおいて後をつけはじめた。出まかせに会話しながら、いかにもクッタクのない通行人のフリをして後をつけた。どうも、これがマズかったようだ。

二人はなかなか歩きやまない。とうとう世田谷の区域をすぎて、渋谷区へはいった。ここから丘にかかると、戦災で大方やられているが大邸宅地帯。この丘を越すと、渋谷の繁華街の方へでる。

世田谷で電車を降りて渋谷区まで歩いて帰宅する勤人というのは変だ。この辺へ帰宅するには他の停留所で降りなければならない。波川父娘はシマッタと顔見合せて、

「さとられたかも知れないな。しかし、奴らも電車を利用せずにこれだけ歩くというのはクサいぞ。奴らは急に二手に分れて走りだすかも知れないから、そのときはボストンバッグの奴の方を執念深く追うことにしよう」

「ピストル持ってきた?」

「持ってる」

いよいよ丘の大邸宅地域にかかった。一ツの邸宅が広さ何千坪、中には一万坪を越すような大邸宅もある。高い石塀がエンエンと曲りくねってつづき、昼でも人通りがほとんどなくて淋しいところ。石塀と庭の樹木は昔さながらの姿であるが、石塀の中の邸宅は焼けて跡形もないのが多い。

二人の男は石坂に沿うて曲った。とたんにドンと地響きがした。

「それ!」

巡査親子は夢中で走った。我ながらヘタクソな追跡ぶりに気がひけて、間隔がいくらか遠ざかっていたので、どこまでも運がわるかった。ようやく曲り角へでると、今しも遊び人風の男がインテリ風の男を肩にのせて、高い塀の上へ押し上げたところだった。親子がそれを認めたとたんに、インテリ風の男は塀の内側へ姿を消してしまったのである。

波川巡査はオーバーの下からピストルをとって、

「手をあげろ。警察の者だ」

残った男は逃げる様子もなく、まるで何事もなかったように手をあげて、

「なんですか? 怪しい者じゃないですよ」

「ボストンバッグはどうした?」

「そんなもの持ってやしません」

最初にドンと地響がしたのは石塀の内側へボストンバッグを投げこんだ音だ。波川巡査はそれに気がついて、さてこの男を捕えるべきや、石塀の中へとびこんで逃げた男を追うべきや、と思わず高い石塀を見上げた。それが運のつき。

いきなり腕をうたれて火のでる痛みをうけたとたん、手のピストルも火を吐いて地上へ落ちる。とたんにミゾオチを一撃されてひッくり返った。と同時に、百合子も顔を一撃されて地上にすッとんだ。

百合子は痛さをこらえて逃げ去る足音の方を目で追った。男は石塀の反対側の小路へいきなり曲りこんで消えてしまった。

それから二分ほどの後、ピストルの音で駈けつけたパトロールの巡査が百合子と父を助け起してくれた。事情をきいたパトロールは、

「そうですか。それじゃア、この塀の中の男を探した方が早道ですね。そう云えば、この邸内にはドーベルマンとシェパードの凄いのがいますよ。あの犬が庭に放されている限り、その男は半殺しの目にあいますぜ。そんな物音はききませんでしたか」

ところがピストルが火を吐いて地上に落ちてからというもの、近所の犬がそろってウォーウォー吠えだした。吠えられてみると、四隣遠近犬だらけ。特に一ツの犬の声に注意のできない状態であった。

「まだ八時だから、たのんで邸内を調べさせてもらいましょう。陳という中華人の家ですから、ちょッとうるさいかも知れませんがね」

表門へまわって案内を乞う。門番の小屋があって、中年の日本人の下婢が顔をだした。奥の本邸とレンラクの後、案外カンタンに庭内の捜査を許してくれたが、なるほど入口には物凄いドーベルマンとシェパードがいて、一足はいると跳びかかる構えで睨んでいる。

「その犬をつないでくれませんか」

「ええ、いま、つなぎますよ」

「ずッと放しておいたんですか」

「ええ、そう。日が暮れると、毎晩放しておくんですよ」

「すると、奴さん、やられてるな」

ところが、庭をくまなく捜したけれども、男の姿はどこにも見えない。犬と格闘した跡もない。塀をとび降りた場所にいくらか乱れが目につくだけだ。

「オヤ、なんでしょうね」

懐中電燈で執念深く捜しまわっていた百合子は、男がとび降りた地点の木の根に、小さな光るものを見つけて取りあげた。

「金の腕時計だわ。婦人用の南京虫。男が南京虫を腕にまくかしら?」

奇妙な謎の拾い物であった。

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