Chapter 1 of 8

子供のない家庭

「安子や、一寸見ておくれ」

と千吉君は家へ帰って和服に着替えると直ぐに細君を呼んだ。出入り送り迎えは欠かさないが、着替えの手伝いまでしてくれる時代はもう疾うに過ぎ去っている。結婚して六七年になれば細君も良人を理解する。この人ならこれぐらいで沢山と略見当がついて、待遇が自ら定って来る。但し粗末にするという意味では決してない。自分の都合の好い折丈け勤めて置く。気の向いた時には特に念を入れて、

「まあ、ひどい埃だこと!」

なぞと、大袈裟な表情諸共、帽子にブラシをかけて渡すことさえある。良人はその間玄関に待たされていても苦情に思わない。矢張り安子はよく気がつく、と一寸の間でも新婚当時の心持に戻る。細君の側に於ても、これ丈けのことをして置けば、まさかの場合に言う丈けのことが言える。

「おい、安子、刺が立ったんだよ」

と千吉君は再び呼んだ。

「はい、唯今」

と細君は台所から出て来て、

「何うかなさいましたの?」

「指に刺を通したんだよ。この爪の間に見えるだろう?」

と千吉君は右の手の中指を突き出して、

「馬鹿を見た、一寸電信柱へ触ったばかりに」

「これは取れませんわ、毛抜きでなくちゃ」

と細君は毛抜きを持って来て試みたが、矢張り思わしくない。

「針で取りましょう」

「痛いだろうね?」

と千吉君は意気地のないことを言う。

「少しの我慢ですわ」

と細君は無論自分の我慢でない。早速針の先を焼いて何等の躊躇もなく荒療治に取りかゝった。

「痛い/\!」

「でも少し掘らなけりゃ取れませんもの」

「他の指だと思ってひどいことをしてくれるな。爪の肉はクイックといって身体中で一番痛いところになっている」

と千吉君は余り痛いので、学校時代に習った英語を思いだした。

「これじゃ手が逆ですから何うしても駄目ですわ。斯う坐り直って下さい」

と細君も自ら居住いを換えて、

「斯うよ」

と横から良人を抱くように構えた。しかし深く食い込んでいるので容易に抜けない。間もなく針先の都合上夫婦は悉皆寄り添ってしまって、頬と頬が触れ合うばかりになった。

「おゝ痛い!」

「然う動いちゃ駄目よ」

「療治が荒いんだもの、お前のは」

「動くからですわ。もう少しよ……取れたわ、到頭」

ところへ細君の姪が二階から下りて来て襖を明けたが、

「あら、御免下さい」

と慌てゝピシャリと又締めた。

「宜いのよ、八千代さん」

と言う一方細君は、

「お退きなさいよ」

と良人を突き飛ばした。千吉君は不意を食ってったまゝ、

「ハッハヽヽヽ」

と力なく笑い出した。同時に何か落して破った音が台所から聞えたので、

「お里も覗いていたんだよ。若いものは妙に気を廻して困る」

八千代さんは再び襖を明けて、今度は安心して入って来た。

「お帰り遊ばせ」

「指に刺を立てゝね、叔母さんに取って貰っていたところです」

と千吉君は弁解らしく指を見せなければならなかった。

「八千代さん、この針を仕舞って頂戴」

と細君も良人の言葉に証拠を添える積りか、針を八千代さんに渡して、

「お里や、何を壊したの? 真正に粗々っかしい人ね」

と台所へ窘めに行った。何かというと覗見をして厭な人ねとも言えない。尤ももうお昼の支度の出来る頃である。

この刺の件は慌てもの村島千吉君の日常を伝える一端になる。お昼を食べながら自ら説明したところによると、千吉君は何ういう料簡か停留場から家までの電信柱の数を確める気になった。二十何本か勘定して家の間近で最後の一本になった時、念の為めにその数を言って手を触れると、指先へズキンと来たとある。

「八千代さん、電信柱も下の方でコールタールの塗ってあるあたりです。後から見ると馬力か何かが中って少しさゝくれていました。刺が出ていたんですね。丁度そこへ心持ち叩く積りで手を出したから溜まりません」

「探究の犠牲ですわね」

と八千代さんは女子大学生丈けにむずかしい受け答えをして、

「そうして電柱の数は何本でございましたの?」

「それがですよ、馬鹿な話です。ズキンと脳天まで響いた拍子に二十二本だったか二十三本だったか忘れてしまったんです」

「まあ! オホヽヽ」

「しかし考えて見ると不思議ですね。この無限に広い宇宙間で、あんな針の先ほどのものが正にこの狭い爪の間へ割り込んだんですからね。私は痛いながらも偶然の威力に敬意を表しましたよ」

「刺を立てゝ敬意を表していれば世話はありませんわ。あなたは何でも余計なことをなさるからいけないんですよ」

と細君は黙っていなかった。

「全く余計なことさ。考えて見れば触る必要はなかったんだもの」

「いゝえ、電信柱なんか勘定するのが抑余計なんですよ」

「こいつは大失策だ。根本的にいけないのかい?」

と温順な千吉君は争いもしなかった。

「叔父さんは散々ね」

と八千代さんは笑っている。

「あなたのお陰で到頭苦労が一つ殖えましたのよ」

と細君はこの余計なことで思い出したように訴えた。

「何が?」

「到頭生れたんですよ」

「生れた? 何匹?」

「七匹ですよ。先刻お里が見つけたんです。これだから私、女犬は厭やだと初めから申上げたじゃありませんか?」

「今更仕方がない。育てるさ」

「皆好い毛並みで可愛いのよ」

と八千代さんはもう見て来ている。

「何処です? 物置?」

と千吉君は膝を立てた。

「いけませんよ、御飯を食べかけて。あなたはまるで子供のようね」

と細君は悉皆良人を支配している。

「皆男だと宜いがなあ」

「然うは参りませんわ」

「何方が多い?」

「未だよくわかりませんのよ。ポチが怒って寄せつけないんですもの」

「何方でも宜いや。子供がないから犬でも育てるさ」

と千吉君は大きく出た。この子供がないからというのは千吉君に取って最も有力な武器である。これを言われると細君は直ぐに黙ってしまう。尤もこの際は相手の口を封じる為めでなく、自ら慰める為めに利用したので、その証拠には口の下から、

「七匹だね?」

と念を押した。七疋を内心尠からず苦に病んでいるのである。元来ポチを牝犬と承知で貰って来た時、細君は無論反対した。しかし犬も人間も同じに思っている千吉君はこの頃の文化婦人は然う子を生まないと主張した。押し問答の結果、若し生んだら自ら奔走して一匹残らず友人間へ片付けるという条件で細君を納得させた丈けに責任を感じている。

刺から犬になって話が少時途絶えた後、細君は、

「今日のお見送りは大勢でございましたの?」

と当然の質問に移った。千吉君は海外視察に出発する同僚を見送って帰って来たのである。

「皆来たよ。社長までやって来た。洋行は景気が好いね。羨ましくなった」

「小川さんも御一緒なのにお気の毒ですわね。些っとはおよろしいのでしょうか?」

「いゝや、好くないんだよ。盲腸炎と定って入院したそうだ。これから一寸見舞いに行かなければならない」

と千吉君は食事を終って、

「物置かい?」

「小川さんですか? ポチですか?」

「小川君も見舞うけれど、ポチも見て来る。ポチのことゝいうとお前は妙に煩さがるんだね?」

「然ういう次第でもありませんけれど、つい……」

「つい何うしたんだい?」

「それは叔父さんが御無理よ。小川さんのことゝポチのことを一緒に仰有るもんですから、私だって何方かしらと思いましたわ」

と八千代さんは公正な判定をした。

「八千代さんは叔母さん贔屓ですね。二人に一人じゃ敵わない。降参します。安子や、小川さんは病院だから訊かなくても分っているけれど、ポチは何処だい?」

「オホヽ、然う分りよく仰有って下さるなら、お大切のお子さん達のことですから私が御案内申上げましょう」

と細君は良人を伴って台所へ行った。ポチは台所の揚げ板の下で生んだのである。

「可愛いわね。一匹だけは私がもうお友達にお約束してあるのよ」

と八千代さんも覗き込みながら言う。

「それは有難い。私の方には未だ心当りがありませんから、成るべく広く勧誘して下さい。ミルク代の二月や三月は持参金に背負わせてやります」

「あら、そんなに手を出すと食いつかれますよ。でも随分産むものね」

と細君は感心している。

「矢っ張り野犬だったね。文化犬じゃない」

と千吉君は尚おポチの頭を撫でながら、

「しかし皆器量好しだよ。確かに七匹かね? 親の腹へもぐってしまって何うも勘定が出来ない」

犬の子の検分が済んで茶の間へ戻ると、細君は、

「あなた、洋服でお出になる? 和服?」

と訊いた。仲の好い夫婦だから、時に我儘はあっても、覚えずこんな甘ったるい口調になる。但しこれは洋服で行ってくれゝば一番世話がないという意味だった。この階級の奥さま方は良人の和装によって自分達の好尚が鑑定されると思っているから、見立てに人知れぬ苦労をする。和服を着せて良人を出すのは先方の家の細君への一種の示威運動である。しかしそんな都合に頓着ない千吉君は、

「和服で行こう」

と答えた。何ういう廻り合せか、細君があの襦袢を早く縫ってなぞと胸算用をしている時に限って、良人は和服を要求する。確信をもって選定した柄を仕立て上げ、何も彼も揃えて待ち構えていると、洋服の方が便利だと仰有る。強いて着せようとすれば怒るから尚お始末が悪い。この日も何か然うした関係があったか、それとも看護婦に示威運動は不必要と思ったのか、細君は、

「病院なら洋服の方が宜かないこと?」

と再び伺いを立てた。

「いゝや、病院から橋口君のところへ廻る。謡曲を聞かされるんだから和服の方が楽だよ」

と千吉君は交際家だから日曜がナカ/\忙しい。

「それなら和服になさいませ」

と細君は初めて和服の必要を認めて、嗜みの程を見せる為めに早速箪笥にかゝった。

「橋口さんて、この間の晩謡曲をなすったお方ですの?」

と新聞を見ていた八千代さんが顔を上げた。

「然うです。素晴らしい声でしたろう?」

「大変な不評判よ。私も八千代さんも一晩頭痛がしましたわ」

と細君が言う。

「声量丈けはありますのね」

とは八千代さんの批評だった。

「可哀そうに、声量丈けならポチだってありますよ」

「あれでお上手なんでしょうか?」

「お上手なんでしょうよ。しかし彼処の奥さんは余程頭の丈夫なお方でしょうね?」

「さあ、少くとも御本人は可なり上手の積りでしょう。聞かせたくて仕様がないんですね。実は今朝見送りで一緒になったら、今日は閑かと訊きましたから、閑だと答えると、それじゃ又聴かせに行こうと言うのです。私は安子は我慢しても、あなたの御勉強のお邪魔になると思って、此方から伺うことにして来たんです。些か困るなあ。あの男には」

と好人物の千吉君、同僚の謡曲を持て余している。

「大いに困りますわ。私は頭痛持ちですし、近所の外聞もございますからね」

と良人の交際の為めには随分無理な辛抱もするこの細君が斯う躍起になるところを見ると、橋口さんの謡曲というのは実際並み大抵のものでないらしい。

「実は尠からず困っているんだよ。聴かせる丈けなら未だ宜いが、昨今は教えてやると言うんでね」

「まあ、教えたがるんですか? あんな謡曲を! あの奥さんもヨク/\の人ね」

「奥さんに科はないよ」

「でも少し芸術心のある人なら何とか故障を申しますわ」

「それが連れ添っているとね、然う悪くもないんだろうさ。あれでナカ/\玄人向きだと言う人もあるよ。実は内藤君も到頭説きつけられてしまって、今日が二度目の稽古だそうだ」

と千吉君は他の吹聴に託つけて自分のことを告白しているような口吻だった。

「厭やですよ/\、あなた。実は実はって、あなたも最早お弟子入りをなすったんじゃありませんの?」

と果して細君は感づいた。斯ういう経緯には八千代さんも興味を持って傾聴する。将来良人を操縦するに当って何れくらい参考になるか知れない。

「いや、未だ弟子入りはしないが、余り勧めるんでね、兎に角教え振りを拝見に行く約束をしたのさ。然うでもしなければ先生今晩ノコ/\やって来るからね」

「教え振りを拝見に上るのはお弟子入りも同じことじゃありませんの? 可怪しな人ねえ、あなたは。同じお稽古をなさるなら真正の先生をお頼みになっちゃ如何?」

「それが然う行くもんか。あんなに親切に勧めてくれるんだもの。それに犬が片付く」

「犬ですって?」

「先方は教えたい一心だろう? 牧野君の絵と同じことさ。あの人は私が入門した祝いにこの竹を描いて表装までしてくれた。橋口君だってあの謡曲を教わってやれば全く只ということはない。犬の二三匹は屹度貰ってくれる」

と千吉君は馬鹿なことを言っている。

「ナカ/\勘定高いんですね」

と細君は覚えず笑い出したが、

「けれども御冗談は措きまして、イヨ/\お始めになると又一晩おそい日が殖えますわ。牧野さんのお宅の南画が一晩に関さんのお宅の碁が一晩ですから、一週三晩になりますよ」

「ところが橋口君は初めの中は少くとも一週二晩やらなけりゃ、いけないと言っている」

「すると晩い日の方が多くなるじゃありませんの?」

「成程、多くなるね。しかし交際だから拠ろない。何だって皆はこんなに芸を教えたがるんだろうなあ?」

「それはあなたが断り切れない性分ですから、つけ込むんですわ」

「矢っ張り人が好いのか? 余り好い積りでもないんだけれどね。無暗に勧めやがる。木下君は運動が必要だといって馬を勧めて困る。この間馬に乗って来たろう?」

「馬丈けはよして下さいよ。怪我でもなすったら何うなさいますの?」

「馬は迚も問題にならないが、謡曲はもう落城だね。実は今日は家でやろうと相談をかけられたんだが、お前が少し病気だからと言って断ったのさ。習うとなれば時折は来て貰わなければならない」

「家では御免蒙りますよ。そんなにしてまで犬を貰って戴くこともないじゃありませんか?」

「しかし一晩は橋口君のところ一晩は内藤君のところと実はもう定っているんだからね。此方丈け断るのは変だよ」

「然う御相談が纒まっていますのなら御勝手ですわ。盗み泥棒をなさるのとは違いますから、私も強いて反対は致しません」

「手厳しいんだね」

と千吉君は何うやら斯うやら細君を納得させて着替えにかゝった。殊に相客があると承知したからには、安子夫人が、示威運動に念を入れたことは申すまでもない。

「真正に困った人ね。何でも彼でも引き受けてしまって」

と細君は良人を送り出した後愚痴をこぼした。

「矢っ張り叔父さんは御評判が好いんですわ。同僚の方だって嫌っていらっしゃるのなら然う/\勧めはなさらないでしょう?」

と八千代さんが応じた。

「それもありましょうね」

とこの辺は細君も甘い。

これから叔母姪は長火鉢の座蒲団に根が生える。忙しい/\といっても子供のない家庭は呑気なものだ。それでもお互に立とうという気はある。然う思いつい話し込んでいるところへ玄関の格子が明いて、八千代さんが取次に出ない中に千吉君が入って来た。

「まあ、何かお忘れもの? あらまあ!」

と細君が驚いたのも道理、千吉君は羽織と袴を泥だらけにしていた。

「大失策だ」

「又飛び乗りをなすったんでしょう?」

「いや、飛び下りの方だ」

と千吉君は手洗鉢で手を洗って来た。早速不断着に替えながら、

「馬鹿な話さ。電車に乗って切符を切る段になると小川君の病院が分らない。考えて見れば入院と聞いた丈けで見舞いに出掛けたんだね。何処の病院だか知らないんだ。慌てゝいるよ。占まったと思って飛び下りると美事泥濘のところへ転んでしまった。手を擦り剥いたよ、こんなに」

「いくら御自分のお身体でも些っとは大切になさいませよ。お羽織がこんなに裂けているじゃありませんか?」

と細君は良人の傷よりは羽織の疵を検めている。

「考えて見ると急いで飛び下りるにも及ばなかった。病院は病院で、そのまゝ乗って橋口君のところへ行けば宜かったのに、真正に馬鹿な話さ」

「先刻病院なら叔母さんに訊かなくても分るって、オホヽヽヽ」

と八千代さんは怺え兼ねて笑い出した。

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