Chapter 1 of 5

失業の裏に夫人あり

小室君は養父の紹介だから、何とかなるだろうと思って出掛けた。養父は中風で、もう廃人だけれど、月二百円以上の恩給を食んでいる。セッセと働いて百円足らずにしかならなかった小室君よりもグッと豪い。逓信省の局長まで行って、その後民間会社の重役を勤めた人だ。長い間には多くの後輩の面倒を見ている。因みに、小室君は当年三十歳、而立というところだが、却って職を失って、新たにスタートを切り直す努力をしているのだった。

「お父さんには逓信省時代にお世話になりました」

会ってくれた重役の宗像さんは御繁忙中を迷惑がりもせずに、如何にも懐しそうに言った。養父は退っ引きならないところへ差向けたのらしい。そこは銅の会社だった。常務取締ともなれば、下級社員の一人や二人何うにでも融通がつくから、叶うことなら、先輩の恩顧に一遍コッキリ酬いたいものと宗像さんは考えていた。

「この頃は如何ですか?」

「寝たり起きたりで、好くも悪くもなりません。あのまゝで固まるのでしょう」

「外出はなさらないんですか?」

「近所廻りは杖をついて歩きます。もう二度やっているんですから、油断がなりません」

「元気な人でしたが、病気には勝てないと見えますな」

「はあ。それに年も年です」

「お幾つになりましたか?」

「六十八ということですが、戸籍の方が二つ間違っているそうですから、本当は七十です」

「そんなになりますかな、もう。ふうむ」

「悉皆弱っています」

「ところで、あなたの用件ですが、前の会社は何うしてお引きになりましたか?」

「別にこれという失策はなかったんですけれど……」

と小室君は覚えず頭を掻いて、行き詰まった。任意の辞職でない。首になったのだから、具合が悪い。

「五年も勤めていたのに惜しいことです。同僚と衝突でもしたんですか?」

「いや/\」

「単に一身上の都合によりと書いてあるが、その辺をハッキリ承わって置かないと、相談が出来ません」

と宗像さんは眼鏡を外して、履歴書に見入っていた。

「実は欠勤が多かったものですから」

「病気でもなすったんですか?」

「いや、自分はこの通り頑健ですが、父が二度目の脳溢血をやった時、一月ばかりついていました。続いて妻の病気の為め一月余り……」

「奥さんは何ういう御病気でしたか?」

「婦人にあり勝ちのヒステリーです」

「成程」

「側についていないと承知しないような状態でしたから、つい会社の方が疎かになりました。三月ぶりで出勤しましたら、君は会社の仕事よりも奥さん奉仕が大切なんだろうと課長が皮肉を言いました」

「成程」

「道理です。これは少し気をつけて貰わなければならないと思って、家へ帰って、妻に話すと、妻は忽ち発作を起しました。私が婉曲に離縁話を持ち出したと言うんです。父も頭がボヤ/\していますから妻の曲解をそのまゝ信用して、家庭が大切か? 会社が大切か? さあ、何うだ? そんな会社はやめてしまえと申しました。父は言い出すと後へ引きません」

「少し短兵急なところがありますね。それでいて、後から後悔する」

「そうですよ、父子でワイ/\言うから、私も溜まりません。差当り二人の心持を静める為め、辞表を書いて見せました。一時の緩和策です。無論提出の意志はありません。翌日、辞表を机の上に置いたまゝ出勤したら、父が後から速達で会社へ送ってしまったんです」

「小室さんのやりそうなことだ。ハッハヽヽ」

「辞表を出して平気で勤めている人間はない筈です。この通り会社へ来ているんですからと言って、私は自分の意志でないことを説明したんですけれど、課長は理解してくれません。そういう家庭の事情なら本当の仕事は出来ないからという次第で、到頭引かなければならないことになりました」

「そういう家庭の事情だと、この会社でも矢っ張り困りますよ」

「いや、父も今度は考えています。強情な人ですから、悪かったとは言いませんが、これからはお互にしっかりやろうと言っていました」

「奥さんの御病気は何うですか?」

「悉皆納まっています。あの病気は納まれば何でもないんですから」

「しかし君が毎日家にいるから納まっているんじゃないですか? 出勤すると又始まるかも知れませんよ」

「今度は大丈夫です。自分の至らない為めに主人を失業させたと言っていますから」

「お子さんはないんですか?」

「はあ。子供があると好いですけれど、ないものですから、兎角詰まらない心配をします」

「はてな」

と重役の宗像さんは考え込んだ後、

「私は忙しいから、これで失敬して、人事課長を出しましょう」

と言って、立ち上った。

「何分宜しくお願い申上げます」

「一種の人物試験だと思って、会って下さい。訊かれたことは事実ありのまゝに答えるが宜いです」

「はあ」

「唯一つ今のお話の、前の会社の方は、君が盲腸炎をやって長く患ったことにして置き給え。病気は明かに一身上の都合だから」

「御注意有難うございます。それでは盲腸炎で長く患って、結局やめたことに致します」

「うむ。半年ぐらい」

「はあ」

「家庭の事情では困る。盲腸は切ってしまえば、綺麗さっぱりで、後に残らない。私も及ぶ限り御便宜を計る積りだが、こういうことは人事課長の領分だから、その積りで銓衡を受け給え」

「はあ」

「それじゃ失敬する。お父さんに宜しく」

「有難うございます」

と小室君は膝まで手を下げて、お辞儀をした。

大分待たせて、人事課長が現れた。中途求職のものにあっては前の会社をやめた理由が何より重大問題になる。喧嘩をして首になったなぞと言えば、もう脈はない。小室君は盲腸炎を患って半年欠勤を続けた為め、規定に従って休職になったと申立てた。

「半年とは長かったですな。私も盲腸が悪くて、再発又再発、到頭切りましたが、初めからで、かれこれ三月かゝりました」

「私は五六ヵ月苦しみました」

「お切りになったんですか?」

「はあ。最後に切りました。手術を恐れて逃げ廻っていた為め、馬鹿を見ました。初めから切ってしまえば何のこともなかったんです」

「お見かけしたところ、もう悉皆お宜しいようですな」

「はあ、元来は頑健の方です」

「一つ申上げて置きますが、この会社は軍隊式ですよ。命令が下ると猶予がありません。山へでも川へでも飛んで行きます」

「使ってさえ戴けば、水火の中も辞さない積りです」

「自分の意志は利きません。山というのは鉱山と精煉所です。川というのは川崎の工場です。誰が何処へ行って何年勤めるか、その辺は全然会社の都合で、人事課長の私にも分りません。中には一生涯山へ入ったまゝ、東京へ戻れないでしまう人もあります」

「何処へでも喜んで参ります。決して贅沢は申しません」

「それから唯の商事会社と違って、工場の方の現業と併行ですから、忙しいこと日本一です。時には夜業があります。日曜に臨時召集されることもあるんですから、欠勤が一番困ります」

「はあ」

「学校を出たばかりのものは厳重な体格検査をして採用しています。結局、話が健康問題に戻りますが、御自信がありますか?」

「充分ございます」

「暑中休暇が一週間あります。しかしこれは殆んど取る人がありません。欠勤で差引いています。それですから大抵無欠勤です。皆実によく勉強します」

「私も及ばずながら努力します」

「話は大体それぐらいのところでしょう。何れ宗像さん初め幹部の方と相談して御返事申上げます」

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