Chapter 1 of 5

その第六話です。

シャン、シャンと鈴が鳴る……。

どこかでわびしい鈴が鳴る……。

駅路の馬の鈴にちがいない。シャン、シャンとまた鳴った。

わびしくどこかでまた鳴った。だが、姿はない。

どこでなるか、ちらとの影もないのです。見えない程にも身延のお山につづく街道は、谷も霧、杜も霧、目路の限り夢色にぼうッとぼかされて只いち面の濃い朝霧でした。しっとり降りた深いその霧の中で、シャンシャンとまた鈴が鳴りました。遠くのようでもある。近くのようでもある。遠くと思えば近くに聞え、近くと思えば遠くに聞えて、姿の見えぬ駅路の馬の鈴が、わびしくまたシャンシャンと鳴りました。――と思ったあとから、突如として、声高に罵り合う声が伝わりました。

「野郎ッ、邪魔を入れたな。俺のお客だ、俺が先に見つけたお客じゃねえかッ」

「何ょ言やがるんでえ、おいらの方が早えじゃねえか、俺が見つけたお客だよ」

鈴のぬしの馬子達に違いない。暫く途絶えたかと思うとまた、静かな朝の深い霧の中から、夢色のしっとりと淡白いその霧の幕をふるわせて、はげしく罵り合う声が聞えました。

「うるせえ野郎だな。どけッてたらどきなよ。お客様はおいらの馬に乗りたがっているじゃねえか。しつこい真似すると承知しねえぞ」

「利いた風なセリフ吐かすないッ。うぬこそしつこいじゃねえか。おいらの馬にこそ乗りたがっていらッしゃるんだ。邪魔ッ気な真似するとひッぱたくぞ」

「畜生ッ、叩てえたな。おらの馬を叩てえたな。ようしッ、俺も叩てえてやるぞ」

「べらぼうめッ。叩いたんじゃねえや。ちょッとさすったばかりじゃねえか。叩きゃおいらも叩いてやるぞ」

「野郎ッ、やったな!」

「やったがどうした!」

「前へ出ろッ、こうなりゃ腕ずくでもこのお客は取って見せるんだ。前へ出ろッ」

「面白れえ、俺も腕にかけて取って見せらあ、さあ出ろッ」

ドタッ、と筋肉の相搏つ音がきこえました。――しかしそのとき、

「わははは。わははは。やりおるな。なかなか活溌じゃ。活溌じゃ。いや勇ましいぞ。勇ましいぞ」

不意にうしろの濃い霧の中から、すさまじい笑声が爆発したかと思うと、降って湧いたかのように、ぽっかりと霧の幕を破りながら立ち現れた着流し深編笠の美丈夫がありました。誰でもないわが退屈男です。まことに飄々乎として、所もあろうにこんな山路の奥の身延街道に姿を現すとは、いっそもう小気味のいい位ですが、しかし、当の本人はそれ程でもないと見えて、相変らず言う事が退屈そうでした。

「元禄さ中に力技修業を致すとは、下郎に似合わず見あげた心掛けじゃ。直参旗本早乙女主水之介賞めつかわすぞ。そこじゃ、そこじゃ。もそッと殴れッ、もそッと殴れッ。――左様々々、なかなかよい音じゃ。もそッと叩け、もそッと叩け」

「え?……」

驚いたのは掴み合っている馬子達でした。

「三公、ちょッと待ちな。変なことを言うお侍がいるから手を引きなよ。――ね、ちょッと旦那。あッし共は力技の稽古しているんじゃねえ。喧嘩しているんですぜ」

「心得ておる。世を挙げて滔々と遊惰にふける折柄、喧嘩を致すとは天晴れな心掛けと申すのじゃ。もそッと致せ。見物致してつかわすぞ」

「変っているな。もそッと致せとおっしゃったって、旦那のような変り種の殿様に出られりゃ気が抜けちまわあ。じゃ何ですかい。止めに這入ったんじゃねえんですかい」

「左様、気に入らぬかな。気に入らなくば止めてつかわすぞ。一体何が喧嘩の元じゃ」

「何もこうもねえんですよ、あッちの野郎はね。横取りの三公と綽名のある仕様のねえ奴なんだ。だからね、あっしが見つけたお客さんを、またしても野郎が横取りに来やがったんで、争っているうちに、ついその、喧嘩になったんですよ。本当は仲のいい呑み友達なんだが、妙な野郎でね、シラフでいると、つまりその酒の気がねえと、奇態にあいつめ喧嘩をしたがる癖があるんで、どうも時々殿様方に御迷惑をかけるんですよ。ハイ」

「ウフフ、陰にこもった事を申しおる喃。シラフで喧嘩をしたがる癖があるとは、近頃変った謎のかけ方じゃ。では何かな、横取りの三公とか申すそちらの奴は、酒を呑ますとおとなしくなると言うのじゃな」

「えッへへ、と言うわけでもねえんだが、折角お止め下すったんだからね、お殿様がいなくなってからすぐにまた喧嘩になっては、お殿様の方でもさぞかし寝醒が悪かろうと、親切に申しあげて見ただけのことなんです。いいえ何ね、それも沢山は要らねえんだ、ほんの五合ばかり、僅か五合ばかり匂いを嗅がせりゃけっこう長くなるんですよ。へえい、けっこう楽にね」

「ウフフ、なかなか味な謎をかける奴じゃ。酒で長くなるとは、どじょうのような奴よ喃、いや、よいよい、五合程で見事に長くなると申すならば、どしょうにしてやらぬものでもないが、それにしても喧嘩のもとのそのお客はどこにいるのじゃ」

「……? はてな? いねえぞ、いねえぞ、三的! 三的! ずらかッちまったぜ。いい椋鳥だったにな。おめえがあんまり荒ッぽい真似するんで、胆をつぶして逃げちまったぜ」

「わはははは、お客を前に致して草相撲の稽古致さば、大概の者が逃げ出すわい。椋鳥とか申したが、どんなお客じゃ」

「どんなこんなもねえんですよ。十七八のおボコでね、それが赤い顔をしながら、こんなに言うんだ。あの、もうし馬方さん、身延のお山へはまだ遠うござんしょうかと、袂をくねくねさせながら、やさしく言うんでね。そこがそれ、殿様の前だが、お互げえにオボコの若い別嬪と来りゃ、気合いが違いまさあね、油の乗り方がね。だから、三公もあっしもつい気が立って、腕にかけてもと言うようなことになったんですよ。えッへへへへ。だが、それにしても、三的ゃ、酒の気がねえと、じきにまた荒れ出すんだ。ちょッくらどじょうにして下さいますかね」

「致してつかわそうぞ。あけすけと飾らぬことを申して、ずんと面白い奴等じゃ。身共も一緒にどじょうになろうゆえ、馬を曳いてあとからついて参れ」

「え?」

「身延詣でのかわいい女子に酌をして貰うなぞとは、極楽往生も遂げられると申すものじゃ。まだそう遠くは行くまい。今のその袂をくねくねさせて赤い顔を致した椋鳥とやらに、身共も共々どじょうにして貰おうゆえ、急いでついて参れ」

「ありがてえ。豪儀と話が分っていらっしゃいまさあね。全く殿様の前だが、江戸のお方はこういう風に御気性がさらッとしていらっしゃいますから、うれしくなりますよ。へッへへ、ね、おい三的! 何を柄にもなく恥ずかしがっているんだ。気を鎮めて下さるんだとよ。お酒でね、おめえの気を鎮めて下さるというんだよ。馬を曳いて、はええところあとからやって来な」

まことにこんな旗本道中というものは沢山ない。乗ればよいのに乗りもしないで、二頭の空馬をうしろに随えながら、ゆらりゆらりと大股に歩き出しました。

――行き行く道の先もいち面の深い霧です。

――その霧の中でシャンシャンと鈴が鳴る。

「なかなか風情よ喃」

「へえ」

「霧に包まれて鈴の音をききながらあてのない道中を致すのも、風流じゃと申しているのよ」

「左様で。あっしらもどじょうにして頂けるかと思うと、豪儀に風流でござんす」

行く程にやがて南部の郷を出離れました。離れてしまえば身延久遠寺までは二里少し、馬返しまでは、その半分の一里少しでした。

だのに、今の先、馬子達の草相撲をおき去りにしておいて、胆をつぶしながら逃げるようにお山へ登っていったという十七八のそのあでやかな娘は、どうしたことか見えないのです。

「はてな、三公、ちょッとおかしいぜ」

「そうよな。変だね。女の足なんだからな、こんなに早え筈あねえんだが、どこへ消えちまったんだろうね」

いぶかりながら馬子達が首をひねっているとき、霧を押し分けて坂をこちらへ、そわそわしながら小急ぎに降りて来た若い身延詣での町人がありました。しかも、そのそわそわしている容子というものが実に奇怪でした。うろうろしながら懐中を探ったかと思うとしきりに首をかしげ、かしげたかと思うとまた嗅ぐようにきょときょと道をのぞきながら、必死と何かを探し探しおりて来るのです。いや、おりて来たばかりではない。ばったり道の真中で退屈男達一行に打つかると、青ざめて言いました。

「あのうもし、つかぬ事をお尋ねいたしますが、旦那様方はどちらからお越しなすったんでございましょうか」

「背中の向いている方から参ったのよ。何じゃ」

「財布でごぜえます、もしや道でお拾いにはならなかったでござんしょうかしら?……」

「知らぬぞ。いかが致したのじゃ」

「落したのか掏摸れましたのか、さっぱり分らないのでござります。今朝早く南部の郷の宿を立ちました時は、確かに五十両、ふところにありましたんですけれど、今しがたお山へ参りまして、御寄進に就こうと致しましたら、いつのまにやら紛失していたのでござります」

「ほほう、それは気の毒よ喃、知らぬぞ、知らぬぞ。目にかからば拾っておいてつかわしたのじゃが、残念ながら一向見かけぬぞ」

「悲しいことになりましたな。手前には命にかかわる程の大金でござります。そちらのお馬子衆、あなた方もお拾いではござんせんでしたか」

「拾うもんけえ。そんなでけえ蛙を呑んだ財布を拾や、鈴など鳴らしてまごまごしちゃいねえやな、おいらも知らねえぜ」

「そうでござりまするか。仕方がござんせぬ。お騒がせ致しまして恐れ入りまする。念のため宿までいって探して参ります」

うろうろと道を探し探し降っていったのを見送りながら、馬子達がにやり目と目を見合わせると、不意に謎のようなことを囁き合いました。

「三公、どうもちッと臭えぜ」

「そうよな。虫も殺さねえような面していやがったが、あのオボコがそうかも知れねえぜ、大年増に化けたり、娘に化けたりするッて噂だからな。やったかも知れねえよ」

ちらりとその言葉を耳に入れた早乙女主水之介が、聞き流す筈はないのです。

「何じゃ、何じゃ。化けるとは何の話じゃ」

「いいえね。今の青僧の五十両ですが、ありゃたしかに掏摸れたんですよ」

「どうしてまたそれを知ってじゃ」

「いるんですよ、一匹この街道にね。それも祠堂金ばかり狙う女スリだっていうんですがね、三十位の大年増に化けたかと思うと、十七八のかわいらしい奴に化けたりするっていうんですがね。どうもさっきの娘が臭せえんです。足の早えのも、ちッとおかしいが、今登っていったばかりなのに、あの青僧がきょときょと入れ違げえにおりて来たんだからね、てっきりさっきの娘がちょろまかしたに違げえねえんですよ」

言っているとき、またひとりそわそわしながらおりて来た五十がらみの、同じように講中姿した男がありました。しかもそれがやはり言うのです。

「あのう、もし――」

「財布か」

「じゃ、あの、お拾い下さいましたか!」

「知らぬ、知らぬ、存ぜぬじゃ」

「はてね、じゃ、どうしたんだろう。お山に行くまではたしかにあったんだがな。ねえとすりゃ大騒動だ。ご免なんし――」

通りすぎて程たたぬまに、またひとりきょときょとしながら坂を降って来ると、同じように青ざめながら、ぶしつけに言いました。

「もしや、あの?」

「やはり財布か」

「へえい。そ、そうなんです。祠堂金が二百両這入っていたんですが、もしお拾いでしたら――」

「知らぬ、知らぬ、一向に見かけぬぞ」

「弱ったことになったな。すられる程ぼんやりしちゃいねえんだから、宿へでも置き忘れたのかしら――。いえ、どうもおやかましゅうござんした」

行き過ぎるや同時に、退屈男の双のまなこは、キラリ冴え渡りました。ひとりばかりか三人迄も同じ難に会うとは許し難い。

「よほどの凄腕と見ゆるな」

「ええもう、凄腕も凄腕も、この三月ばかりの間に三四十人はやられたんでしょうがね、只の一度も正体はおろか、しッぽも出さねえですよ」

「根じろはどこにあるか存ぜぬか」

「それがさっぱり分らねえんです。お山に巣喰っていると言う者があったり、いいやそうじゃねえ、南部の郷にうろうろしているんだと言う者があったりしていろいろなんだがね、どっちにしてもあッしゃさっきの娘が臭せえと思うんですよ。――きっとあの手でやられたんだ、おいらにさっき道をきいたあの伝でね、袂をくねくねさせながら恥ずかしそうに近よって来るんで、ぼうッとなっているまにスラれちまったんですよ。――それにしても姿の見えねえっていうのは奇態だね、どこへずらかッちまったんだろうな。なにしろ、この霧だからね」

だが、身延の朝霧、馬返しまで、という口碑伝説は、嘘でない。聖日蓮の御遺徳の然らしむるところか、それとも浄魔秘経、法華経の御功徳が然らしむるところか、谷を埋め、杜を閉ざしていた深い霧も、お山名代のその馬返しへ近づくに随って、次第々々に晴れ渡りました。と同時に、遙か向うの胸つくばかりな曲り坂の中途にくっきり黒く浮いて見えたのは、まさしく女の小さな影です。

「よッ、あれだ、あれだ。殿様、あの女がたしかにそうですよ。だが、もうお生憎だ。この馬返しから先は、お供が出来ねえんだから、スリはともかく、お約束のどじょうの方はどうなるんですかね」

「一両遣わそうぞ。もう用はない、どじょうになろうと鰻になろうと勝手にせい」

まことにもう用はない。ひとときの退屈払いには又とない怪しき女の姿が分ったとすれば、見失ってはならないのです。吹替小判をちゃりんと投げ与えておくと、すたすたと大股に追っかけました。

Chapter 1 of 5