Chapter 1 of 16

1

I dwelt alone

In a world of moan,

And my soul was a stagnant tide,

Edgar Allan Poe

私は、呻吟の世界で

ひとりで住んで居た。

私の霊は澱み腐れた潮であつた。

エドガア アラン ポオ

その家が、今、彼の目の前へ現れて来た。

初めのうちは、大変な元気で砂ぼこりを上げながら、主人の後になり前になりして、飛びまはり纏はりついて居た彼の二疋の犬が、やうやう柔順になつて、彼のうしろに、二疋並んで、そろそろ随いて来るやうになつた頃である。高い木立の下を、路がぐつと大きく曲つた時に、

「ああやつと来ましたよ」

と言ひながら、彼等の案内者である赭毛の太つちよの女が、片手で日にやけた額から滴り落ちる汗を、汚れた手拭で拭ひながら、別の片手では、彼等の行く手の方を指し示した。男のやうに太いその指の尖を伝うて、彼等の瞳の落ちたところには、黒つぽい深緑のなかに埋もれて、目眩しいそはそはした夏の朝の光のなかで、鈍色にどつしりと或る落着きをもつて光つて居るささやかな萱葺の屋根があつた。

それが彼のこの家を見た最初の機会であつた。彼と彼の妻とは、その時、各この草屋根の上にさまようて居た彼等の瞳を、互に相手のそれの上に向けて、瞳と瞳とで会話をした――

「いい家のやうな予覚がある」

「ええ私もさう思ふの」

その草屋根を見つめながら歩いた。この家ならば、何日か遠い以前にでも、夢にであるか、幻にであるか、それとも疾走する汽車の窓からででもあつたか、何かで一度見たことがあるやうにも彼は思つた。その草屋根を焦点としての視野は、実際、何処ででも見出されさうな、平凡な田舎の横顔であつた。而も、それが却つて今の彼の心をひきつけた。今の彼の憧れがそんなところにあつたからである。さうして、彼がこの地方を自分の住家に択んだのも、亦この理由からに外ならなかつた。

広い武蔵野が既にその南端になつて尽きるところ、それが漸くに山国の地勢に入らうとする変化――言はば山国からの微かな余情を湛へたエピロオグであり、やがて大きな野原への波打つプロロオグででもあるこれ等の小さな丘は、目のとどくかぎり、此処にも起伏して、それが形造るつまらぬ風景の間を縫うて、一筋の平坦な街道が東から西へ、また別の街道が北から南へ通じて居るあたりに、その道に沿うて一つの草深い農村があり、幾つかの卑下つた草屋根があつた。それはTとYとHとの大きな都市をすぐ六七里の隣にして、譬へば三つの劇しい旋風の境目に出来た真空のやうに、世紀からは置きつ放しにされ、世界からは忘れられ、文明からは押流されて、しよんぼりと置かれて居るのであつた。

一たい、彼が最初にこんな路の上で、限りなく楽しみ、又珍らしく心のくつろいだ自分自身を見出したのは、その同じ年の暮春の或る一日であつた。こんな場所にこれほどの片田舎があることを知つて、彼は先づ驚かされた。しかもその平静な四辺の風物は彼に珍らしかつた。ずつと南方の或る半島の突端に生れた彼は、荒い海と嶮しい山とが激しく咬み合つて、その間で人間が微小にしかし賢明に生きて居る一小市街の傍を、大きな急流の川が、その上に筏を長々と浮べさせて押合ひながら荒々しい海の方へ犇き合つて流れてゆく彼の故郷のクライマックスの多い戯曲的な風景にくらべて、この丘つづき、空と、雑木原と、田と、畑と、雲雀との村は、実に小さな散文詩であつた。前者の自然は彼の峻厳な父であるとすれば、後者のそれは子に甘い彼の母であつた。「帰れる放蕩息子」に自分自身をたとへた彼は、息苦しい都会の真中にあつて、柔かに優しいそれ故に平凡な自然のなかへ、溶け込んで了ひたいといふ切願を、可なり久しい以前から持つやうになつて居た。おお! そこにはクラシックのやうな平静な幸福と喜びとが、人を待つて居るに違ひない。Vanity of vanity, vanity, all is vanity !「空の空、空の空なる哉都て空なり」或は然うでないにしても……。いや、理窟は何もなかつた。ただ都会のただ中では息が屏つた。人間の重さで圧しつぶされるのを感じた。其処に置かれるには彼はあまりに鋭敏な機械だ、其処が彼をいやが上にも鋭敏にする。そればかりではない、周囲の騒がしい春が彼を一層孤独にした。「嗟、こんな晩には、何処でもいい、しつとりとした草葺の田舎家のなかで、暗い赤いランプの陰で、手も足も思ふ存分に延ばして、前後も忘れる深い眠に陥入つて見たい」といふ心持が、華やかな白熱燈の下を、石甃の路の上を、疲れ切つた流浪人のやうな足どりで歩いて居る彼の心のなかへ、切なく込上げて来ることが、まことに屡であつた。「おお! 深い眠、おれはそれを知らなくなつてからもう何年になるであらう? 深い眠! それは言はば宗教的な法悦だ。おれの今最も欲しいのはそれだ。熟睡の法悦だ。即ち肉体がほんとうに生きてゐる人の法悦だ。俺は先づそれを求める。それのある処へ行かう。さあ早く行かう!」彼は自分自身の心のなかでさう呟いた。或は、口に出してさへ呟いた。さうして矢も楯もたまらない、郷愁に似たやうな名づけやうのない心が、その何処とも知れない場所へ、自分自身を連れて行けとせがむのであつた……。(彼は老人のやうな理智と青年らしい感情と、それに子供ほどの意志とをもつた青年であつた。)

その家が、今、彼の目の前に現れて来たのである。

道の右手には、道に沿うて一条の小渠があつた。道が大きく曲れば、渠もそれについて大きく曲つた。そのなかを水は流れて行き流れて来るのであつた。雑木山の裾や、柿の樹の傍や厩の横手や、藪の下や、桐畑や片隅にぽつかり大きな百合や葵を咲かせた農家の庭の前などを通つて。幅六尺ほどのこの渠は、事実は田へ水を引くための灌漑であつたけれども、遠い山間から来た川上の水を真直ぐに引いたものだけに、その美しさは渓と言ひ度いやうな気がする。青葉を透して降りそそぐ日の光が、それを一層にさう思はせた。へどろの赭土を洒して、洒し尽して何の濁りも立てずに、浅く走つて行く水は、時々ものに堰かれて、ぎらりぎらりと柄になく閃いたり、さうかと思ふと縮緬の皺のやうに繊細に、或は或る小さなぴくぴくする痙攣の発作のやうに光つたりするのであつた。或は、その小さな輝きが魚の鱗のやうに重り合つて居るところもあつた。涼しい風が低く吹いて水の面を滑る時には、其処は細長い瞬間的な銀箔であつた。薄だの、もう夙くにあの情人にものを訴へるやうなセンチメンタルな白い小さい花を失つた野茨の一かたまりの藪だの、その外、名もない併しそれぞれの花や実を持つ草や灌木が、渠の両側から茂り合ひかぶさりかかると、水はそれらの草のトンネルをくぐつた。さうしてその影を黒く涼しく浮べては、ゆらゆらと流れ去つた。或る時には、水はゆつたりと流れ淀んだ。それは旅人が自分の来た方をふりかへつて佇むのに似て居た。そんな時には土耳古玉のやうな夏の午前の空を、土耳古玉色に――或は側面から透して見た玻璃板の色に、映して居るのであつた。快活な蜻蛉は流れと微風とに逆行して、水の面とすれすれに身軽く滑走し、時々その尾を水にひたして卵を其処に産みつけて居た。その蜻蛉は微風に乗つて、しばらくの間は彼等と同じ方向へ彼等と同じほどの速さで、一行を追ふやうに従うて居たが、何かの拍子についと空ざまに高く舞ひ上つた。彼は水を見、また空を見た。その蜻蛉を呼びかけて祝福したいやうな子供らしい気軽さが、自分の心に湧き出るのを彼は知つた。さうしてこの楽しい流れが、あの家の前を流れて居るであらうことを想ふのが、彼にはうれしかつた。

劇しい暑さは苦しい、楽しい、と表現しようとして木の葉の一枚一枚が宝玉の一断面のやうに輝くと、それらの下から蝉は焼かれて居るやうに呻いた。灼けた太陽は、空の真中近く昇つて来て居た。併し、彼の妻は、暑さをさほどには感じなかつた。併し、彼の妻から暑さを防いだものは、その頭の上の紫陽花色に紫陽花の刺繍のあるパラソル――貧しい婦の天蓋――ではなかつた。それは彼の女の物思ひであつた。彼の女は今歩きながら考へ耽つて居る、暑さを身に感じる閑もないほど。彼の女は考へた――さうすれば今間借りをして居る寺のあの西日のくわつと射し込む一室から涼しいところへ脱れられる。それよりもあの下卑た俗悪な慾張りの口うるさい梵妻の近くから脱れられる。さうして、静に、涼しく、二人は二人して、言ひたい事だけは言ひ、言ひたくない事は一切言はずに暮したい住みたい。さうすれば、風のやうに捕捉し難い海のやうに敏感すぎるこの人の心持も気分も少しは落着くことであらう。あれほどの意気込みで田舎を憧れて来ながら、僅ながらもわざわざ買つて貰つた自分の畑の地面をどう利用しようなどと考へて居るでも無く(それはもとよりさうであらうとは思つたけれども)それよりも本一行見るではなく字一字書かうとするでもなく、何一つ手にはつかぬらしい。さうして若しそんな事でも言ひ出せばきつと吐鳴りつけるにきまつて居る、それでなくてさへも、もう全然駄目なものと見放されて居る――わけて自分との早婚すぎる無理な結婚の以後は、殊にさう思はれて居るらしい父母への心づかひもなく、ただうかうかと――ではないとあの人自身では言つても、とにかくうかうかと、その日その日の夢を見て暮して居るのである。何時、建てるものとも的のない家の図面の、而も実用的といふやうな分子などは一つも無いものを何枚も何十枚も、それは細かく細かく描いて居るかと思ふと、不意に庭へ飛び出して、犬の真似をして犬と一緒になつて、燃えて居る草いきれの草原を這つたり転げまはつたり、さうかと思ふと突然破れるやうな大声で笑ひ出したり叫び出したりするこの人は、ほんとうに何か非常に寂しいのであらう。何事も自分には話してくれはしないから解る筈もない。何か自分には隠して居るのではなからうか……。彼の女は、五六日前に読み了つた藤村の「春」を思ひ出した。単純な彼の女の頭には、自分の夫の天分を疑うて見ることなどは知らずに、自分の夫のことをその小説のなかの一人が、自分の目の前へ――生活の隣りへ、その本のなかから抜け出して来たかのやうにも思つて見た……。あれほど深い自信のあるらしい芸術上の仕事などは忘れて、放擲して、ほんとうにこの田舎で一生を朽ちさせるつもりであらうか。この人は、まあ何といふ不思議な夢を見たがるのであらう……。それにしても、この人は、他人に対しては、それは親切に、優しく調子よくしながら、何故かうまで私には気難かしいのであらう。若しや、あの人のある女に対する前の恋がまだ褪せきらない間に、私はあの人の胸のなかへ這入つて行つて、そのためにあの人はしばらくはあの女を忘れては居たけれども、根強く残つて居たあの恋が何時の間にか再び自分をのけものにしてまた芽を出したのではなからうか。さうして私には辛くあたる……。今のままでは、さぞかし当人も苦しいであらうが、第一そばに居るものがたまらない。返事が気に入らないといつては転ぶほど突きとばされたり、打たれたり、何が気に入らないのか二日も三日も一言も口を利かうとはしなかつたり……。あの人はきつと自分との結婚を悔いて居るのだ。少くとも若し自分とではなく、あの女と一緒に住んで居たならばどんなに幸福だつたらうかと、時々、考へるに違ひない。考へるばかりではない、現に、自分にむかつてさう言つたことさへある――「あの時、おれがあの女、あの純潔な素直な娘と一緒になれさへしたならば、あの人が私をよく統一して、おれは今ごろ、いろいろな意味でもつと美しいもつと善い生活が出来て居ただらうに」と……。実際あの女は、自分も知つて居るけれども、自分などよりはもつと美しく、もつと優しい。私はあの人があの女をどんなに深く思つて居るかはよく知つて居る……いや、いや、さうではない。あの人はやつぱりあの人自身で何か別のことを考へ込んで居るのである……。さうだ、夫は、「ただ、私をそつとして置いてくれ」と言つた……

ふと、

Chapter 1 of 16