Chapter 1 of 6

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黎明

島木健作

若い地區委員會の書記の太田健造は、脚の折れ曲つたテーブルの上に心持ち前かゞみになり、速力をもつて書類に何か書き込んでゐた。――街道筋の家並みがとだえがちになり、ひろびろとした田圃の眺めがちやうどそこから展けようとするあたりにその家は建つてゐた。暮れかけて間もない街道をまつすぐに走つて來た自轉車の何臺かがその家の前まで來てとまつた。暗い土間に自轉車をおしこむと、人々は腰の手拭ひを取つてパツパツと裾をはたきながら、ゆがんだ階段をぎしぎしときしませてのぼつて行く。屋根裏の一室のやうにおそろしく天井の低い部屋だつた。筵を敷き、その上にまたうすべりをのべた殺風景なこしらへではあつたが、十疊はたつぷり敷けるとおもはれる廣さだつた。明けはなした小さな窓からはすぐ向ひの丘の上まで重々しく垂れさがつてゐる梅雨期の雨雲がのぞかれ、いくどにも吹きこんでくる風は霧のやうなしめりを含むでゐた。車座になつてゐる十五六人が野良からそのまゝ持つて來た新鮮な土と汗の植物のにほひが、ゆれうごく部屋の空氣についてながれた。

(これは大した成績だぞ――)

N町の縣本部の辯護士におくる訴訟の一件書類をやうやくまとめ終り、このT地區の責任者になつてから三度目の報告をO市の總本部にあてて書きながら、太田の神經は八方にはたらき、階段をのぼつて來る人々の足音だけで何村の何某とすぐにもさとり、これは豫期した以上の好成績と、ついさきほどまでの懸念も今は晴れておもはず彼はほくそ笑むのであつた。米田と植田と川上と川下と平沼と――すでに十ヶ村もの重も立ち者があつまつてゐる。あと三四ヶ村だ。待ちかねてゐた雨が昨夜どつと來た、この一刻千金の植つけ時にこれほどの集まりを見ようとはおもはなんだ――

「やれやれこれで助かつたわ!」

額の汗をぬぐひながら座につくや否やさういつたのは植田支部長の平賀甚兵だつた。

「降りさうで降りやがらんけになんぼやきもきしたこつたか! 今日は猫の手まで驅り出してやつつけたぞ。源治がとこは?」

「わしらが支部は共同植ぢや。」と聲に應じて川上支部長の多田源治が眞四角な肩をそびやかして傲然といひ放つた。「待ちかまへてゐた雨が來たからいうてさうばたばたはせんわい。ちやんと順番いふものがあるけになあ。今日は倉吉がとこをやつた。明日は山本んとこぢや。わしらがとこの團體的訓練はほかの支部なんぞとはちがふけに。」

「野郎、ぬかしよつたな!」と甚兵は平手で額をぱんと叩いて言ひ、聲をあげて笑つた。どつと笑聲があたりからもわきあがつた。

「ところで、みんな、どうや。」と、また別なこゑが急にいくらか調子をおとして言つた。

「選擧の話はちつとも聞かんかな? 政友の高木や民政の上田がごそごそ動きはじめたやうな――」

「聞かいでいか!」と、その言葉を途中でおさへるやうにして平賀甚兵がはげしく言ひ、ふところに手を入れて何かをさぐるやうにしてゐたが――「おいみんな、これを見てくれろ。」

聲と共にぽんとうすべりの上におちたのは一通の封書だつた。車座になつた人々がその上に頭を重ねるやうにして順ぐりに手に取つて見ると、封筒もなかの卷紙も並はづれて立派な、見事な筆跡で書かれたその封書は、この地方切つての大地主上田信介が、平賀甚兵に宛てた「親展書」だつた。――

「秋の選擧がだんだん近づいて來たもんで上田の奴、こんなものを人によこしやがつて! わしはなあ、この間の選擧の時にやまだ組合がなかつたけに、みんなも知つてのとほり上田の選擧事務員をやつたんやが、その時に奴あなんといひくさつたか? やれ上土權を認める法律を作つてやるの、やれ小作本位の小作法をつくつてやるのと勝手なゴタクをならべをつて――ふん、こななもの。」

ひよいと手をのばして封書を引つたくつたその勢といふものはそのまゝ引き破つて棄てでもするかとおもはれるほどのものだつたが、そのじつそれをていねいに二つに折つて何か大切なものででもあるやうにふたたびふところの奧ふかくしまひこむのであつた。口ではさうはいふもののこの地方切つての有力者から直筆の手紙をもらつたことを内心誇らしく感じ、これ見てくれとみんなに示しえたよろこびにぞくぞくしてゐるらしいけはひが、さういふ甚兵の態度にあらはにうかがひ知れるのであつた。

「上土權といへばなア」と甚兵の言葉のなかの一句をすぐに引きとつたほかの聲がいひ始めた。

「綾田郡の富山村、あそこぢや組合の衆がこのほど地主から甘土の賠償金四百兩をとつたといふぞ。」

「四百兩!」とほかの一人がおもはずおどろきのこゑをあげた。「ほんまか、そりや、なんとがいなことをやるでないか。まるで底土のねだんとおんなじこつちや。――もつともあそこの組合の書記の杉村といふ男はおつそろしくやり手だといふでなあ。」

「さうさう、おつそろしくやり手だつていふなア、なんにしても四百兩とはえらいで。」

感嘆の聲を揃へて何人もが相槌をうつた。

急ぎの報告書の最後の何行かを、心せはしく書きながら、畜生! と太田はおもはず腹のなかで舌打ちした。杉村にたいするほめ言葉を自分への皮肉と若い太田は聞いたのである。まだ二十二になつたばかりの太田なのだ。鉢の廣いぐりぐりの坊主頭で、血色のいい心持ち下ぶくれの頬と、大きな眼が始終ぐるぐるしてゐる童顏だつた。人通りの多い道を四五人肩をならべてあるいてゆき、ふいにとつとと前へ走り出たかとおもふと、とたんにポンととんぼがへりをやつて連れの仲間をふりかへつて笑つて見せる、といつたやうな子供つぽいところのある、いつときもぢつとしてはをれないはち切れさうな若々しさは、都會にゐた時には職場でも勞働組合の事務所でも人の持たない誇だつた。多くの人が昔失つて今は持たないその若さのゆゑにどこへ行つても愛せられ、組織の仕事がそのために思ひがけなくはかどつたことも多いのであつた。それが一九二×年、プロレタリアートを農村へおくりこむことが日本の無産階級運動の切實な問題となり、その選ばれた一人として、二ヶ月前はじめてこの村に來て見たところがどうだらう! 何よりの障碍に感ぜられるものは自分の持つてゐるその若さだつた。どこか腰のふらふらきまらない、職場の獨身者の勞働者や、いつも組合の事務所に四人や五人はごろごろしてゐる失業者にたいするのとはまるで勝手がちがつてゐた。何百年の昔から、地の底からによつきり生えてでもゐるやうな、じつくりと腰のすわつた生活がそこにはあつた。膝をつきあはせ、虐げられたものの生活の慘苦とそこから脱出しうる唯一の道とについて太田は意氣ごんで話すのだ。相手はだが何らの感動をも示さないでぼんやりした表情できいてゐる。「お前さんは一體その生活とやらいふものについてほんとうのとこを知つてゐなさるのかね?」とたんに目脂のたまつた凹んだ眼窩の奧の鈍い光りのなかにおづおづしながらさう抗議してゐるはげしいいろを讀みとると、太田の意氣ごんだ興奮はたちまちにして萎え、もう再たび話しつゞける勇氣は出なかつた。何よりも自分の持つてゐる青臭い若さが、正しい言葉を相手に受け入れしむる障碍となると思はれた。頭の髮でものばしたら! 眞劔な苦笑のなかに太田はそんなことさへ考へた。事實、一度ならず太田は百姓たちの陰口を聞いた。――「元氣は元氣だが、まだほんのひよつ子やがな!」

「先生――」

そのとき足音を殺し、しかしあわたゞしく階段をかけ上つてくるものがあつた。だいぶ慣れては來たものの、先生と呼ばれることのくすぐつたさを顏いちめんにあらはして太田はふりかへつた。

「警察の衆が――」とその聲はなかばふるへてゐる。

「警察の? 駐在所か?」

「いゝえ、町の――」

さつと人々は青ざめ緊張した。太田はペンをおき、ちえつと舌打ちした。「うるせえ野郎だ。」

それから彼はゆつくりと立上り、下へ下りて行つた。――下りて行つた太田はすぐに上つて來た。

「さあ、諸君、會議をはじめよう、みんな集まつたやうだし。」

「先生、警察の衆は?」

「(原文六字缺)返したよ。」と事もなげに太田は言つた。かういふところに大人らしさを示すことが彼には少なからず得意だつたのである。「議長は今日も齋藤君にやつてもらはう。諸君、いいね? 齋藤君、それぢやおねがひします。」

それまでずーつと隅にゐて、一語も發せず人々の話をにこにこしながら聞いてゐた大兵の男がやをら立上つた。みんなの汗じみた仕事着のなかにまじつてこの男一人小ざつぱりとしたセルの厚司姿だつた。米田村支部長の齋藤健太である。米田村の縣道筋に妻の名義で雜貨店を開き、一戸當りの耕作反別の狹隘さで有名なこの地方で三町の餘から耕作してゐる彼は組合きつての分限者だつた。世のなかのすべてが自分の豫定どほりに進行し、自分に有利に展開することを信じ切つてゐる、尊大な人間の型に彼も亦屬してゐた。會議の議長にえらばれることは勿論、今日の會議の主要目的である秋の縣會の選擧に組合側として誰を候補にあげるかといふことも、彼にあつてはすでに自明の事だつた。

齋藤が議長席につき、人々はずーつと膝をすゝめ、居ずまひをなほした。太田は齋藤の横にすわつた。ひとしきりしはぶく聲がきこえ、やがてしーんと部屋のなかが靜まりかへつた。提案を説明しようとしてふつと顏をあげた太田は、何かいひかけた口をふいにつぐんでしまつた。紙きれを持つた手を膝におとしけげんさうな顏をして向ふをすかして見るのだつた。

一體いつのまに音もなく上つて來てそこに坐つたものであらう、階段をのぼりつめたところのうす暗い板の間の隅に一人の男が坐つてゐるのだ。きちんと膝を揃へて正坐し、兩手をその上において身動きもしない。うなだれてゐるので顏は見えないが、かつて見かけたことのない男なのだ。背はあまり高くなささうだが、畸形とおもはれるほどに横に幅廣いからだつきから來る感じが、なにか無氣味でさへあつた。

「君! 君は誰かね、一體。」太田はものやはらかなこゑを心もちはずませて云つた。

「どこの村の人かね、一體。」

太田の聲が耳にはいると、男は一瞬ぎくりとしたふうであつたが、たちまちその節くれ立つた兩手をぴつたりと板の間につかへ、額が下につくほどに平たくなつて禮をした。おそるおそる顏をあげる男のふうをぢつと見つめてゐた部屋のひとりが、低くつぶやくやうな聲でいつた。「あゝ、池田村の衆だ!」「池田村?」と鸚鵡がへしに言つて太田はふと思ひ出した。池田村に支部はない。三四年前、組合の演説會などを聞きに來、連絡のあつた何人かゞゐたさうだが、今は全然手のついてゐない村だといふことだつた。ほかならぬ選擧對策の委員會なので、支部のない村からも來てもらつたらと、古い記録を引つぱり出し、その時の池田村の二三の人にも案内を出したのだつたが、この男はそのうちの一人ででもあるのだらうか……。

「池田村の人なら君、」と太田はいつた。

「ずーつとこつちへはいつて下さいませんか。遠いところ御苦勞樣でした。もう會議をはじめますから。」

男はさういはれてもただもぢもぢ尻ごみするばかりだつた。「へえ、」といひ「ここでお話をうかがへば……」とそのあとはかすれてきこえなかつた。二度三度とおなじ言葉をくりかへし太田は男をうながした。だが彼は依然として動かうとはしない。

「君、君、ここにゐる人たちはみんな同志なんだから少しも遠慮はいらないんです。ずーつとこつちへはいつて下さい。君ばかりそこにゐられてはかへつて困るんだ。」

つひに席を立つて前へ進んだ太田はいらいらしながら聲をはげまして言ふのであつた。農民にありがちな、卑屈からくる、度を越えた遠慮のあらはれと太田は見た。だがへり下つたその態度のなかにひそんでゐるてこでも動かぬ強情なものは一體何なのであらう。舌うちしたい氣持で太田は一座を見まはした。人々は妙にだまりこんだままなのだ。心をとめて見ようものなら、さういふ男の態度を少しも不思議としない瞳の動きを太田はその人々のなかに見たであらう……。

いつまでも構つてはゐられなかつた――やがて太田は席へもどり、提案について説明しはじめた。そしてぐんぐんと會議をすすめて行つた。重い壓迫を感じ、だが時々彼は眼をあげてちらりとうす暗い階段のあたりを見るのであつた。男は依然うなだれたまま、きちんと膝を揃へてそこに坐つてゐる……。

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