1
嵐
島崎藤村
子供らは古い時計のかかった茶の間に集まって、そこにある柱のそばへ各自の背丈を比べに行った。次郎の背の高くなったのにも驚く。家じゅうで、いちばん高い、あの子の頭はもう一寸四分ぐらいで鴨居にまで届きそうに見える。毎年の暮れに、郷里のほうから年取りに上京して、その時だけ私たちと一緒になる太郎よりも、次郎のほうが背はずっと高くなった。
茶の間の柱のそばは狭い廊下づたいに、玄関や台所への通い口になっていて、そこへ身長を計りに行くものは一人ずつその柱を背にして立たせられた。そんなに背延びしてはずるいと言い出すものがありもっと頭を平らにしてなどと言うものがあって、家じゅうのものがみんなで大騒ぎしながら、だれが何分延びたというしるしを鉛筆で柱の上に記しつけて置いた。だれの戯れから始まったともなく、もう幾つとなく細い線が引かれて、その一つ一つには頭文字だけをローマ字であらわして置くような、そんないたずらもしてある。
「だれだい、この線は。」
と聞いてみると、末子のがあり、下女のお徳のがある。いつぞや遠く満州の果てから家をあげて帰国した親戚の女の子の背丈までもそこに残っている。私の娘も大きくなった。末子の背は太郎と二寸ほどしか違わない。その末子がもはや九文の足袋をはいた。
四人ある私の子供の中で、身長の発育にかけては三郎がいちばんおくれた。ひところの三郎は妹の末子よりも低かった。日ごろ、次郎びいきの下女は、何かにつけて「次郎ちゃん、次郎ちゃん」で、そんな背の低いことでも三郎をからかうと、そのたびに三郎はくやしがって、
「悲観しちまうなあ――背はもうあきらめた。」
と、よく嘆息した。その三郎がめきめきと延びて来た時は、いつのまにか妹を追い越してしまったばかりでなく、兄の太郎よりも高くなった。三郎はうれしさのあまり、手を振って茶の間の柱のそばを歩き回ったくらいだ。そういう私が同じ場所に行って立って見ると、ほとんど太郎と同じほどの高さだ。私は春先の筍のような勢いでずんずん成長して来た次郎や、三郎や、それから末子をよく見て、時にはこれが自分の子供かと心に驚くことさえもある。
私たち親子のものは、遠からず今の住居を見捨てようとしている時であった。こんなにみんな大きくなって、めいめい一部屋ずつを要求するほど一人前に近い心持ちを抱くようになってみると、何かにつけて今の住居は狭苦しかった。私は二階の二部屋を次郎と三郎にあてがい(この兄弟は二人ともある洋画研究所の研究生であったから、)末子は階下にある茶の間の片すみで我慢させ、自分は玄関側の四畳半にこもって、そこを書斎とも応接間とも寝部屋ともしてきた。今一部屋もあったらと、私たちは言い暮らしてきた。それに、二階は明るいようでも西日が強く照りつけて、夏なぞは耐えがたい。南と北とを小高い石垣にふさがれた位置にある今の住居では湿気の多い窪地にでも住んでいるようで、雨でも来る日には茶の間の障子はことに暗かった。
「ここの家には飽きちゃった。」
と言い出すのは三郎だ。
「とうさん、僕と三ちゃんと二人で行ってさがして来るよ。いい家があったら、とうさんは見においで。」
次郎は次郎でこんなふうに引き受け顔に言って、画作の暇さえあれば一人でも借家をさがしに出かけた。
今さらのように、私は住み慣れた家の周囲を見回した。ここはいちばん近いポストへちょっとはがきを入れに行くにも二町はある。煙草屋へ二町、湯屋へ三町、行きつけの床屋へも五六町はあって、どこへ用達に出かけるにも坂を上ったり下ったりしなければならない。慣れてみれば、よくそれでも不便とも思わずに暮らして来たようなものだ。離れて行こうとするに惜しいほどの周囲でもなかった。
実に些細なことから、私は今の家を住み憂く思うようになったのであるが、その底には、何かしら自分でも動かずにいられない心の要求に迫られていた。七年住んでみればたくさんだ。そんな気持ちから、とかく心も落ちつかなかった。
ある日も私は次郎と連れだって、麻布笄町から高樹町あたりをさんざんさがし回ったあげく、住み心地のよさそうな借家も見当たらずじまいに、むなしく植木坂のほうへ帰って行った。いつでもあの坂の上に近いところへ出ると、そこに自分らの家路が見えて来る。だれかしら見知った顔にもあう。暮れから道路工事の始まっていた電車通りも石やアスファルトにすっかり敷きかえられて、橡の並み木のすがたもなんとなく見直す時だ。私は次郎と二人でその新しい歩道を踏んで、鮨屋の店の前あたりからある病院のトタン塀に添うて歩いて行った。植木坂は勾配の急な、狭い坂だ。その坂の降り口に見える古い病院の窓、そこにある煉瓦塀、そこにある蔦の蔓、すべて身にしみるように思われてきた。
下女のお徳は家のほうに私たちを待っていた。私たちが坂の下の石段を降りるのを足音できき知るほど、もはや三年近くもお徳は私の家に奉公していた。主婦というもののない私の家では、子供らの着物の世話まで下女に任せてある。このお徳は台所のほうから肥った笑顔を見せて、半分子供らの友だちのような、慣れ慣れしい口をきいた。
「次郎ちゃん、いい家があって?」
「だめ。」
次郎はがっかりしたように答えて、玄関の壁の上へ鳥打帽をかけた。私も冬の外套を脱いで置いて、借家さがしにくたぶれた目を自分の部屋の障子の外に移した。わずかばかりの庭も霜枯れて見えるほど、まだ春も浅かった。
私が早く自分の配偶者を失い、六歳を頭に四人の幼いものをひかえるようになった時から、すでにこんな生活は始まったのである。私はいろいろな人の手に子供らを託してみ、いろいろな場所にも置いてみたが、結局父としての自分が進んでめんどうをみるよりほかに、母親のない子供らをどうすることもできないのを見いだした。不自由な男の手一つでも、どうにかわが子の養えないことはあるまい、その決心にいたったのは私が遠い外国の旅から自分の子供のそばに帰って来た時であった。そのころの太郎はようやく小学の課程を終わりかけるほどで、次郎はまだ腕白盛りの少年であった。私は愛宕下のある宿屋にいた。二部屋あるその宿屋の離れ座敷を借り切って、太郎と次郎の二人だけをそこから学校へ通わせた。食事のたびには宿の女中がチャブ台などを提げながら、母屋の台所のほうから長い廊下づたいに、私たちの部屋までしたくをしに来てくれた。そこは地方から上京するなじみの客をおもに相手としているような家で、入れかわり立ちかわり滞在する客も多い中に、子供を連れながら宿屋ずまいする私のようなものもめずらしいと言われた。
外国の旅の経験から、私も簡単な下宿生活に慣れて来た。それを私は愛宕下の宿屋に応用したのだ。自分の身のまわりのことはなるべく人手を借りずに。そればかりでなく、子供にあてがう菓子も自分で町へ買いに出たし、子供の着物も自分で畳んだ。
この私たちには、いつのまにか、いろいろな隠し言葉もできた。
「あゝ、また太郎さんが泣いちゃった。」
私はよくそれを言った。少年の時分にはありがちなことながら、とかく兄のほうは「泣き」やすかったから、夜中に一度ずつは自分で目をさまして、そこに眠っている太郎を呼び起こした。子供の「泣いたもの」の始末にも人知れず心を苦しめた。そんなことで顔を紅めさせるでもあるまいと思ったから。
次第に、私は子供の世界に親しむようになった。よく見ればそこにも流行というものがあって、石蹴り、めんこ、剣玉、べい独楽というふうに、あるものははやりあるものはすたれ、子供の喜ぶおもちゃの類までが時につれて移り変わりつつある。私はまた、二人の子供の性質の相違をも考えるようになった。正直で、根気よくて、目をパチクリさせるような癖のあるところまで、なんとなく太郎は義理ある祖父さんに似てきた。それに比べると次郎は、私の甥を思い出させるような人なつこいところと気象の鋭さとがあった。この弟のほうの子供は、宿屋の亭主でもだれでもやりこめるほどの理屈屋だった。
盆が来て、みそ萩や酸漿で精霊棚を飾るころには、私は子供らの母親の位牌を旅の鞄の中から取り出した。宿屋ずまいする私たちも門口に出て、宿の人たちと一緒に麻幹を焚いた。私たちは順に迎え火の消えた跡をまたいだ。すると、次郎はみんなの見ている前で、
「どれ三ちゃんや末ちゃんの分をもまたいで――」
と言って、二度も三度も焼け残った麻幹の上を飛んだ。
「ああいうところは、どうしても次郎ちゃんだ。」
と、宿屋の亭主は快活に笑った。
ややもすれば兄をしのごうとするこの弟の子供を制えて、何を言われても黙って順っているような太郎の性質を延ばして行くということに、絶えず私は心を労しつづけた。その心づかいは、子供から目を離させなかった。町の空で、子供の泣き声やけんかする声でも聞きつけると、私はすぐに座をたった。離れ座敷の廊下に出てみた。それが自分の子供の声でないことを知るまでは安心しなかった。
私のところへは来客も多かった。ある酒好きな友だちが、この私を見に来たあとで、「久しぶりでどこかへ誘おうと思ったが、ああして子供をひかえているところを見ると、どうしてもそれが言い出せなかった、」と、人に語ったという。その話を私は他の友だちの口から聞いた。でも、私も、引っ込んでばかりはいられなかった。世間に出て友だち仲間に交わりたいような夕方でも来ると、私は太郎と次郎の二人を引き連れて、いつでも腰巾着づきで出かけた。
そのうちに、私は末子をもその宿屋に迎えるようになった。私は額に汗する思いで、末子を迎えた。
「二人育てるも、三人育てるも、世話する身には同じことだ。」
と、私も考え直した。長いこと親戚のほうに預けてあった娘が学齢に達するほど成人して、また親のふところに帰って来たということは、私に取っての新しいよろこびでもあった。そのころの末子はまだ人に髪を結ってもらって、お手玉や千代紙に余念もないほどの小娘であった。宿屋の庭のままごとに、松葉を魚の形につなぐことなぞは、ことにその幼い心を楽しませた。兄たちの学校も近かったから、海老茶色の小娘らしい袴に学校用の鞄で、末子をもその宿屋から通わせた。にわかに夕立でも来そうな空の日には、私は娘の雨傘を小わきにかかえて、それを学校まで届けに行くことを忘れなかった。
私たち親子のものは、足掛け二年ばかりの宿屋ずまいのあとで、そこを引き揚げることにした。愛宕下から今の住居のあるところまでは、歩いてもそう遠くない。電車の線路に添うて長い榎坂を越せば、やがて植木坂の上に出られる。私たちは宿屋の離れ座敷にあった古い本箱や机や箪笥なぞを荷車に載せ、相前後して今の住居に引き移って来たのである。
今の住所へは私も多くの望みをかけて移って来た。婆やを一人雇い入れることにしたのもその時だ。太郎はすでに中学の制服を着る年ごろであったから、すこし遠くても電車で私の母校のほうへ通わせ、次郎と末子の二人を愛宕下の学校まで毎日歩いて通わせた。そのころの私は二階の部屋に陣取って、階下を子供らと婆やにあてがった。
しばらくするうちに、私は二階の障子のそばで自分の机の前にすわりながらでも、階下に起こるいろいろな物音や、話し声や、客のおとずれや、子供らの笑う声までを手に取るように知るようになった。それもそのはずだ。餌を拾う雄鶏の役目と、羽翅をひろげて雛を隠す母鶏の役目とを兼ねなければならなかったような私であったから。
どうかすると、末子のすすり泣く声が階下から伝わって来る。それを聞きつけるたびに、私はしかけた仕事を捨てて、梯子段を駆け降りるように二階から降りて行った。
私はすぐ茶の間の光景を読んだ。いきなり箪笥の前へ行って、次郎と末子の間にはいった。太郎は、と見ると、そこに争っている弟や妹をなだめようでもなく、ただ途方に暮れている。婆やまでそこいらにまごまごしている。
私は何も知らなかった。末子が何をしたのか、どうして次郎がそんなにまで平素のきげんをそこねているのか、さっぱりわからなかった。ただただ私は、まだ兄たち二人とのなじみも薄く、こころぼそく、とかく里心を起こしやすくしている新参者の末子がそこに泣いているのを見た。