Chapter 1 of 35

幸子は去年黄疸を患ってから、ときどき白眼の色を気にして鏡を覗き込む癖がついたが、あれから一年目で、今年も庭の平戸の花が盛りの時期を通り越して、よごれて来る季節になっていた。或る日彼女は所在なさに、例年のように葭簀張りの日覆いの出来たテラスの下で白樺の椅子にかけながら、夕暮近い前栽の初夏の景色を眺めていたが、ふと、去年夫に白眼の黄色いのを発見されたのがちょうど今頃であったことを思い出すと、そのまま下りて行って、あの時夫がしたように平戸の花のよごれたのを一つ一つ毟り始めた。彼女のつもりでは、夫がこの花のよごれたのを見るのが嫌いなので、もう一時間もしたら帰宅する筈のその人の眼を喜ばすために、庭先を綺麗にしておきたかったのであるが、ものの三十分もそうしていると、うしろに庭下駄の音が聞えて、へんに取り済ました顔つきをしたお春が、手に名刺を持ちながら飛び石を伝わって来た。

「この方が、御寮人様にお目に懸りたい仰っしゃっていらっしゃいます」

見ると、奥畑の名刺であった。―――たしか、一昨年の春であったか、一度この青年が来訪したことはあったけれども、平素出入りを許している訳ではないし、女中達などの前ではその名を云うことさえ控えているくらいなのであるが、お春のこう云う取り済まし方は、明かにあの新聞の事件を知り、この青年と妙子との関係を察していて、気を廻しているものに違いなかった。

「今行きます。応接間にお通ししときなさい」

手が花の蜜でべとべとしているので、彼女は洗面所へ行って蜜を洗い落して、二階でちょっと顔を直してから出た。

「えらいお待たせ致しまして、………」

一と目で純英国製と知れる、殆ど白無地に近い明るいホームスパンの上衣に鼠のフランネルのズボンを穿いた奥畑は、這入って来た幸子の姿を見ると、少しわざとらしい感じのする、仰々しい急激な動作で椅子から立ち上りながら「気を付け」のような姿勢をした。妙子より三つか四つ年上であった筈であるから、今年三十一二ぐらいになるであろうか、この前会った時はまだ幾分か少年時代の面影を留めていたのに、この一二年の間に大分肥満したらしいのは、追い追い紳士型の体つきに変りつつあるところなのであろう。でも、あいそ笑いをして此方の顔色を窺い窺い、心持ち頤を突き出して訴えるような鼻声で話しかける様子に、矢張「船場の坊ち」らしい甘ったるさが残ってはいた。

「どうも御無沙汰してしまいまして、………一遍お伺いせんならん思うてましてんけど、お許しのないのんに上ってええのんやらどうやら思うて、………お宅の前までは二三遍参ったんですが、よう這入らんとしまいましてん。………」

「まあ、気の毒に。何で寄ってくれはれしません」

「僕、心臓弱いもんですさかい、………」

奥畑は早くも心安そうに、うふ、ふ、ふ、と鼻の先で薄笑いをして見せた。

奥畑の方では何と思っているか知れないけれども、幸子の彼に対する気持は、前に訪問を受けた時とは多少異なるものがあった。それと云うのが、もう奥畑の啓坊は昔のような純真な青年ではなくなっているらしいと云うことを、近頃しばしば夫から聞かされるからなのであるが、貞之助は附合いの関係でいろいろの機会に花柳界へ足を蹈み入れることがあるので、よくそう云う方面から奥畑の噂を聞いて来る。その話に依ると、奥畑は始終宗右衛門町辺に出没するばかりでなく、どうやら馴染の女などがあるらしいと云うのであった。で、啓坊がああ云う風になっていることを、こいさんは知っているのだろうか、もしこいさんが今もなお、雪子ちゃんが何処かへ縁づくのを待って啓坊と結婚するつもりでい、啓坊もそんな約束をしているのであるなら、お前からこいさんに注意した方がよくはあるまいか、啓坊のああ云う行いが、こいさんとの結婚が容易に許して貰えないで待ちくたびれた結果の焼けであるとすれば、酌量の余地がないでもないが、それでは「真面目な恋愛」だと称している看板に偽りがあることにもなり、第一今日の非常時に不謹慎であると云うべきで、今迄は蔭の同情者であった自分達としても、あれを改めてくれない限り、将来二人を一緒にすることに骨を折ると云う訳には行かない、―――と、貞之助はそう云って、内々気を揉んでいる様子だったので、幸子はそれとなく妙子に聞いてみたことがあった。妙子はしかし、啓ちゃんの一家は先代のお父さんの時から花柳界に親しむ傾向があり、啓ちゃんの兄さんや伯父さんなどもお茶屋遊びが好きなので、啓ちゃん一人がそうと云う訳ではない、それに啓ちゃんの場合は、貞之助兄さんのお察しの通り私との結婚問題がすらすら運ばないところから、つい其方へ足が向くようにもなるので、そのくらいなことは啓ちゃんの若さでは已むを得ないと、私は思っていた、馴染の芸者があるなどと云うことは初耳だけれども、恐らく噂にとどまることで、はっきりした証拠でもあるなら格別、私にはそれは信じられない、但しこの事変下に不謹慎であると云う批難は免れないし、誤解を招くもとでもあるから、これからは是非お茶屋遊びを止めるように忠告しよう、私の云うことなら何でも聴く人だから、止めてほしいと云えば止めるに違いない、と云うようなことで、別にそのために奥畑を悪く思う風でもなく、そんなことぐらい前から分っていたことだ、驚くには当らないと云ったように落ち着き払っていたので、幸子の方が顔負けをした程であった。貞之助は、それほどこいさんが啓坊を信じているなら、何もわれわれが余計なお切匙をすることはないと云っていたものの、矢張気に懸ると見えて、その後も機会があるとその方面の女たちに様子を聞いてみることは怠らなかったが、妙子が忠告した結果かどうか、最近にはあまり花柳界での噂を聞かないようになったので、内心喜んでいたところ、今から半月ばかり前の或る晩の十時頃、梅田新道から客を送って大阪駅へ行く途中で、自動車が投げるヘッドライトの圏の中に、酔った足取りで女給らしい女に寄り添いながら歩いて行く奥畑の姿をちらと捉えたことがあったので、さては近頃はこう云う方面で潜行的に享楽を追っているのだなと心づいた。幸子はその晩夫からそのことを聞いた時に、こいさんには何も云わんと置きなさいと云われたので、もう妙子には話さなかったが、こうして今この青年に向い合って見ると、気のせいか、顔つきや物の云い方にも何処となく真率を欠いたところがあって、「どうも近頃のあの男には好意が持てない」と云う夫の言葉に同感したくなるのであった。

「―――雪子ちゃんですか、―――はあはあ、―――いろいろなお方が心配してくれはりまして、絶えず話はありますねんけど」

幸子は奥畑が、しきりに雪子の縁談の模様を聞きたがるのは、自分の方も早くしてくれと云う間接の催促なのであろう、どうせそれが目的で来たのに違いないので、今にそのことを云い出すのであろうが、そうしたら何と答えようか、この前の時も単に「聞いて置く」と云う態度で終始したつもりで、何も言質を取られている覚えはないが、今度は夫の考が前と変って来ているとすれば、尚更注意して物を云わなければならない、私達は二人の結婚の邪魔をする気はないけれども、最早や二人の恋の理解者であるとか同情者であるとか云う風に思われたくはないのであるから、そう云う思い違いをされないだけの挨拶をする必要があろう、と、内々そんな心づもりをしていると、奥畑は急にちょっと居ずまいを改めて、口付の煙草の灰を拇でトントンと灰皿に弾き落しながら、

「実は僕、今日はこいさんのことで此方の姉さんにお願いせんならんことが出来まして、お邪魔に上ったんですが、………」

と、相変らず幸子のことを「姉さん」と呼んで話し始めた。

「さあ、どんなことでございましょうか」

「………姉さんは勿論御承知のことと存じますけど、近頃こいさんは玉置徳子の学校へ通うて洋裁の稽古してはりますな。それはまあええとしましても、そのために人形の製作の方がだんだん不熱心になって来て、最近殆ど仕事らしい仕事してはれしません。そんで僕、どう云う考か知らん思うて聞いてみましたら、もう人形みたいなもん厭になった、もっとみっちり洋裁を習うて、将来はその方を専門にやる、今のところ、人形の方もたんと注文受けているし、弟子もあるさかい、一遍に止めることは出来んけど、追い追い弟子に跡を譲ることにして、自分は洋裁の方で立って行きたい、それには姉さん達の諒解も得て、半年か一年ぐらい仏蘭西へ遣らしてもろて、彼方で修業したと云う肩書を得て来んならん思うてる、云うてはりますねん。………」

「へえ、こいさんそんなこと云うておりますか」

幸子は妙子が人形製作の余暇に洋裁の稽古をしていることは聞いていたけれども、今奥畑が云ったようなことは全く初耳なのであった。

「そうですねん。―――僕こいさんのしやはることに干渉する権利あらしませんけど、折角こいさんが自分の力であれだけのものにしやはって、世間でもこいさん独得の芸術として認めるようになった仕事を、今ここで止めてしまやはる云うことはどうですやろうか。それもただ止める云うだけやったら分ってますけど、洋裁をする云うのんが、分りませんねん。何でもその理由の一つとして、人形やったら何ぼ上手に作ったかて、ほん一時の流行に過ぎん、直きに世間から飽かれてしもて、今に買うてくれる人もないようになる、洋裁やったら実用的なものやさかい、いつになっても需要が衰えん云やはりますねんけど、何でええとこのお嬢さんが、そんなことしてお金儲けんならんのですやろか。もう直き結婚しやはる人が、自活の方法講じんかてええやありませんか。僕が何ぼ甲斐性なしでも、まさかこいさんにお金の不自由さすようなことせえしませんよってに、職業婦人みたいなことはせんと置いてほしいんです。そら、こいさんは手先の器用な人ですさかい、何か仕事をせずにはおれん云う気持は分りますけど、お金儲けが目的でのうて、趣味としてやる云うのんやったら、仮にも芸術と名の付くものの方が、どのくらい品もええし、人聞きもええか。人形の製作なら、ええとこのお嬢さんや奥さんの余技として、誰に聞かれたかて耻かしいことあれしませんけど、洋裁は止めてほしいんですねん。恐らくこれは僕ばかりやない、本家や此方でもきっと僕と同意見に違いない、僕請け合うとくさかいに相談してみなされ云うてましてんけど、………」

平素の奥畑はいやにゆっくりゆっくりと物を云う男で、そこに何か、大家の坊々としての鷹揚さを衒う様子が見えて不愉快なのであるが、今日は興奮しているらしく、いつもよりも急き込んだ口調で云うのであった。

「それはまあ、御親切に御注意下さいまして有難うございます。何にしましても、一遍こいさんによう聞いてみませんことには、………」

「はあ、何卒是非お聞きになって下さい。こんなこと迄申し上げたら出過ぎてるかも知れませんけど、もしほんとうにそない考えてはるのんやったら、何とか一つ、姉さんからも意見して下さって、思い止まらして戴くこと出来しませんやろうか。それから、洋行のことですけど、僕は仏蘭西へ行ったらいかん云うのんやあれしません。何かもっと有意義なことを勉強しに行かはるのんやったら、一遍行って来やはるのもええことですし、そう云うては失礼ですが、費用ぐらい出さして戴きます。そして、僕かて一緒に附いて行きます。ただ洋裁を習うために出かける云うことは、どうしても感心出来ませんので、まさかそんなこと、許さはる筈はない思いますけど、何卒それだけは止めさせて下さるようにお願いしたいのです。まあ洋行したいのやったら、結婚してからでも晩くはないのですし、僕としてはその方が都合がええのんですが、………」

幸子は実際、妙子に質してみないことには、彼女がどう云う考でそんなことを云っているのか諒解に苦しむ点が多いのであったが、それは兎に角、この青年が妙子の将来の夫たることを既に公然と認められているような口の利き方をするのに、軽い反感と滑稽とを覚えながら聞いていた。奥畑のつもりでは、自分がこのことをお願いに上ったと云えば、大いに幸子から同情もされ、打ち明けた相談もして貰えるものと思い込み、巧く行けば貞之助にも紹介して貰えるものと期待して、わざと今頃の時間を狙って来たのであるらしく、「お願いの件」を話してしまっても、なかなか簡単には引き取ろうとしないで、あれかこれかと此方の心持に探りを入れて来るのであったが、幸子はなるべく要点を外して応対をし、いろいろ妹のことについて御注意を戴いて有難いと云った風に、此方からは努めて他人行儀な口を利いた。と、夫が帰って来たらしく、表に靴の音がしたので、彼女は慌てて飛んで行って、

「ちょっと! 啓坊が来てはるねんわ」

と、玄関のドーアを開けながら云った。

「何の用で」

貞之助は土間に立ったまま、妻が手短かに耳元で囁くのを聞き取ってしまうと、

「それやったら、僕は会う必要ないやないか」

「あたしかてそない思いますねん」

「何とか云うて帰って貰いなさい」

でも奥畑はそれからまだ三十分もぐずぐずしていて、とうとう貞之助が出て来る様子がないと見ると、やっと慇懃な挨拶をして立ち上ったが、

「何のおあいそものうて、えらい失礼いたしまして、―――」

と、幸子はそう云って送り出しただけで、夫が会わなかったことについては、わざと言訳をしないでしまった。

Chapter 1 of 35