大貫晶川、恒川陽一郎、並びに萬龍夫人のこと
十年たてば一と昔と云ふが、私が初めて文壇へ出てからもう彼れ此れ二十三四年になる。私も此れでまだ懐旧談などをする歳ではないんだが、近頃の「スバル」を読むと、我が中学の同窓である吉井勇君なども、しきりに青年時代のことを懐かしがつて書いてゐるやうだ。辰野隆君も矢張中学から一高、赤門を通じての古い友だちだが、「改造」だか「中央公論」だかへ出た同君の「スポーツ漫談」なるものを読むと、中学時代の私のことが一寸引き合ひに出されてゐる。同君は私のことを「秀才谷崎」と呼んだりしてゐるが、さう云ふ辰野君のあの時分の風貌を想ふと、まことに今昔の感に堪へない。何しろ辰野君と云つたら、当時貴公子の美少年共が校内に徒党を組んでゐた中の一人で、ハイカラで、快活で、スポーツ好きで、才気煥発ではあつたが、怠け者で、腕白で、成績はあまり芳しい方でなく、一高の入学試験に「石鹸の製法を記せ」と云ふ有機化学の問題が出た時、「石鹸はうどん粉を固めて作る」と云ふ答案を出した豪の者だつた。―――辰野は出鱈目に書いたのだが、事実安物の石鹸にはうどん粉を交ぜることが後で分つたのは大笑ひだつた。―――されば誰か此の人が他日仏文学の権威となることを予想しようぞ。夫子自身も最初は法科を志したくらゐだから、恐らく当時文学者として世に立たうなどゝは思つてもゐなかつたであらう。
八月号の「改造」に出た「妄人政談」に、彼が文学に転じたのは仏法科を卒業した以後のことのやうに書いてあるのは、その通りに違ひあるまい。それに比べると、大貫や、恒川や、私なぞは、中学時代から樗牛にかぶれて美的生活を論じたり、近松物や西鶴物をひねくり廻して恋愛を讃美したり、早くも失恋の悲しみだとか厭世哲学などを云々すると云ふ風だつたから、辰野の眼から見たら、定めし生意気にも、滑稽にも、変にひねツこびてませてゐるやうにも思へたであらう。実際辰野はしば/\私共を冷やかしたり交ぜつ返したりしたもので、彼の毒舌にはわれ/\文学党は孰れも恐れをなしてゐた。就中大貫などは最も彼に辟易してゐた。大貫は号を晶川と云ひ、本名を雪之助と云つたが、玉川在二子村の生れで、色の真黒な、手に白なまづのある、田舎者丸出しの風采だつたから、「大貫は雪之助ではない、雲之助だよ」と、辰野はそんな悪口を云つた。私なども満面にニキビが出来てゐたので、「谷崎は近頃ニキビ並びがよくなつたね」なんかと云はれた。が、何はともあれ、当時の私共、―――明治の末年に於ける文学青年や新進作家の生活振りは、今とは自ら様子の変つたところもあつて、想ひ出してみると中々面白い。実は一遍機会があつたら、忘れないうちにあの時分のことを書いて置かうと思つてゐたのだが、幸ひ「中央公論」から随筆の依頼を受けたので、炎暑の折柄、成るべく肩の凝らないやうな、そして一般の読者諸君にも興味のあるやうな、花やかな事件や色つぽい場面をピツクアツプして、一とくさり昔噺をさせて貰ふことにする。
一体、東京からは傑出した人物があまり出てゐない。鳩山文部大臣は東京人の政治家で将来を矚目されてゐるやうだけれども、今迄のところ、政界にも、軍人にも、実業界にも、生え抜きの江戸ツ児はさう幅を利かしてゐないやうだ。しかし此れが文学藝術の方面になると、大いに事情が違つて来る。先づ團菊を始めとして歌舞伎の名優中の何割かは東京人であらうし、文学の方でも、紅葉、露伴、漱石の三巨星以下、多くの人材が輩出してゐる。そして私の母校府立第一中学は、前記三巨星のうちの二人迄を、即ち紅葉と漱石を出し、小山内薫を出し、その他大小無数の藝術家を出してゐるので、明治大正の文壇とは頗る縁が深いのである。武林無想庵も小山内君と同級で、此の二人の卒業したのが、多分私の入学した前年あたりであらうと思ふ。土岐善麿君も私より一級上にゐた。同級には、吉井、辰野、伊庭孝、恒川、一級下に大貫、それから又二三年下に秦豊吉君がゐた。「第一中学」はもと「尋常中学」、略して「尋中」と云ひ、私が入学した年あたりに、それが「一中」と「三中」の二つに分れたので、もし「三中」の方の出身者迄を数へると、久保田万太郎、芥川龍之介などの名前も這入つて来る。ところで私は、その頃同級であつた筈の吉井勇君については全く何の記憶もない。たしか同君は途中で退学処分に遇ひ、他へ転校したやうに聞いてゐるから、在学中相識る時がなかつたのであらう。伊庭君の方は、これも顔は覚えてゐなかつたが、名前だけはよく知つてゐた。と云ふのは伊庭君の厳父想太郎氏が星亨を刺したあの大事件の起つたのが、丁度私の一二年生頃だつたから、剣客伊庭氏の息子だと云ふので、同君の存在は忽ち全校に知れ渡るやうになつたのである。が、まあそんな訳で、当時私が最も親密にしてゐたのは矢張恒川と大貫の二人であつた。此の三人が始終つるんで歩いて文学を談じ合ひ、ために辰野隆の毒舌の的となつたことは前述の如くである。
恒川も大貫も、文壇に出たのは私よりずつと早かつたのだが、不幸にして夭折した此の二人の名を今も記憶してゐる人が果して幾人あるであらうか。正直のところ、恒川はもし生きてゐたにしても、創作の方面で大いに伸びることは出来なかつたかも知れない。彼の才能は余りに繊弱で、巧緻に過ぎ、鏡花先生の悪い所にばかりカブレてゐた。だから明星派の歌人として、都会人らしい、気の利いた、技巧を凝らした和歌を詠んだけれども、小説を書かせると、通人振つた、小待合式の、イヤ味な薄ツぺらなものが出来た。彼が私と感情的に疎隔するやうになつたのは、「新思潮」へ寄せた彼の短篇を皆で排斥したことが始まりであつた。当時恒川は既に文学を以て立つ意志がなく、政治科に籍を置いてゐたので、「新思潮」とは大貫や私を通して間接に関係してゐるに過ぎなかつたが、彼の原稿が届いた時、「こんな古臭い気障な物は葬むつちまへ」と、真つ先に反対したのは木村荘太と後藤末雄だつた。和辻もそれに賛成した。大貫と私とは恒川に対する情誼上、板挟みになつた訳だが、何しろ鼻息の荒い時分だつたので、私なんかは敢然私情を抛つて排斥派の味方に附き、「ナニ、構ふもんか、己が行つて断つて来てやる」と、自ら憎まれ役を買つて出て、その原稿を懐に恒川の家へ乗り込んで行つたものだつた。恒川は苦笑を以て私の説明を聴き、表面さりげなく撤回を承諾したやうなものゝ、此の事件が彼の文学上の信念に多大の打撃を与へたことは争はれない。それかあらぬか、彼はその時以来一層文壇から遠ざかるやうになつてしまつた。
しかし、歌人としての、乃至青年作家としての恒川陽一郎の名を記憶してゐる者は稀であつても、名妓萬龍の愛人としての、彼女の最初の夫としての彼の名を知つてゐる者は、今も尚世間に多いことであらう。苟しくも男子たるもの何を以て声名を世に馳せようとも、平々凡々裡に朽ち果てるよりは結構なことに違ひないから、萬龍に依つて彼が一挙に艶名を轟ろかし、満天下の羨望の的となつたのも、当人に取つて定めし痛快事だつたであらう。思ふにその時分、大貫と私とは既に「新思潮」を登竜門として大いに文壇に活躍しようとする意気込みを示してゐたから、或はそんな事が彼の負けじ魂を刺戟したのではなかつたであらうか。私はそれがあの恋愛事件の動機であると云ふのでもないし、又さう云つたら故人の意志に反するでもあらうが、文学の方で失意の人となつた以上、実行の方面でわれ/\をあつと云はせてやらうと云ふやうな心持が、幾分潜在的にでも働いてゐなかつたとは断言出来ない。それにはあの頃の「名妓」と云ふ言葉が持つ魅力を説明しないことには、到底今の青年諸君には合点が行かないかも知れない。何しろ当時の藝者と云ふものは、上は貴顕紳から下はわれ/\のやうな文学青年に至る迄、士農工商あらゆる階級の男性の愛を惹きつける、唯一の浪漫的な存在であつた。今の女給やダンサーや映画女優などの役目をした者も藝者であるが、しかし名妓と云はれる者の人気の素晴らしさと、見識の高さと、社会的地位とは、今の第一流のキネマ・スタアを持つて来ても遥かに及ばないであらう。大政治家や何某伯爵や又は富豪の子弟などが、女優や踊り児に憧れて艶聞を流したとか、巨万の財産を蕩尽したとか云ふやうな話は、西洋でこそ珍しくないけれども、日本ではまだそんな噂を聞いたことがない。然るにそれが藝者となると、桂公のお鯉を始めとして、さう云ふ実例はザラにある。当時絵葉書屋の店頭で売つてゐる美人のブロマイドと云へば、殆ど藝者の肖像ばかりであつたから、われ/\は新橋赤坂辺の一流の妓の顔だちは写真でよく知つてゐたけれども、お座敷で彼女たちに会はうとなると全く容易な業でなかつた。よつぽど顔の売れた人に連れて行つて貰つて、漸く呼ぶことは出来たにしても、無名の文学青年などはてんで相手にもしてくれない。私が一時藝者嫌ひになつたのは、一流の妓であればある程商売冥利と云ふことを忘れ、お客に鼻も引つかけないで威張つてゐるのが癪に触つたからなので、京都大阪は如才のない土地柄故それ程でもなかつたけれど、東京はその弊害が甚だしかつた。私の記憶にして誤まりがなければ、当時最も売れつ児だつたのは、東京で赤坂の萬龍、新橋の静枝、大阪で富田屋の八千代だつたであらう。就中萬龍は嬌名一世を圧し、東京藝者の代表的な者として花柳界の人気を一身に集めてゐた。されば真偽の程は分らないが、その頃有名な某野球選手が彼女の客に接する態度の傲慢なのを憤つて、酒を浴びせかけたと云ふやうな新聞記事が出たこともあつた。ところで恒川は、富裕な家庭のお坊つちやんで、私などから見ればずつと贅沢にしてゐたとは云へ、まだ角帽を頂いてゐる白面の一書生たる身を以て、此の一代の驕妓の心を囚へたのである。これは社会的にもセンセーシヨナルな事件に相違なかつたが、彼の旧友たる私共に取つても確かに青天の霹靂であつた。実を云ふと私などは、もうすつかり女房気取りで彼の許に逃げて来てゐる萬龍その人に紹介される迄は、事に依ると彼の己惚れではないかと疑つたくらゐであつた。
私は、若き日の萬龍、―――今の岡田信一郎氏未亡人に対し、筆の勢ひで或は失礼なことを書いたかも知れない。夫人を呼ぶに「名妓萬龍」の名を以てし、あの頃のことを語るだけでも、今の夫人には迷惑千万であるかも知れない。そのうへ、恒川と結婚された当時の夫人は、私に対して決して好い感じを抱いてをられなかつたであらうと察する。なぜなら、前から疎隔しつゝあつた恒川と私との交情は、あの事件から一層疎隔するやうになり、殆ど絶交状態になつたのであるから。恐らく恒川は死ぬ迄私を背信の友として恨んでゐたであらう。私は彼がさう取つたのも尤もであり、さう取られるだけの罪が自分の方にあることを、認めるのに躊躇しない。だが、それ故に尚あの前後のいきさつを明かにしておきたいのである。
ありていに云ふと、私は恒川自身の口から彼女との結婚問題を聞かされる迄、二人がそんな関係になつてゐようとは少しも知らなかつたのであつた。但し、箱根の出水の時に偶塔之沢の旅館に泊り合はせてゐた此の二人が同じ場所に避難をし、彼が一杯の葡萄酒をすゝめて彼女の脳貧血を救つたと云ふ劇的な事件がその前にあつて、新聞紙上を騒がしたことはあるけれども、それとて私は、新聞で知つてゐたゞけで、直接には聞いてゐなかつた。それ程彼と私とは疎遠になつてゐた。だから私は、二人の恋愛の発端とも云ふべき箱根の出来事に就いても、その後の発展に就いても、何も語る資格はないのである。(箱根の事件は、その時萬龍と一緒にゐた何とか云ふ雛妓の話を基にして、小山内氏が短篇小説にした筈である。「梅龍の話」とか云ふ題であつたと記憶するが、あれを読むと、光景が眼に浮かぶやうに書いてある)そして、恒川が彼の結婚問題を私に打ち明けるやうになつたのは、彼女を落籍させるための金策に困つて、その相談を私の所へ持ち込んで来たからであつた。恐らくそんな事情でもなければ、彼がわざ/\その時分の私を訪ねることはなかつたであらうが、いくら疎遠になつたと云つても、そこは矢張旧友の情誼を信頼してゐてくれたのであらう。今は差支へないと思ふから書くが、彼は勿論貧しい私の懐をアテにして来たのではなく、彼も一面の識があり、私とは因縁浅からざる偕楽園主人笹沼に話してみてくれないかと云ふのであつた。私は笹沼がさう云ふ性質の、殊に分不相応の金を、融通する筈がないことを知つてゐたから、一往取り次ぐことは取り次いだけれども、さう熱心には口説かなかつたし、又笹沼も始めから取り合はなかつた。それで私はその不結果の報告を齎して、青山北町にあつた恒川の家を久振に訪ねた。それが、明治年代のことであつたか、大正の初め頃であつたか、その辺の記憶が明瞭を欠くのだが、今も不思議に覚えてゐるのは、その時私は細かい十の字絣の対の大島の袷(これは友人の借り着であつた)に、お召の夏袴を穿いてゐた。だから季節は晩春か初秋、―――多分晩春であつたと思ふ。兎に角、もう恒川の家に納まつてゐると云ふ一代の麗人に初見参をすべく、好奇心に胸を躍らせながら、精々めかし込んで出かけたらうことはお察しを願ひたい。
行つて見ると、二人は恒川の家にゐないで、そこから数丁を隔てた穏田の方にある、彼の義兄で当時政友会の代議士であつた風間礼助氏の邸に預けられてゐた。私は彼の一家族とは古くから馴染みであつたし、いろ/\世話になつたこともあるので、先づ両親に会つて御不沙汰のお詫びをしたところ、母堂は私の顔を見ると、「いつたい陽一郎は何をあなたにお願ひに上つたんですか」と云ふやうな調子で、涙交りに愚痴を並べながら、此の結婚はどうしても許す訳に行かないと云ふのであつた。厳父も無論同意見だつた。
元来恒川の家庭は非常に派手好きで、両親共至つて子に甘い方であつたのが今度の事件を惹き起すやうな結果にもなつたので、今更狼狽してオロオロしてゐる様子は、ハタの見る目も気の毒な程だつた。それと云ふのが、工学博士で横浜の某船渠会社の顧問をしてをられた厳父の地位として、社会的信用を懸念されたことが第一の理由だつたであらう。だから両親は私の金策が不成功に終つたことを喜んでゐたらしく、寧ろ恒川が意を飜すやうに極力忠告をしてくれろと云ふ始末で、特に母堂は、「谷崎さん、もしこんな事が新聞にでも出たら大変ですから、どうか必ず秘密にしておいて下さいよ」と、くれ/″\も念を押された。
しかし私には、此の人の好い、気の弱い両親が、もうすつかり恒川に足元を見られてゐるので、結局彼の望み通りに引き擦られてしまふことが、分り切つてゐるやうに思へた。そして女中に案内をされて風間氏邸へ行つてみると、そこには恒川と、萬龍夫人と、彼等の熱心な同情者である令弟呉作君がゐて、頗る花やかな空気であつた。私は彼の両親との会談の模様を、そのまゝ彼等に話したけれども、自分の意見として何等忠告がましいことは述べずにしまつた。そんな忠告をしたところでとても聴き入れる恒川ではないし、又、鴛鴦の如き二人の様子を眼の前にしては、彼等に逆らふやうなことを切り出せる筈のものでもなかつた。それにはその時分の文学青年に共通であつた一種の気取り、新しがり、―――偽悪趣味とでも云ふべきものを理解して貰ふ必要があるが、吉井君の戯曲「河内屋与兵衛」などを見ると、さう云ふ気風があの構想の中によく現れてゐる。兎に角われ/\は新旧思想の衝突を口にし、親不孝を売り物にすると云ふ不心得な時代にあつた。殊に私なぞはその方の音頭取りであつたから、義理にも両親の味方をする訳に行かなかつた。
思へばそれが恒川と私との最後の会見になつた訳だが、その日われ/\はどんなことをしやべり合つたのか、一向取り止めた記憶がない。しかし恒川は恋愛の勝利者として得意の色を包み切れないものがあつた。
萬龍夫人も、噂に聞いたやうな威張つたところは微塵もなく、初めから打ち解けた態度であつた。そして、お白粉気のない顔に銘仙づくめの衣類を着て、すつかりしろうと作りだつた。さう、さう、それで思ひ出すのは、私が肩が凝つたと云ふと、「谷崎さんは大島を着てゐながら肩が凝つたなんて贅沢だわ」と、彼女がそんなことを云つたりした。(どうも人間は肝心なことを忘れてしまつて、下らないことを覚えてゐるものだと思ふのは、その大島にはどう云ふ訳か木綿の通し裏が附いてゐたと見え、その晩恒川の家へ泊つた時にお豊どんと云ふ古くからゐる老女中がそれを畳みながら、「これでは大島が可哀さうでございますね」と、借り着とも知らずにさう云つたのを、未だに想ひ出すのである)多分われ/\は、萬龍夫人を中に挟んで里見君の花柳小説にあるやうな機智と皮肉に富む狭斜趣味の会話を遣り取りしながら、一日中愉快に、たわいもなく暮らしてしまつたのであらう。さう云へば恒川も私も日頃から都会人であることを誇りとして、その点では田舎者の大貫を馬鹿にしてゐたが、その日の恒川は金の苦労も両親の反対も何糞と云ふ度胸を示して、盛んに警句を吐き、諧謔を弄し、当るべからざる概があつた。私も負けずに応酬した。そこへ又夫人が加はつてひとしほ舌戦に花を咲かせた。こゝで一寸、夫人の第一印象を語らせて貰ふと、私はその時、名妓と云はれる人の飾り気のない生地の姿に接したのであるが、彼女の顔立ちは写真から受ける感じと少しも違つてゐなかつた。だが唯一つ、写真で分らなかつたのはその眼の美しさであつた。大きく、冴えて、ぱつちりとして、研き抜かれたやうな光りがあつて、真に明眸とはあんな眸を云ふのであらう。藝者には往々お白粉焼けのした、疲れた地肌の人を見受けるが、彼女の皮膚はたるみなく張り切つて、澄んでゐた。欠点を云へば上背の足りないことだけれども、小柄で、程よく肥えてゐるのが、娘々して、あどけなくさへ見えるのであつた。彼女は所謂「意気な女」、―――すつきりした、藝者らしい姿の人ではなかつたけれども、黒人臭い病的な感じがなく、瀟洒と云ふよりは豊艶であつた。(病的と云へば、恒川の方がさうであつた。彼は嘗て肺尖を病んだことがあり、腺病質らしく痩せてゐて、背がヒヨロ長く、女よりも手足が白く、非常に光沢のある真つ黒な髪を持つてゐた)彼女は折々、真面目な相談が始まると、その大きな眸に一杯に憂ひの色を湛へて沈鬱な表情になつたが、次の瞬間には忽ち万事を忘れたやうにはしやぎ出した。しかし私は、半日程話してゐる間に、彼女が実にしつかりした、腹もあり分別もある、聡明な婦人であることを看取した。彼女の頭は恐ろしく鋭敏に働いて、ほんの一寸した片言隻語の間にも冴えた閃めきを見せるのであつた。思ふに彼女があれ程の評判を取つたのは、その美貌の故であらうけれども、或は一層多くその聡明に負ふところがあつたかも知れない。大阪の八千代、―――後の菅楯彦氏夫人なども、非常に聡明であつたことは今も土地の人々が噂をするが、事実名妓と云はれる者に馬鹿な女は少いやうである、あつてもそんなのは、決して声名を長く持続することが出来ないのである。
さて私は、二人の歓待を受けてその晩はとう/\泊り込んでしまひ、明くる日の夜、風間氏の家を辞した。(当時私は本郷にゐたのか、向嶋にゐたのか、これも確かな記憶がない)で、そのまゝ真つ直ぐ帰つてしまへば何も問題はなかつたのに、恒川の家の近所に岡本一平君夫妻が住んでゐたものだから、ついでに一寸立ち寄つたのがつい長つ臀になつて、又もう一と晩そこで厄介になつた。何しろ親父と喧嘩をして自分の家へ寄り付かず、友達の別荘や下宿屋の二階にごろ/\してゐた時代であるから、こんなことは始終だつたのである。ところで私は、止せばいゝのに一杯飲んだ勢ひで、恒川の事件を岡本夫婦にしやべつてしまつたのであつた。と云ふのは、岡本夫人かの子女史は大貫の妹でもあり、気心もよく分つてゐたから、此処で話すのは構はないと云ふ心持があつたのだらう。一平君もかの子夫人も、勿論面白がつて聞いた。
それには私が、大いに彼等の感興を催すやうに弁じ立てたことも事実で、私一流の奇警な観察や、意地の悪い解釈なども加味されてゐたに違ひない。(古い友達は皆よく知つてゐてくれるだらうが、私は元来座談が得意で、感興に乗ると巧妙な話術を駆使して果てしもなくしやべる方であつた。それが今日のやうな話下手になつたのは、江戸つ児の軽佻浮薄な癖がしみ/″\厭になつて、中年頃から自分で自分をたしなめるやうに仕向けたせゐである。しかし此の頃は、談論風発した青年時代が頻りになつかしい。かう話下手になつてしまつては、どうも淋しくていけないし、文章などにも影響する所がありさうに思ふ)尤もその時、恒川から他言を禁ぜられたことを話して、確かに夫妻に口止めをした覚えはある。然るに、それが驚いたことには、翌々日の朝日新聞にすつかり出てしまつたのである。それも事実の通りでなく、変に恒川に反感を持つた書き方で、「青年小説家の泰斗」たる「谷崎氏」が旧友のために一と肌袒いで金を作つてやつたと云ふ風に、私ばかりがひどく器量を上げてゐるのである。これは云ふまでもなく、その時分から朝日新聞社の社員であつた一平君が、なるべく私に花を持たせてくれたのであらう。一平君は漫画家であるから三面記事に責任はないやうなものゝ、ニユウス・リユウ百パーセントの話を聞いては、新聞記者的良心が黙つてゐられなかつたので、事件を素ツ葉抜く代りに、せい/″\私に儲け役を振つてくれたのであらう。それにしても私の当惑は非常であつた。全く恒川一家の人々に顔向けがならない気がした。単に秘密を洩らしたゞけなら詑まりやうもあるけれども、あの新聞の書き方では、友人を陥れて自己宣伝をしたと取られても仕方がないし、恒川一家の人々がさう取つたであらうことは余りにも明瞭だつた。私もそんな薄ツぺらな人間と思はれては立つ瀬がないが、何分平素の悪党がりが祟つてゐるので、かう云ふ時には弁解の道がないやうに思へた。それでも今の私ならば一往説明に出向いたであらうが、見す/\軽蔑されることが分り切つてゐるのに、なんとしても頭を下げて行く気にはなれなかつた。萬龍夫人の、あの悧口さうな眼を想ふと、とてもそれがイヤであつた。さればと云つて、一平君の所へ捻ぢ込む料簡にもなりかねた。私は岡本夫妻に対して一時はひどく腹が立つたが、考へてみれば、彼等を責めるより前に自分を責めるのが順序であり、それに、矢張心の奥底には恒川に対する妙な反感が潜んでゐて、一平君の素ツ葉抜きを痛快に感ずる気持もないではなかつた。そして私は、「時がたてば分る」といふ風な、持ち前のづう/\しさと横着とから、それきり何の手段も取らずに、一日も早くその不愉快を超越するやうに努めたのであつた。
恒川の方は、その後金の問題も巧く解決がついたと見えて、首尾よく思ひを遂げたことは世間周知の通りである。(或は新聞で一時にぱつとなつたことが、却つて形勢を有利に導いたのかも知れない)が、私は絶えず心中に済まないことをしてゐると云ふ自責の念を抱きながら、彼等の新家庭へ慶びを述べに行くことも出来ず、厳父が逝去された時にも葬式に立ち合つた覚えがない。そして大正五年(?)の秋であつたか、或る日突然恒川の訃報を受け取つたのである。お通夜の晩に、私は彼の柩の前で久方振に萬龍夫人と言葉を交した。彼女は悲しみに窶れてゐたけれども、昔の色香は少しも衰へてゐなかつた。私は折柄来合はせてゐた生田葵山君に、故人の最近の模様などを尋ねながら、一時間ばかり棺前に侍つて引き取つたやうに記憶してゐる。
大貫晶川の亡くなつたのは、恒川よりも更に五六年早かつたから、多分彼は萬龍事件を知らなかつたであらう。(大貫は面疔、恒川は慢性中耳炎で、孰方も急劇な死に方だつた)しかし大貫のことは、前に何かに書いたこともあり、私よりは岡本かの子女史の方が適任であらうと思ふから、茲には略する。ついでながら断つて置きたいのは、勿論私は岡本君夫妻に対し、あの時の事をさういつ迄も根に持つてゐた訳ではない。あの新聞記事の出所は、果して岡本君であつたか、なかつたか、今更そんなことを詮議立てする必要もない。唯思ひ出の一端を語つた迄である。多少夫妻に迷惑な点があつたかも知れないが、まあそのくらゐはお馴染みがひに許して戴く。