Chapter 1 of 4

『此方の方に来たことはあつて?』

『いゝえ』

『でも、小さい時には遊びに来たことはあるでせう? そら上水の岸で、つばなや何か取つたことがあるぢやないの?』

『さうだつたかしら?』

妹の種子は考へるやうにして言つた。

『あなた忘れつぽい人ね。そら、四国にゐる姉さんがまだ家にゐた時分よ。よく一緒に行つたぢやないの? ほら、あの肥つた喜代子さんといふ姉さんのお友達と一緒に――?』

『さうかしら?』

『忘れつぽい人ね?』

常子は呆れたやうに、投りつけるやうに言つて、そのまゝ静かに歩いた。かれ等の前には肥つた半白の父親と背の低い丸髷の母親とが並んで歩いて行つてゐた。田舎の街道は車や荷馬車で混雑してゐて、自動車がやつて来る度に、白い埃がぱつとあたりに漲るやうにつた。道の両側には、新たに建てたらしい二階の長屋が、まだ半分は空屋で長く/\続いてゐた。空地には草などが深く繁つてゐた。

父親も母親も何か頻りに話し合ひながら並んで歩いて行つてゐるのが、あとから行く種子達にもそれとわかつた。をりをり父親は母親の方を見た。母親も何か頻りに熱心に話した。

姉の常子の方には、その両親の話してゐることの何であるかが少しはわかつたが――また父親が例の感慨深い口吻で、姉の最初の恋愛の失敗について、その結果を言ふではないにしても、半分はそのために幼いものの生命を短くしたことを話し出してゐるのであるのがわかつたが、種子には何が何だか少しもわからなかつた。今朝朝飯を終へて、机のところでぼんやりしてゐると、父親が傍にやつて来て、それ! 早く支度をしろ! お前も一緒に行くのだ! とだしぬけに言つた。何処に行くのか? と思つたら、七年前に死んだ多喜子の墓に行くのだといふことであつた。多喜子の墓! 今までにはついぞさうしたことは言ひ出されたためしがなかつた。否、かれ等の家の内に於ては、多喜子といふ名は小さな声でしか話されなかつた。その話が出さうになると、いつも母親は手を振つてそれをとめた。種子は不思議な気がした。その多喜子の墓にお詣りに行くのなどはめづらしいと思つた。『さうですとも、一度ぐらゐお詣りに行つても好いと思ひますわ。何もあの子がわるいといふのではないのですもの……。さういふ不仕合な運命のもとに生れて来たのがわるいだけなんですもの……』こんなことを母親の言つてゐるのをも種子は耳にした。

その時のことは何が何だかわからなかつたが、姉のことが新聞に書かれて、その顔が大きく出てゐたのを種子は子供心にも薄々覚えてゐる。家でも大騒ぎをして、親類の人達が大勢出たり入つたりしたのを覚えてゐる。母親の泣いたのを覚えてゐる。否、その多喜子が何処かで生れて、それが時々田舎の里親らしい女に伴れられて家にやつて来たのを覚えてゐる。しかも種子はその時以後、姉に逢つたことはないのである。縁があつて姉はその後四国の人に嫁ぎ、今では幸福に暮してゐるのは知つてゐるけれども――。

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