Chapter 1 of 4

春の休みに故郷に帰つて来てゐる大学生のNのゐる室は、母屋からはずつと離れたところにあつた。かれはそこで毎朝早く眼覚めた。野には雲雀が揚つてゐる。茫つとあたりは霞んでゐる。隣の垣の花が朝日の光のまだ当らない空に模様か何ぞのやうになつて見えてゐる。小径の草には露がしとゞに置きあまつた。

かれはいつもきまつてその小径を通つて、裏門のかき金を外して野の方へと出て行つた。草に雑つて微かに匂つてゐるすみれや、田や畔に一杯に咲いてゐるげんげや、緑の中に白くかたまつてゐる馬こやしなどがやがてかれの前に現はれ出した。

かれはをりをり立留つて大きく呼吸した。

かれの心は恋に満たされてゐた。しかしこれと言つてきまつた相手があるのではなかつた。かれの前にはまださうしたものはあらはれて来なかつた。かれはいろいろに想像した。いろいろに当てゝ想像した。(もし此処にさうしたものがあらはれたとする。そしてそれにこの身が引き寄せられたとする……。さうしたら何んなにこの世が楽しくなるだらう。全で変つたものになつて見えるだらう)こんなことが絶えず頭を往来したが、しかもさうした想像だけで、Nは何年かを過したことをくり返した。

かれは都会の町の角や、電車の中や、停車場の一隅などで出会つた美しい色彩を絵巻でも見るやうに一つ一つそこに展げて見たことを思ひ起した。中でも電車の中で見た紫の地に蝶の飛模様のついてゐるコオトを着た娘がいつまでもかれの頭にこびりついてゐた。かれはそれを紫の君と言つた。何遍も何遍もかれはそれをその日記の中に書いた。

否、その日記の中にしるしつけた色彩は決してそれに限らなかつた。時には、わが月草の君とも書けば、山桔梗の君などとも、また時にはわが太陽よとも書いた。しかも今までかれは何等の接触をさういふ娘達に持つたことはなかつた。かれはいつもさう書いた。さうした幸運から離れてゐた。

その癖、その友達の中には、眼をはるやうな美しい恋をしてゐるものもないではなかつた。Sといふ友達は、風采もさう揚つてゐないのに拘らず、常に共にあちこちを歩くことの出来る娘を持つてゐたし、Kといふ青年は、人知れない接触をある金持の娘とつづけて、甘い蜜のやうな言葉をつらねた手紙を遠慮なくかれに展げて見せたこともあつた。『何うも矢張運見たいなものだね。ひとり手に出来るんだね。拵へようとして出来るものではないよ』本当にそれに触れたものでなければその話はいくら話してもわからないよと言はぬばかりの調子で、さも得意さうにその友達の話したことが今でもはつきりとそのNの頭に残つた。

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