Chapter 1 of 4

しんどい。

火のない掘ごたつに向いあったまま、老夫婦はだまりこんでいた。思いは一つなのだが、今はそれを口に出して云いあう気力もない。ほかにだれがいるというわけでもないのだから、今こそ、ぶちまけた相談をしてもよい筈なのだし、しなければならない時なのに、言葉が出てこない。今更、あれこれとたしかめあう必要もないといえばないのだが、ぐっと勇気をふるって腰の骨をのばさねばならないような事態に、改めて直面してみると、やっぱりしんどさが先きに立つ。年寄りらしくぜい肉を落しきったような痩せた夫は、白髪の交った眉毛を、くぼんだ眼のまぢかに寄せて、巻煙草をつまんだまま火もつけず考えこんでいる様子だし、人並はずれに太っている妻は、こたつ板に頬杖をついたまま放心したようにまばたきもしない。よっぽどしんどいらしい。

やがて夫がつぶやいた。

「虫が鳴いてる」

妻は暗い部屋に気がついたが、あかりをつけに立つのも大儀だった。近年病気がちの妻は、こんなとき一そうからだが重たくなるのだった。いつもなら身軽な夫が用を足してくれるのだが、その夫も今日は立ち上ろうとしない。そしてまたつぶやく。

「虫が鳴いたりすると、よけいかなしい」

妻に聞けというのだろうが、重ねてのつぶやきに、妻はふっとおかしさのようなものが涙と一しょにこみ上げてきた。いかにも実感のこもったそのつぶやきを笑う気はなかったのだが、四十年もつれそってきたその永い年月に、ついぞ聞いたこともない感傷的な言葉が、日頃はそんな言葉を使わないたちの夫の口から出てきたのがおかしかったのだ。くそまじめであるだけに、夫にしては実感そのままにちがいない。妻はそれで気もちがほぐれ、スイッチをいれに立った。

「かわいそうだった」

あかりに背を向けて涙をふきながら、

「彼の前では、うっかり涙もこぼせないんですもの。思いつきのうそばっかりならべ立てて気休め云って――」

「少しは病気のこと、気がついてるんじゃないのかね」

「つかない筈がないわ。でも気のつかないふりをしてるんじゃないかしら」

「ふーん」

「口がくさっても、云えないものね。本人ももしやと思っても口に出せないのね」

老夫婦はさっき方、胃潰瘍のあとが思わしくなくて、二度めの入院をしている娘婿を病院に見舞ってきたのだった。そして朝に晩に病勢の深まるらしい様子に気を重らしていた。今日は四十二度にも上った熱がやっと注射でさめたばかりだという病人は、それでもまだ喘ぎながら、

「熱の、原因が、わからないんです」

と、それさえわかれば毎日の苦しみからのがれられでもするかのように、口惜しそうに訴えた。聞きとりかねるほど力のない声で、かわいた唇が今にもさけて血がふき出しはせぬかと思うほどかさかさになっていた。そしてあとはもう目を閉じたまま、うつらうつらの状態である。食慾も全然ないのだと、附添っている娘はいい、声をひそめて、

「おこってばっかりいるのよ」

とかなしそうにいった。

「おこられている間が花よ」

「うん」

おこらなくなったらおしまいなのだし、それがもうせまっているのだから、覚悟をしなさい、とはいくら娘にでも云えない。それにしても、これが二十日前には小型テレビを喜びながら入院したあの気さくな病人だとはとうてい思えない。今はもうそのテレビを見る元気さえなく、がたがたふるえ出したり、高熱に意識を失ったり、うつらうつらと眠ったり、そのくり返しの合間を輸血とリンゲルで、ようやく保っているのだ。そして、それが好転する見込みは今のところ全然立たない。それどころか、苦痛と衰弱は加わるばかりらしい。

「もう、うちへ帰れないような気がする――」

そんなことまでいい出した彼に、

「なに、いってんの。私でさえもよくなって帰ったのに、若いあんたが、馬鹿なこといいなさんな」

その「私」もごく最近まで同じこの病院に病を養っていたのである。

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