18 そして、きょう ぼくは彼女を見たんだ
〈ヤンガー・ガール〉
ラヴィン・スプーンフル
「じぶんで集合かけた奴が、なんだって、遅刻するんだよ」
ヴィデオコーダーを運んだのは、三〇分もまえのことなのに、まだ手のふるえがおさまらないのに腹を立て、慶一は口をとがらせながらワラにいった。
「知りませんよ」
一〇三のヴェランダにおいたモニターの垂直同期を調整しながら、そうこたえたワラは、怒っていないどころか、むしろ高志の遅刻を歓迎しているらしい。
「けっこう、むずかしいもんだな」
カメラのグリップをにぎった山崎が、ファインダーをのぞくために曲げていた腰を伸ばした。
モニターの画像に納得したワラが、山崎をわきに押しやり、ファインダーをのぞきこむ。
グリーンの地にオレンジのストライプという悪趣味なタクシーが、桜の花びらを捲きあげながら、校舎からの坂道をくだってきて、玄関のまえでとまった。
「やっぱりさ、これを追っかけるのはムリだよ。フィクスで撮るしかないね」
と、ワラはひとりで納得してうなずいた。
ここからだと、坂をくだる車が玄関まえにたどりつくまで撮るには、「く」の字の鏡像を描くようにカメラを動かさねばならないが、トライポッドのジョイントは、そんな動きをするようにはできていない。
折り畳みイスにおかれた、二巻の三〇分テープの箱を見て、慶一は情けなくなった。去年の予算ののこりで買ったものだが、これだけで一万円もする。
「はじめようか」
「そうしようぜ。遅刻した奴がいけないんだからな」
そういう山崎のノンシャランな口調に、いちおうは高志に遠慮していたワラも安心したらしく、カメラを水平にもどし、坂を見わたせるように、ズームをいっぱいに引いた。
体育館建設予定地の土盛りのかげから、また車があらわれ、ワラが躰を緊張させる。
「タクシーか」
ファーストショットを決めたいワラは、セドリックのタクシーを見送った。
テープの箱を床におき、折り畳みイスに腰をおろしながら、山崎が口を開く。
「それにしても、腹へったなあ」
「メシをもってくとかいった奴が、遅刻するからいけないんだ」
慶一が腹を立てているのは、そのせいでもあった。
二年生の帰寮刻限は午後二時なので、きょうの昼食などというものはない。高志は、正午に帰寮しろと電話してきたとき、メシは用意するといっていた。
問題は、もう一時になるというのに、その高志がすがたを見せないことだ。
「ベントリー!」
ワラの声に、慶一と山崎が目をあげた。シルヴァーグレイのベントリーが、ゆっくりと坂をくだってくる。かすかな音をたてて、テープが回転をはじめた。
ワラはいったんテープをとめ、ななめ左下に向きをかえ、玄関の周囲が視野におさまったところで、またテープをまわした。
ショーファーより早く、後部座席の人間がおり、それを一瞥して、慶一は山崎と顔を見あわせた。
「やっと登場」
高志だ。たぶん、坂をおりながら、一〇三のヴェランダに三人が陣どっているのを見たのだろう、高志はむこうをむいたまま、トランクのふたをあげている。
ショーファーが後部左のドアを開き、つばの大きな白い帽子がふわりとただよい出て、それを追うように長いヒールが突きだされた。
顔はおろか、躰だって見えたわけではないが、慶一は感じとっていた。この人は高志の母親で、そして美しい人にちがいない。
なにか命じられたのか、ショーファーはいちど動きかけてとまり、二度三度とうなずき、急ぎ足になって反対側にむかった。
高志は、そうしたことには無頓着に、さっさと小ぶりのベージュのスーツケースをトランクから出し、もう、玄関にむかって歩きはじめている。
白と黒が領土を張りあって、あげくのはてに世界を切り裂いてしまったような、そんなドレスをまとった母親がおりたち、「高志さん!」と強い口調で、ひとりで玄関に入ろうとする高志を呼びとめたのだけは、慶一にもききとれたが、そのあとにつづいたお小言のほうは、よくきこえなかった。
高志の母親が、ようやくヴェランダからでも見える方向に顔をむけ、山崎が遠慮がちに口笛を吹いた。
「スゲエ」
という山崎の賛辞に、慶一が同意しようとしたとき、後部右のドアが開き、肩と豊かな髪がのぞいた。
「令子ちゃんだ! なあ、おれ、ここにいなくてもいいよな」
ふたりの返事をきくまえに、慶一はドアに手をかけ、室内に駆けこんでいた。
風のように一〇三を駆け抜け、ワックスをかけたばかりの廊下に手こずりながら、それでも、ほんの十数秒で慶一は玄関にたどりついた。
「高志は二〇二。ワラといっしょ。おれ、二一二。西棟だよ。向かいあわせ」
事務室の窓口に手をかけた高志に、慶一が声をかけた。
「うるせえな」
部屋割表を受けとるために、高志はなかの職員に声をかけた。
「遅刻だからね」
「わかってる」
令子のことが気になるので、慶一は高志の無礼を、とりあえず不問に付すことにした。
金ボタンの紺のブレザー、紺のボウタイ、タータンチェックのスカート、白いハイソックス、茶のローファーというかっこうの令子は、母親にうながされ、玄関のほうに足を向けた。
マーキーの下に入り、目をしばたたいた令子は、ようやく慶一のすがたを認めた。
「いらっしゃい」
そういう慶一に、令子は小さく首をかしげ、微笑みであいさつした。
部屋割表を受けとった高志は、外をまわる手間をはぶき、スリップオンを履いたまま玄関からあがり、慶一のわきをすり抜けて、下足室にむかった。
「お母さん、高志兄さんのお友だちの滝口慶一さん」
母親をかえりみて、令子が紹介する。浅井夫人はかすかな微笑を泛かべ、慶一を見た。
「令子の母です。なにか、高志がいつもお世話になっているようで、こんどはよろしくお願いします」
時計を十年逆行できるなら、ひょっとすると、浅丘ルリ子といい勝負ができるかもしれない。慶一は、山崎を呼んで、近くで見せてやりたくなった。
「はあ、あの、こちらこそ。えーと、よろしくお願いします」
といって頭をさげながら、慶一は、なんか、ヘンだな、と思ったが、あたりをはらうような、この親子の華やかさに圧倒され、ただヘドモドした。
下足室の扉が開き、スニーカーに履きかえた高志が飛び出してきた。
「高志さん」
と呼びとめる母親を見もせず、高志がうるさそうにこたえた。
「なんだよ、いそがしいんだよ。柴田、あれ」
ブルーのスーツケースをもって、親子のうしろに控えていたショーファーが、あ、すみません、と高志にあやまって、スーツケースをおろし、車のほうにひきかえした。
「あなたが紹介してくれなければ、いけないじゃありませんか」
「令子が紹介したんだろ? じゃ、いいじゃねえか。さっさと用をすませて、帰れよ」
よそのうちのことだとは思ったが、さすがに慶一も黙っていられなくなった。
「そういういいかたは、ないんじゃない?」
口を開きかけた高志は、ちょっと頭をふり、なにごともなかったような顔をした。
弟の失策をかばう兄のような気分になって、慶一は母親にあやまるような微笑をむけ、浅井夫人もおなじように、弁解するような笑みを慶一に返し、しようのない人、とつぶやいて、窓口に歩みよった。
「令子ちゃん、まだ帰らなくていいんでしょう?」
ちょっとビックリしたような顔をしてから、令子はすぐに小さく笑った。
「ええ。慶一さん、ずいぶん伸びましたね」
と、令子はじぶんの髪の裾に手を伸ばした。
ショーファーがもどり、高志に紙袋をさしだした。
「おまえ、メシ食ったのか?」
「だれだよ、メシもってくるっていった奴は」
「だから、もってきたじゃねえか」
手にした紙袋を示し、高志は、さあ、というように首を階段のほうに倒す。
「だって――」
令子ちゃんたちはどうするんだ、という慶一をおきざりにして、高志はもう階段にむかっていた。
浅井夫人は、まだ腰をかがめ、職員となにか話している。
「ごめんなさい。兄さんはひとりでくるつもりだったんですけど、わたしと母がひきとめたんで、すこし遅くなっちゃったんです。それに、お店が混んでて、なかなかできなくて……」
「ああ、ハンバーガーか。なんだ、そうか。気にしないで。それより――」
はあ、さよですか、わかりました、といって浅井夫人が令子にむきなおった。
「令子。新入生の受付は三時からだから、まだ、準備ができていないんですって。そこがサロンだそうだから、ちょいと待たせてもらいましょう」
「――新入生?」
呆気にとられて、慶一は令子を見つめた。
「ええ。兄さん、なにもいわなかったんですね」
「高志さんたら、どこへいっちゃったのかしら。ホントに頼りにならないひとね……」
浅井夫人は、ちょっと周囲に目をやり、すぐにあきらめ、では改めて、という思い入れで、身じまいを正し、慶一に笑みをむけた。
「慶一さんとおっしゃいましたわね。高志はあのとおり当てになりませんから、ひとつ、この子のことをよろしくお願いします」
なにかこたえなければ、とは思うものの、慶一はただ目を白黒させた。
令子はおかしそうに笑みをもらしてから、母親にならって、初対面の教師にでもあいさつするように、ていねいに頭をさげた。
「そういうわけですので、よろしくお願いします――滝口センパイ」